チベット退去の意を決す
商隊長は心配顔でツァ・ルンバを訪ねた。法王の兄との話は言わないつもりだったが、酒を勧められるとやけ酒のようになり、酔いが回るとすっかり話してしまった。
商隊長は翌朝、セラに慧海を迎えに行ったが、慧海は大蔵大臣宅にいた。ツァ・ルンバ夫婦も商隊長が帰ってから心配のあまり眠れず、その翌日に大蔵大臣宅へ使いをやったが、慧海は外出して不在だった。
慧海の姿が見えないので、夫婦は大いに気をもんだ。夫婦は血眼になって慧海を探したけれども見つからない。その夕方、慧海がふいに遊びに行くと、二人は涙を流して「仏様があなたを導き下さったのだ」と泣きついてきた。
今後の方針を尋ねられたので、慧海は「法王への上書も準備して、何が起きても心配ないようにしてある」と告げた。するとツァ・ルンバは慧海が神通力で予知していたかのように思って驚き、そして「法王に上書を差し上げるというが、法王の兄の言うようなことになれば、我々はたまらない」と嘆く。そこで慧海は考えを四つ示した。
一つ、もし慧海が捕まっても、関係者に害が及ばないと分れば法王に上書を渡す。
二つ、関係者に害が及ぶのならば上書は渡さない。
三つ、上書を渡さずインドへ行って、かつ関係者も無事なら上書を渡さない。
四つ、関係者に災いが及ぶようならインドには行かず、チベットにとどまって上書を渡す。なぜなら慧海がチベットにいてもいなくても災いが及ぶなら、その苦難を知人と共に受けて死ぬのが慧海の義務だと思ったからだ。
そして慧海は例によって座禅して取るべき道を決めることにした。さらに師匠のガンデン・チー・リンボチェにも聞くつもりだ。ただし、日本人云々ということは言わず、慧海がこれから巡礼に出かけた場合、病人の利害はどうかと判断を願う。慧海の結論と違うなら、ツェ・モェリンのラマにも頼んで判断を請うつもりだ。
座禅を組んで慧海が出した答えは、チベットにとどまっていては、上申してもしなくても害があるということだった。そして他国へ去れば、関係者に災いはないと判断した。
翌朝、師匠に問うと、「お前が巡礼に出かけると、今まで苦しんでいた人が、苦しまなくなるようだ。これはこれまで食えなかったラサ府の医者のことだろうか」という話だった。
慧海の心は決まった。これが師匠との最後の別れになった。