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超訳 河口慧海「チベット旅行記」  作者: Penda
第二章 知識編
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与論


 ロシア政府がシベリア鉄道を利用してチベットに兵隊を送るとしても、ラサまでは少なくとも5、6カ月はかかる。さらに野蛮で政府の命令も聞かないアムドやカムの集落があるので、兵隊は攻撃されかねない。

 広大なチベットの地形を知るのも困難だ。いかにロシア兵が強くて武器を持っていようとも、地の利のある現地人を征服してすぐにラサに入ることは難しい。

 それが分っているツァンニー・ケンボは未来の仏法の大王がロシア皇帝だとこじつけて吹聴している。だが、この頃また悪い噂が立ってきた。


 もともとチベットは開国以来、中国に心服している。この国に仏教をもたらした王は中国から妃を迎えたので、チベット仏教の母が来られた国だと中国を頼りにする。中国が弱体化しているのは事実にしろ、国民感情に変わりはない。

 中国には文殊菩薩がおり、その化身が中国の皇帝であると信じられている。預言があったとしても保守的なチベット人の信用を得るのは難しく、政府内部でもロシア政府を快く思わない者もいる。

 僧侶も着実な考えを持つ人に付く人が多く、宰相のシャーターのような仕事をする人には悪感情を抱く。大学の僧侶は、テンゲーリン大寺のテーモ・リンボチェを殺されたと、憎んでさえいる。さらにシャーターは神おろしのようなネーチュンを好んで勧めるので、少し学識ある者はひどく嘆き、なおさら嫌悪を抱いている。

 ツァンニー・ケンボは政府、僧侶、人民を掌握しているように見えて、その裏側では排斥する動きも出ているのだ。それゆえロシアとの外交はまだうまく成り立っていないのではないかと慧海は考えている。


 英領インド政府とチベットは50年前まではよい関係を築いてきた。サラット師が来る前なら、インド領の現地人はチベットに入国できた。その頃はヒンドゥーの修行者がよくチベットの霊場を巡礼していた。

 だがサラット師がチベット内地に入り、見聞した結果を公にした。そして英領インド政府は保護国のシッキムと、チベットとの国境を定めようとした。

 このとき、チベット政府は例の気狂いのネーチュンの言うことを聞いて、自分の領地ではないシッキムの国境に城を築いた。

 シッキムは元チベットに服従していた国だったので、チベットはシッキムを占領する権利はなくとも、英領インド政府と半々にしようくらいのことは思ったかもしれない。


 チベット政府が無法にもシッキムに城を築いたので英国と戦争が起こり、城は英兵が破った。ちなみにチベット人は地の利があるのに英兵を恐れて十分働かず、大将は博打ばかりやっていたそうだ。チベット人は大事に臨む時、度量があり、横柄に構える気風がある。大陸の人種らしい気質だ。

 戦いに勝った英国は、領土を広げ、国境をニャートンまで進めて折り合いを付けた。これで英領インドとチベットの国境は定まったが、英国の外交的には失敗といえるだろう。最も彼らの恨みを買う戦いをしたのだから。

 英国はわずか20,30マイルの土地を失って、そこに城を建てられようと、威厳が損なわれはしない。だから話し合いにとどめて、ロシアのように機密費でも使ってチベット人に恩をきせ、貴族を籠絡していれば、今頃、ラサ府の景勝地に英国人の別荘がいくつも建てられていただろうに。


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