第1話 キャプテン・アルコール参上!
窓際から見下ろす商店街は、金曜の夜を迎えて少しだけ浮かれていた。提灯の灯りがアスファルトを照らし、行き交う人々の話し声が二階の居酒屋まで届いてくる。焼き鳥の煙と、アルコールの匂い。テーブルの上には、空になった中ジョッキが五つ並んでいた。
「主任、まだ飲むんですか?」
向かいの席に座る同僚の佐藤が、呆れたように言った。彼の目はすでに半分閉じかかっている。今日の現場も厳しかった。コンクリートの照り返しと、理不尽な工期。身体の水分がすべて絞り出されたような一日だった。
「これが俺の燃料だ」
赤星は六杯目の中ジョッキを引き寄せた。冷たい琥珀色の液体が、喉から胃の腑へと落ちていく。疲労で麻痺した脳細胞に、アルコールが染み渡る。視界の端が少しだけぼやけ、身体の輪郭が曖昧になる。この感覚が悪くない。いや、これがないと明日も現場に行ける気がしなかった。
その時だった。
「きゃあああああっ!」
通りから、悲鳴が上がった。一つや二つではない。複数の、切迫した叫び声だ。赤星はジョッキを置き、窓の下を見下ろした。商店街の入り口に向かって、十トントラックが猛スピードで突っ込んでくる。ブレーキを踏んでいる様子はない。アーケードの柱までは、あと数十メートル。運転席が見えた。ハンドルに突っ伏すようにして、男が目を閉じている。
「寝てやがる」
赤星は立ち上がった。
「主任?」
佐藤の声を聞き流し、赤星はテーブルの上にあった大瓶ビールを手に取り、一気に呷る。喉が鳴る。胃が燃える。血中アルコール濃度が跳ね上がる。ドクン、と心臓が大きく脈打った。
その瞬間、彼の身体は赤光に包まれた。
現場用の作業着が、メタリックレッドの装甲へと変化していく。肩には酒樽を模した重厚なアーマー。胸の中心には琥珀色に発光するコアが形成され、血管のように全身を走るチューブを液体が巡る。実用的な筋肉が、さらに異様に膨張した。
キャプテン・アルコール。
それが、彼が人を助ける時の名前だった。
赤星は瓶ビールを握りしめたまま、窓ガラスに向かって走り出した。
「細けぇことは気にするな!」
体当たりでガラスを粉砕し、夜空へと飛び出す。眼下には、アーケードに突入しようとするトラック。赤星は迷わず、その正面へと着地した。
ドンッ、という重い衝撃音。十トンの質量が、両腕にのしかかる。鋼鉄の靴底がアスファルトを削り、火花を散らす。止まらない。相手は重すぎる。運動エネルギーが彼の筋力を上回っている。赤星は後ろへ後ろへと押し込まれ、靴底から煙が上がった。アーケードの入り口まで、あと数メートル。
「起きろ!」
赤星はフロントガラス越しに叫んだ。しかし運転手は起きない。口を半開きにして、完全に意識を飛ばしている。目の下には、遠目からでもわかるほどのどす黒いクマがあった。
力が足りない。彼は右手に持っていた大瓶を口に咥え、残りのビールを胃袋に流し込んだ。アルコールが即座に力へと変換される。胸のコアが激しく明滅し、肩の装甲から蒸気が噴き出した。
「おおおおおおっ!」
膨れ上がった腕力で、フロントグリルを押し返す。トラックの前輪が浮き上がった。タイヤが激しく空転し、ゴムの焦げる悪臭が周囲に充満する。ギシギシと車体が軋み、ついにその巨大な鉄の塊は、アーケードの柱の手前わずか十センチのところで完全に停止した。
静寂。そして、割れんばかりの歓声が沸き起こった。買い物袋を提げたおばちゃんが手を合わせている。学生たちがスマホを向けている。赤星は息を吐き出し、トラックから手を離した。同時に変身が解除され、いつもの汗臭い作業着姿に戻る。
バタン、と運転席のドアが開いた。降りてきた運転手は、赤星の顔を見るなり、その場に崩れ落ちた。
「すみません……すみません……っ」
アスファルトに額を擦りつけ、男は泣き出した。
「48時間ぶりの帰宅だったんです……。荷下ろしが終わって、気づいたら……」
赤星は頭を掻いた。怒鳴りつける気にはなれなかった。周囲の大人たちも、誰も男を責めようとはしなかった。みんな知っているのだ。そういう働き方をしなければ回らない社会があることを。男をここで責めたところで、根本的な解決にはならない。彼はただの歯車だ。運悪く、今夜その歯車が一つ欠けただけのことだ。
「まあ、生きててよかったな」
赤星がそう声をかけた時、サイレンの音が近づいてきた。赤色灯を回しながら、パトカーがやってくる。警官が二人、険しい顔で降りてきた。
「君たち、何があったんだね」
赤星は事情を説明しようと、パトカーの方へ歩み寄った。
一歩。
二歩。
三歩目で、世界がぐらりと傾いた。足に力が入らない。右足が左足に絡まる。
『デバフ:千鳥足』
能力を急激に使った代償だった。摂取した大量のアルコールが、遅れて脳を殴りつけた。視界がぐるぐると回る。止まらない。彼の身体が斜め前に倒れ込んでいく。その先には、停車したばかりのパトカーがあった。
彼はそのままの勢いで、パトカーのボンネットに頭から突っ込んだ。
ボゴォンッ。
盛大な音が響いた。重厚な警察車両のボンネットが、見事なすり鉢状にひしゃげる。ラジエーターが破裂したのか、プシューという音と共に白い蒸気が噴き出した。
静寂。先ほどまでの歓声が嘘のように、商店街は静まり返った。泣いていた運転手も、スマホを構えていた学生も、全員が息を呑んでこちらを見ている。
赤星はひしゃげたボンネットから顔を上げた。目の前には、警官が立っている。
警官と赤星の視線が、空中で交差した。三秒ほどの、永遠とも思える沈黙。
「……何をしてるんだね?」
警官は、感情を完全に失った声で尋ねた。
赤星は額から流れる血を拭いながら、ゆっくりと答えた。
「見たまんまです」
その夜、赤星はパトカーの後部座席に押し込まれ、署へと連行された。
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翌朝。頭が割れるように痛い。口の中は砂漠のように乾き、胃袋は重い鉛を飲み込んだように不快だった。六畳一間のアパート。万年床の上で身をよじりながら、赤星はテレビのリモコンを探り当てた。
電源を入れると、朝のニュース番組が映し出された。
『昨夜、光が丘商店街に大型トラックが突っ込む事故がありました。幸い、居合わせた男性が身を挺してトラックを止め、けが人は出ませんでした』
画面には、スマホで撮影された赤星の後ろ姿が映っている。メタリックレッドの装甲。輝くコア。どう見てもヒーローだ。
『しかし男性はその後、駆けつけたパトカーに体当たりをしてボンネットを大破させ、器物損壊の疑いで事情聴取を受けています。警察は、謎の酔っ払いの犯行として……』
赤星はテレビを消した。
「酔っ払いじゃねぇ……ヒーローだ」
誰にともなく呟きながら、立ち上がる。部屋の隅にある小さな冷蔵庫を開け、一番手前にあった缶ビールを取り出した。プシュッ、と小気味良い音が鳴る。
ふと、ちゃぶ台の上に置かれた紙切れが目に入った。警察署で渡された封筒。その中から顔を出しているのは、一枚の請求書だった。
『パトカー修理費 ¥2,860,000』
ゼロの数を指で数える。一、十、百、千、万、十万、百万。
「……高けぇな、おい」
ため息をつきながら、赤星は缶ビールに口をつけた。ぬるい炭酸と苦味が、喉の奥へと滑り落ちていく。同時に、胸の奥で小さな熱が灯り始める。
能力ゲージが上昇する。そして、二日酔いゲージも上昇する。
窓の外からは、今日もせわしない車の走行音が聞こえていた。誰かが無理をして、誰かが尻拭いをして、そうやってこの世界は回っている。赤星はビールを飲み干し、作業着に袖を通した。今日もまた、現場が待っている。




