第2話 特定班・キャプテンスワイプ
キーボードの打鍵音はしない。
指がガラスを叩く小さな音だけが、ネットカフェの受付カウンターの奥で鳴り続けている。
青みがかったストレートの長髪。前髪から覗く視線は、手元の六インチの画面に固定されている。
「指宿さん、九番ブースの掃除した?」
「さっき終わりました」
指宿藍は画面から目を離さない。顔も向けない。親指の動きは異常に速い。
同僚はため息をついた。
壁の上に設置されたテレビから、夕方のニュースが流れている。
『光が丘市では、認知症高齢者の行方不明届が過去最多を更新しました。介護人材不足も深刻化しており――』
「最近多いよね、こういうの」
同僚が返却された漫画をカートに乗せながら言う。
「うちの親もそろそろ心配なんですよね。指宿さんはどう?」
「ま?」
「……ま、って何?」
藍は返事をしない。SNSのタイムラインを更新している。
テレビの画面が切り替わる。今度は、ある家族の個別取材だ。
『今朝から、七十八歳になる祖父の行方がわからなくなっていて……』
画面には、目を真っ赤にした十代の少女が映っている。孫娘だ。今にも泣き出しそうな顔で、カメラに向かって頭を下げている。
『おじいちゃん、早く帰ってきて……』
藍の親指が止まる。
視線が、手元の画面からテレビへと移動した。
少し首が前に出た姿勢のまま、藍は画面の中の少女を見つめる。
「……かわいそう」
ぽつりと呟いた。
「え? なんて?」
「トイレ」
藍は立ち上がり、ポケットにスマホを突っ込んで駆け出した。
「ちょっと、レジ任せていい!?」
同僚の声を背中で聞き流し、女子トイレへ飛び込む。
一番奥の個室に入り、鍵をかける。便座の蓋を下ろす。
藍は息を吐いた。
彼女の身体を、チカチカとしたデジタルノイズが包み込む。
青い光が狭い個室を満たした。
鮮やかなブルーの装甲。液晶パネルのような光沢を持つスーツが、彼女の細身の身体を覆う。
背中にはホログラムのマントが揺らめき、腕や脚にはUIパネルが展開される。
顔はマスクに覆われているが、造形は藍のまま。
キャプテン・スワイプ。
それが、彼女が情報の海を泳ぐ時の名前だった。
目の前に、半透明のウィンドウが浮かび上がる。常時表示のインターフェース。
藍は空中のウィンドウを指でタップした。
『光が丘市で行方不明のおじいちゃんを探します! 情報求む! #拡散希望』
送信ボタンを押す。
よし。
あとは世界中の暇人たちがこれを一斉にリポストし、情報が押し寄せるのを待つだけだ。
……。
数秒が経過した。
……。
数十秒が経過した。
通知のアイコンは、沈黙している。
「ま?」
藍の顔に焦りが浮かぶ。冷や汗が一筋、頬を伝う。
いいね、ゼロ。リポスト、ゼロ。コメント、ゼロ。
全身を覆うデジタルノイズが、チリチリと不規則に乱れる。
目の前の半透明ウィンドウの端っこで、「通知:0」の文字が赤く点滅している。
「なんで。インフルエンサーじゃないからって、スルーすんなし」
彼女は腕のパネルを叩いた。
誰も見向きもしない。社会の残酷なアルゴリズム。
「お願い……!」
藍は両手を前に突き出した。
目を閉じ、大きく息を吸い込む。
目を見開いた。その瞳が青く発光する。
ウィンドウのサイズが一気に拡大し、視界を覆い尽くす。
藍の両手が、空中の画面を恐ろしい速度で撫でる。
必殺技、インフィニットスワイプ。
世界中のタイムラインに強制的に介入し、アルゴリズムをねじ曲げて情報を押し上げる。
ピコン。
最初の音が鳴った。
ピコン、ピコン、ピロリン。
目の前のウィンドウに、次々と通知がポップアップする。
『駅前で似た人見た』
『これうちの近所かも』
『杖ついたおじいちゃん、商店街を歩いてた』
通知の嵐。数字が爆発的に跳ね上がる。
集まった膨大なテキストデータ、写真、動画を、藍の異常な情報処理能力が選別していく。
「……それソースある?」
デマを弾く。古い情報を捨てる。
「あった」
一枚の写真。三分前に投稿された、夜の繁華街の裏通り。
そこに、ニュースで見たのと同じ服を着た老人が小さく写り込んでいた。
藍は、その写真の位置情報データに向かって指を伸ばす。
「タッチ」
指先がウィンドウに触れた瞬間、彼女の身体は激しいデジタルノイズに包まれた。
視界が切り替わる。
ネカフェのトイレの芳香剤の匂いが消え、代わりに排気ガスと焼き鳥の匂いが鼻を突いた。
周囲にはネオンサインが瞬いている。夜の繁華街。
情報の座標へのテレポート。
藍はホログラムのマントを揺らしながら、交差点の近くに実体化した。
遠くを見る。近視だが、ギリギリ見える。
交差点の向こう側。赤い点滅信号の横断歩道に、杖をついた老人がフラフラと足を踏み出そうとしていた。
ニュースの老人だ。
その横から、クラクションを鳴らしながら大型の配送トラックが迫ってくる。
ブレーキの音が夜の街に響く。間に合わない。
藍は慌てて目の前のウィンドウを操作した。
座標指定。スワイプ。
藍の身体がノイズになり、次の瞬間、老人のすぐ横に移動した。
ドン、という風圧。
トラックが走り抜けたのは、藍が老人を抱えて歩道へ転がった直後だった。
「……あっぶな」
藍はコンクリートの上で息を吐いた。
ホログラムの装甲が明滅し、スッと消える。
青い光が収まると、そこにはネカフェのエプロンを着た、少し首の前に出た大学生が座り込んでいた。
老人はきょとんとしている。
そこへ、赤色灯を回したパトカーと、ニュースで見た家族が駆けつけてきた。
「おじいちゃん!」
泣きそうな顔をしていた孫娘が、老人を抱きしめる。両親らしき男女も涙ぐんでいる。
「あなたが、助けてくれたんですか……?」
母親が藍の手を握る。
「あ、いえ。たまたま……っていうか」
藍は目を逸らした。人と目を合わせるのが苦手だ。前髪で目を隠すようにうつむく。
「本当に、本当にありがとうございます!」
家族から何度もお辞儀をされる。
褒められることに慣れていない藍は、頬を引きつらせて苦笑いすることしかできない。
その時だった。
「痛っ」
藍のお尻に、硬い衝撃が走った。
振り返ると、老人が杖を振り上げていた。
「お前誰だ! 人の財布を盗む気か!」
老人は見ず知らずの藍を不審者と認識したらしい。
「ちょ、おじいちゃん、やめなさい!」
家族が慌てて老人を取り押さえる。
「ドロボー! 警察を呼べ!」
老人はまだ杖を振り回している。パトカーはもう来ているのだが。
藍は何とも言えない顔をした。
感謝と理不尽。それが社会だ。助けたからといって、すべてが美しく終わるわけではない。
「……失礼します」
藍はその場から離れるように歩き出した。
数歩歩いて、ふと振り返る。
家族になだめられている老人の背中越しに、孫娘と目が合った。
孫娘は、涙で顔をくしゃくしゃにしながら、藍に向かって小さく口を動かした。
『ありがとう』
手も振っている。
藍は立ち止まり、静かに、少しだけ優しい笑顔を作った。
悪くない。
こういうのも、たまには。
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夜道。
藍はスマホの画面を凝視しながら歩いていた。見事な歩きスマホだ。
『キャプテンスワイプが神回避!』
『おじいちゃん助けたの凄すぎワロタ』
『キャプテンスワイプの中の人はネカフェ店員?』
さっきの救出劇が、偶然誰かに動画で撮られていたらしい。
SNSで爆発的に拡散されている。
通知が止まらない。
ブブブ、ブブブ、とスマホが震え続ける。
藍の目は画面に釘付けだった。
いいねの数。リポストの数。賞賛のコメント。
脳内にドーパミンが溢れ出す。注意力が著しく低下している。完全な状態異常である。
「やば、バズってる……。通知えっぐ……」
彼女の顔には、だらしない笑みが浮かんでいた。
足元なんか見ていない。
周囲の景色も見ていない。
前方のフェンスには『工事中・段差注意』と書かれていたが、彼女の視界には入らなかった。
「あ」
右足が、何もない空間を踏み抜いた。
バランスを崩す。
短い悲鳴。
都市部特有の、底までコンクリートで固められた水の少ない川。
藍はそこへ、スマホを握りしめたまま真っ逆さまに転落した。
鈍い音が響いた。
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数日後。
病室のベッドの上。
藍の右足は、真っ白なギプスで固められ、天井から吊るされている。
全治一ヶ月の骨折だった。
ネカフェのバイトも当分休職である。
窓の外は晴れている。
だが、藍の視線は六インチの画面に固定されている。点滴のチューブよりも充電ケーブルの長さを気にしている。
「……ふふっ」
ベッドの上で、彼女はニヤニヤと笑っていた。
画面にはSNSの通知画面が表示されている。
『通知:999+』
「まじ神。このコメント最高じゃん」
右足は痛い。
社会の歯車から一時的に外れた。
だが、彼女の手からスマホが離れることはない。
人を救うために情報に繋がったヒーローは、結局のところ、その情報への依存から抜け出すことはできないのだ。
藍は、慣れた手つきで画面を下へスワイプし、タイムラインを更新した。
新しい通知がまた三つ、増えた。




