いよいよ関所に近づく
慧海は6月7日早朝に寺を出発した。主人の厚意で5日ほど馬で送ってくれることになった。
ギャンチェの町を抜けてツァンチュ川を渡り、南方に進むとネーニンという尼寺があった。ここにはわずか7歳の生きた解脱仏母がいるそうだ。この寺の前で昼を食べ、南の山中へ40キロほど行くと、テンバの故郷に着いた。小さな寺には彼の兄弟も居て、この日ばかりはだいぶ酒を飲んだ。
テンバの兄が「あのラマの色の白さはモンゴル人とも違う。西洋人ではないのか」と、慧海が隣室にいるのを忘れて話をしている。テンバは「いや、あの人は天和堂の主人と懇意の中国人だ」と並べ立てた。
翌朝、出がけに兄はテンバに何か耳打ちをしていた。南に30キロほど進み、カンマ駅で一休みしていると、慧海の荷物を載せた中国の一行に出会った。
テンバはその荷物を見て「天和堂へ預けていた荷物を運ぶとはどういうことか?」と怪しんだようで、慧海に「これから5日ほどで着くパーリーの関所は取調べが非常に厳しい。インドに永住しないという保証人がいなければ旅券をくれないだろう。別の道を行ったほうがいい」と言ってきた。そして、もし酒代をくれれば、抜け道を案内する。あるいはブータンに出る道を通ればよいとも。
慧海は「そんな危険な抜け道を通る必要はない。この後は決してそんなことを言うな」と言い聞かせると、幾分かは不安がとけたらしい。もし慧海がテンバに金をやって抜け道の案内を頼んだなら、おそらく慧海が寝ている隙に逃げていったに違いない。
それからまた20キロほど進んでサールー村で休んだ。8日も深夜に出発して12キロほど行くと、高原に出た。16キロほど登ると大きな池に出て、川沿いに進むとラハム・ツォ湖に出た。慧海たちは湖を左回りに進んでパーリーに向かった。
この辺りはヒマラヤ山脈の雪峰が並んでいる。これほど美しい景色は他の国では見る事ができないだろう。夏なので山のふもとには草が生え、好牧場になっている。夕暮にラハムマェ村へ着いた時、三日月が空に掛かっていた。
村では牧畜をしている家の世話になった。毘盧遮那仏が座っているようにそびえる山と、その大仏を供養する白衣観音のような雪峰が見え、天然の曼荼羅の景色が広がっていた。湖では漁ができるので、夏は漁師、冬は乞食をして暮らす人が多く住んでいるそうだ。