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マリオネットとスティレット  作者: 北條カズマレ
第六章 英雄の苦しみ
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第四十六話 雪の闘技場(中)

 雪の結晶が窓辺で溶け、建物のガラスに細い筋を作りながら流れ落ちていた。貧民街の街路は白く覆われ、汚らしさがうまく隠されている。昼頃になり雪は止んだものの、街には白銀の毛布が敷かれていた。テルはリリアの救貧院に向かって、積もったばかりの粉のような雪を踏みしめ歩っていた。貧民街は河べりや橋の混乱をよそに、不気味に静まり返っている。昼間は労働者が中央の工場区画に出かけて人口が少なくなる。だからと言って、屋台を開く獣人たちも、スリをはたらく子どもたちもいないのは、なんだか不気味だった。

(まるでみんなが拝魔王教徒になって、橋の暴動に参加しているか、どこか隠れ家に潜っているみたいだ)

 意外にもすんなり救貧院にたどろつき、扉を開けり。古い木の床が軋む音が静寂を破った。内部は薄暗く、かつては神の恩寵を示す光が差し込んでいた窓からは、今は雪の白さだけが映り込んでいた。崩れかけて元は何かもわからなくなった神像の前に、くすんだドレスを纏ったリリアが跪いていた。彼女の背中には、この街の重みがそのまま乗っているようにも見えた。

「子供たちは?」

 テルは静かな声で尋ねた。リリアは振り返り、疲れた微笑みを浮かべた。表情には憔悴の色が濃く出ていたが、それでも彼女特有の優しさは失われていなかった。

「ガズボさんとシャルトリューズさんが闘技場へ連れていったの。ここもどうなるかわからないから……」

 リリアは立ち上がりながら言った。すぐにテルに歩み寄ってくる。心細かったのだろうか。テルもまた安心を感じ、自然に頬が綻んだ。だがリリアの顔はすぐに曇ってしまう。目を向けたのは、奥の部屋……。

 テルがそちらへ足を向けると、古い木製のベッドの傍らでレカが座り込んでいた。小さなベッドには、青白い顔で横たわるキナの姿。そしてすぐ近くで目を赤く腫らしたタンザが膝を抱えて座っていた。

「レカ……」

 テルは彼女の名を呼んだ。レカの姿は昨日までとは違っていた。いつもの鋭さが消え、肩を落とし、窓の外の白い景色をぼんやりと眺めていた。彼女が振り返ったとき、その赤い瞳には見たことのない感情の深みがあった。

「テル……」

 かろうじて搾り出したような声だった。普段の彼女からは想像もつかない、繊細でか弱い響き。タンザはテルに目を向けた後、横たわるキナにまたすぐ目を戻した。

「レカ、タンザ、何があったの……?」

 テルが一歩近づくと、タンザが黒い毛皮に光る黄色い瞳から大粒の涙を落とす。

「テルにいちゃん……全部僕のせいなんだ!」

 タンザの声は涙で濡れていた。

「キナをあの集会に連れて行ったのは僕なんだよ!魔法が使えるから、きっと喜ぶって思ったのに……」

 少年の肩が小刻みに震え、新たな涙が頬を伝って落ちた。部屋に重い沈黙が降りる中、リリアがゆっくりと近づき、タンザの頭に優しく手を置いた。

「タンザくん、あなたは彼女を大切に思って連れて行ったんでしょう?その気持ちは間違っていないわ」

 そしてリリアはキナの額に触れる。その指先は、まるで神の慈悲のようにやさしかった。タンザの涙はとめどなく流れたが、心の叫びは落ち着いたようだった。

 レカは立ち上がり、困惑するテルの肩に手を置き、部屋の外に連れ出す。崩れた神像の前で、二人は向き合った。テルから見ても、レカの顔はとても疲れているように見えた。

「キナはどうしたの……?」

「ああ……ちょっと……。容体は安定してない。リリアが看病してる」

 レカの声には、普段の強さがなかった。

「生きてはいる。ただ、魔力を使い果たしてしまって……目が覚めるかはわからねえ。こういうケースは見たことがある。血と一緒に魔力を取られた場合、そのまま目を覚まさないってのがな」

(なぜこんなことに?)

 テルが尋ねようとした質問も、レカの態度と表情が「これ以上聞くな」と物語っていた。昨晩の爆発と関連があるに違いない。レカとキナの状態、タンザの悲しげな表情、そして救貧院に満ちる緊張した空気。これらすべてが、テルに漠然とした不安を抱かせた。

 ふと、ぼーっと寝不足であることが明らかだったレカの顔が張りつめる。テルの顔を穴が開くほど見つめている。テルはドギマギと困惑がないまぜになって、え、え、と狼狽えた声を出してしまう。レカのグローブを外した白い指がテルの頬に触れる。

「誰だ?」

「は? え?」

「誰にやられた?」

 レカの指がテルの鼻先に突きつけられる。そこには乾きかけた赤い血が少量ついていた。慌てて彼は自分の頬を撫でる。痛みはない。だが少しだけそこには血がついていた。さらに首周りや何やら探っても、傷口は見当たらなかった。どうやら赤いものは自分のものではないようだ。だが納得しない様子のレカの声は低く、危険な響きを帯びていた。

「テル、ちゃんと言え。誰がこれをやった?」

 暗殺者としての彼女の一面が、一瞬だけ表面に浮かび上がる。テルは頭を振った。

「ぼ、僕は怪我してない。大丈夫だって」

「ほんとか? こーゆーのは危ねえこともあるんだぜ? 気づかねえうちによお。どっか大怪我してたら……」

 そう言ってレカは抱きしめるようにしてテルの身体をまさぐった。照はどうしていいかわからず、しばらくバンザイしてされるがままにしていたが、やがて嗜めるように言った。

「いいって、いいって、多分、護衛の屋敷の兵の人か、執事のものだから……石とか、飛んできてたし……」

 言ってる間に、心が痛んだ。自分のために誰かが怪我をした。そのことにいまごろ気づいたという事実がテルの胸を傷ませた。目を逸らすテルを見て、レカも心が痛んでいた。テルはすかさず彼女の手首を握った。グローブをしていないその手は、緊迫感が抜けないのか、冷たかった。

「レカ、もういい。僕は無事だよ」

 レカは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。テルはその仕草に、何かが違うと気づいた。いつもの勢いがない。その赤い瞳の奥には、何か暗いものが潜んでいた。

「すまん。あーし、少し神経質になってんだ」

 レカが言い、小さく肩をすくめた。テルを見るその瞳には、深い疲労と何かの痕跡(罪悪感?)が潜んでいる。

「昨日……何が起きたの?」

 テルの言葉に、レカは押し黙るしかない。これがボスであり父であるタティオンを目の前にしていたのだったら、全力で甘えて泣くことができるはずだった。だがレカとテルの関係は、まだそこまでお互いの痛みの受け止めを信頼し合えるものではなかった。

 レカは本当に絶望しているようだった。綺麗な金髪のポニーテールもくしゃくしゃになって、激しい頭痛でもあるかのように頭を抱えている。

「キナ……この子にとって、この街は生きるに値する場所なんだろうか?」

 俯いたレカの声は震えていた。強がりや虚勢を張る様子は全くなく、ただ素直な疑念を口にしているようだった。

「テル、オメーまで大変な目にあったんだな。そんな、そんな街でよぉ……。キナ、頼む、起きてくれって、本気で願うことができねーんだ」

 レカはうつむいた。救貧院の床の下、はるか下にある地獄でも見つめるように。

「……あーし、クズかなぁ」

 テルはその言葉に胸を締め付けられた。いつも強くて、真っ直ぐで、周りの弱者を守ることを躊躇わないレカ。でもその中にあるモロさをテルは知っている。最近見せてくれるようになったんだ。彼は何か言葉をかけようとしたが、その前に明るい声が聞こえた。

「キナちゃんがこの街で生きる意味を見出せるかは、私たちがこれからどんな街を作るかにかかっているんですよ」

 二人はそちらを見た。リリアの声は小さいながらも、揺るぎない確かさを帯びていた。それは非常時にも失われない彼女の内なる光のようだった。

「私たちはみな、何かをよくしようとして行動する。たとえ一時は絶望に身を委ねても、それすらも何かを変えたいという祈りの形なのよ。人は弱くて無力だけど、その祈りが私たちの生きる力になる」

 彼女はレカを見つめ、真っ直ぐな眼差しで言った。

「お願い、その祈りを否定しないで。今はただ、彼女の回復を祈りながら、私たちにできることをしましょう」

 レカは言葉にならない何かを押し殺すように唇を噛む。ゆっくりとキナの横たわる部屋に行き、その小さな手を握った。その指は冷たく、命の温もりを感じ取るのが難しいほどだった。そしてもう眠気の限界にあるタンザの小さな体を抱きしめる。

「リリア」

 レカはタンザの黒い毛並みの中に埋もれた唇を動かす。テルはその光景を見つめながら、胸の奥に灯る小さな火を感じていた。それは希望と呼ぶには脆く、しかし絶望と呼ぶには強すぎる何かだった。

「タンザも寝かせてやってくれ。昨日から限界なんだ。キナの世話を頼むわ。あーしは……」

 レカは立ち上がる。タンザはレカのいう通り限界らしく、こてんとキナのベッドに顎を乗せた。

「闘技場に行かにゃあ……。キツくいい含めたとはいえ、あいつら子供らを奴隷商人に売り飛ばしててもおかしかねーからな」

「そんな心配はないですよ」

 リリアが歩み寄り、レカの剥き出しの手の甲にそっと触れる。

「それより、レカさんだってとても疲れてるんじゃあ……」

「キナとタンザを頼むぜ!」

 レカの声は、いつもの調子を取り戻そうとしているようだった。しかし、それは無理にでもいつも通りを演じようとするためではなく、むしろ目の前の現実に向き合おうとする覚悟のように感じられた。レカは救貧院からかけ出すように出ていく。

「レカ! 僕も行く……わぁっ!?」

 レカとテルは、救貧院を後にした。外では雪が深く積もっていたが、足跡は残らない。レカがテルをつかんで屋根の上をいったからだ。テルはレカの小脇に抱えられつつ、冷たい風の中を飛んだ。太陽が出ていた。上から見る貧民街は雪で白く輝いていて……。彼女の金色の髪がテルの顔にかかり、目の端でチラチラ陽の光を受けて輝いている。どんなに傷ついても、彼女には誰も奪えない光があった。言葉を交わさなくとも、二人の間には確かな絆があった。それだけが、この雪でも誤魔化しきれない腐臭を漂わせるパラクロノスの街で、未来への一歩を支える希望だった。


*****

「うおりゃあっ!」

 巨体を覆う茶色いの毛皮のコートを翻し、ガズボが子供たちめがけて雪玉を放つ。彼の投げた雪玉は、小さな獣人の子の頭上をかすめて石の壁に激突し、白い粉塵となって散った。

「ギャハハハ! あと髪の毛一本分下だったらお前の頭は吹っ飛んでたぞ!」

 闘技場の残虐な闘士の言葉であると知っているなら、洒落にならないとわかるだろうが……。

「キャハハ! ガズボおじさんすごーい!」

「おれたちのほうがすげーって!」

 子供たちは純粋に楽しんでいた。アリーナに積もった雪を掬い取っては、ガズボの巨体目掛けて投げていた。

 血に染まった記憶の中の闘技場とは、まるで別世界のようだ。アリーナの砂地は雪に覆われ、そこかしこに子供たちの足跡が点々と残っている。二十人ほどの子供たちが大きな円になって雪合戦を繰り広げていた。そして、その輪の真ん中に、ガズボの姿があった。

「っへへ……」

 レカが力無く笑った。

「心配して損したぜ。案外、子供のお守りは得意なのかもな」

 テルはレカのぼーっとした横顔を見つめ、何か言おうとしたが、それは雪玉で塞がれてしまった。

「ぶっ!? っぺ、っぺ!」

 頬に広がる冷たさに、テルは思わず身をすくませた。アリーナのあちこちから子供たちの歓声が湧き上がる。

「テルお兄ちゃんに当たった!」

「もっと投げろ!」

「お兄ちゃん、逃げてー!」

 子供たちの目は好奇心と無邪気な破壊欲で輝いていた。テルは咄嗟に両手を挙げて顔を守った。その仕草はぎこちなく、まるで観客が突然舞台に上げられてしまったようだった。

「あ……ちょ、っま……」

 母が生きていたころ、雪に覆われた屋敷の庭で自由に遊んでいた日々。レカに追いかけられたこともあった。だが16歳という成長途上のプライドを抱える年齢は、子供の遊びに加わることをよしとしない意地があった。結果、もっと情けないことになるのだが……。

「よっしゃあああ!! 貴族のお坊ちゃんが的だぜぃ!?」

 ガズボの声が闘技場に響き渡る。テルが驚いて声の主を見る。ガズボの目はあの血の祭典の夜のように爛々と輝いていた。殺しも、子供との雪合戦も、彼の中では残忍な遊び心でつながっているらしい。

 テルの胸に冷たい衝撃が走った。雪玉が命中し、白い粉が舞い上がる。

「わ……わっ……」

 言葉を発する間もなく、三つ目の雪玉が頬を直撃する。

「ギャハハハハ!!」

 ガズボは腹を抱えて大笑いする。

「お前、この程度で怯むのかよ! 男だろうが!」

 ガズボの嘲笑に、テルは思わず顔を上げる。そこには巨大な雪玉を両手で抱え上げ、その赤い目を勝ち誇ったように輝かせたガズボの姿があった。彼の毛皮のコートには霜が降り、野生の獣のような迫力が増していた。

「これでも食らえ、貴族のボンボン!」

 テルは反射的に身を翻したが、足元の雪が滑り、バランスを崩した。彼の体は重力に引かれるまま、無様に崩れ落ちた。尻もちをついた衝撃で息が詰まり、寒気が背骨を這い上がる。

(っく……)

 テルは一瞬レカの方を見たが、アリーナの端っこで雪を蹴っている。ぴったりした革のスーツで寒くないのか不思議だ。いやそんなことより……。

 子供たちの遠慮のない笑い声が冬の空気を震わせる。テルは慌てて立ち上がろうとしたが、コートの裾を手足踏んでつんのめってしまう。彼の頭の中では、貴族としての誇りと、少年としての自然な反応が衝突し、その間でただ赤面して狼狽えるばかりだった。

 不意に、ピンクと紫の間の色の触手が複数本、彼の腕と背に巻きついた。弾力のある感触と、予想外の温かさ。

「あらあら」

 シャルトリューズだ。彼女は流麗な動きでテルを引き上げた。

「まったく、貴族様は遊び方を忘れちゃったのかしら?」

 触手がテルの肩や背中の雪を払い、金色の髪に絡まった雪片まで取り除いていく。彼女の声は冷ややかな嘲りに満ちていたが、その動きには奇妙な母性が宿っていた。

「わ、僕は……その……」

 シャルトリューズはガズボを一瞬見やり、それから手早くテルの上着を整えた。当の大型獣人は、もうすでにテルに興味をなくし、子供たちとじゃれあっている。巨大な胸板を大きく張り、何人もの子供たちが投げる雪玉の嵐を豪快に受け止めている。

「おらぁ!ちゃんと狙えっつってんだろ!」

 ガズボが子供たちに向かって吠えた。

「もっと固めろ! ソレが敵の目に当たりゃあ、相手はひとたまりもねえぞ!」

 その声は、どこか獣のような低い唸りを含んでいた。しかし子供たちは怯むどころか歓声を上げ、いっせいに反撃に出る。十数個の雪玉が巨大な獣人めがけて飛んでいく。毛皮に付いた雪を払いながら、ガズボの獣じみた顔が驚くほど明るい笑顔に変わる。普段の残忍さも無邪気な喜びも、同じ表情で彼は表現していた。ガズボは体を屈めて両手に大量の雪を集め、巨大な雪の塊を持ち上げる。その姿に子供たちが歓声と悲鳴を上げながら逃げ出す。

「逃げ場はねえぞ、ちびっ子どもがぁ!」

 テルはその光景をシュールなアートでも眺めるように見ていた。およそ、以前まさしくこのアリーナで見せていた姿からは想像もできない。路地裏で見せた子供達への表情……教えていたことは危険だったが……、それは嘘ではなかったということか。

「あいつ、子守は案外適任みたいね」

 シャルトリューズがテルの体の雪をはたいて言った。そして触手を雪の上に下ろしてその上に座る。彼女の触手は椅子のように体を支え、半ば宙に浮いたような不思議な姿勢で、ガズボと子供たちの雪合戦を眺めていた。シャルトリューズはテルのお尻にも触手を伸ばし、座れと促したが、テルはその場に立ったまま固辞した。

「本質はでっかい子供だもの。殺人鬼よりも闘技場闘士よりも……。子供の相手の方が適任なのよね」

 しかし、その言葉の裏には言い知れぬ寂しさがあった。テルはシャルトリューズの真意を探るように彼女を見つめた。

「あの……シャルトリューズ……さん?」

 テルの目から見て、彼女もまた、娼館で出会った時よりも穏やかに見えた。

「シャルでいいわぁ」

「シャルさん? レカに何があったんです?」

 テルは小声で尋ねた。シャルトリューズはなんでもないように、

「あー。昨日の事件よ」

「事件?」

「拝魔王教の儀式場での出来事……」

 まるで恋人とのデートの不満のことでも語るような口調だった。

「ウチらは、拝魔王教の儀式を阻止する任務を受けたの。タティオンの旦那から」

 闘技場のひび割れた石壁に吹きすさぶ冷たい風が、テルの頬を撫でた。アリーナの端で、シャルトリューズが奇妙な優雅さで佇んでいるテルの視線はそこから離れ、アリーナの端にに一人立ち尽くすレカへと向かう。彼女の金色のポニーテールは風もなく垂れ下がり、まるで生気を失ったようだった。

(ということは、そこで何かがあったんだ……もしかしたらキナが目を覚さないのも……?)

「あの……」

 テルが声をかけると、シャルトリューズは薄紫の瞳をゆるりと彼に向けた。彼女の肌は雪の真っ白な背景のせいで、いつもよりピンク色が際立って見える。

「レカは……大丈夫なんですかね?」

 問いかける声には、隠しきれない不安が混じる。シャルトリューズは触手を柔らかく蠢かせながら、唇の端をわずかに吊り上げた。彼女の笑みには哀れみと嘲笑が複雑に絡み合っていた。

「あぁ。いつものことだからぁ。お仕事でショック受けるといつもああなの。かーわいそ」

 その言葉には実際の同情よりも、奇妙な愉悦が感じられた。シャルトリューズは触手に変化する長い髪を指で弄びながら、背の高い体をしなだれかかるようにテルの方へ寄せる。椅子のような触手に座っていても、立っているテルと目線の高さは同じだ。思わず彼は後ずさるが、シャルトリューズは声のトーンを落として続けた。

「でも暗殺ギルドのお屋敷に行くと大体ケロッとして帰ってくるのよ。ふふ、タティオンの旦那に慰めてもらってるのかしらねえ? たっぷり……」

 最後の言葉は、挑戦的な視線かつほとんどテルの耳元で囁くような声で発せられた。その言葉を聞いたテルは、一瞬で石のように硬直した。血が引くのを感じる。シャルトリューズの言葉の意味するところが、彼の頭の中で不快な想像を呼び起こす。レカとタティオンの関係を揶揄するような口調に、彼の体が熱と寒気に同時に襲われた。

「そんな言い方は……」

 テルの声は低く、震えていた。青い瞳に怒りの火が灯っている。シャルトリューズは、テルの怒りを観察するかのように、首を少し傾げた。そして触手をくねらせながら、小さく笑った。

「あら、怖い顔ぉ〜。冗談よ、冗談」

 彼女は肩をすくめると、不意に真剣な眼差しでテルを見つめた。冬の陽光を受けた彼女の瞳が、一瞬だけ知性の光を宿す。

「ウチにそんなこと聞くより、あんたが話聞いてあげたらぁ?」

「あっ……」

 その一言は、温度を持つかのようにテルの胸を貫いた。彼の表情から怒りが消え、代わりに息を呑むような認識が広がる。そうだ……。彼はレカの傍らにいながら、彼女の心の内側にはまだ踏み込むことができていない。自分が心配しているというだけで、実際に寄り添うことはまだぎこちない。このアリーナの上で彼女の心に初めて触れられた自覚はあったが……。まだレカの抱える闇に直接触れることを恐れているのは事実だった。

 シャルトリューズはテルの表情の変化を見逃さなかった。彼女の触手がテルの肩に軽く触れ、今度は彼は身を引かなかった。

「意外と臆病なのね、お坊ちゃま。あの日はあんなにかっこよかったのに……」

 彼女はからかうように言ったが、その声には奇妙な優しさが混じっていた。

「だーかーらー、この街の貴族はダメなのよ。慎重が過ぎて臆病になってるわぁ。あんたの親父さんみたいに、もっと勇猛果敢ならいいのにねえ……」

 テルは驚いた顔をした。

「父を知ってるんですか?」

 彼の問いに、シャルトリューズは触手を巻き上げながら小さく笑った。

「さあね」

「それはそうと、あのヒゲのダンディおじいさん……」

 彼女は少し体を揺らし、声のトーンを下げた。

「気をつけたほうがいーよ? 娼婦の間じゃあ……いい噂聞かないから」

 その言葉に、テルは眉を寄せる。父ロドヴィコに関する称賛、密かに尊敬を寄せている暗殺ギルドのボスへの中傷。どちらも反発したくなる言葉だ。

「でも、タティオンさんこそこの街の秩序を守っている人です。何事も急ぎすぎる父とは違って……」

 シャルトリューズは「くっ」と小さく息を漏らし、触手を優雅に揺らした。

「あらあら。貴族のお坊ちゃんはこれだから……」

 彼女の声には嘲りと慈しみが入り混じっている。

「コインの裏表どっちも知らないと大人になれないわよ」

 テルは言葉を飲み込む。シャルトリューズの言葉は、ぞっとするほど的を射ているように感じた。この街の真実は、彼が思っている以上に複雑で、何かを知るたびに別の現実が広がっていることを知るばかりだ。

「まーウチはどーでもいーけどねえ」

 シャルトリューズは触手を揺らし、肩をすくめた。

「ウチらは楽しけりゃいーのよ。あんたら責任云々の人種とは違ってね」

 彼女の言葉は軽いようで、どこか重みを持っていた。テルは無意識のうちに、彼女の言葉の奥にある意味を読み取ろうとしていた。

「責任って……」

「ねえ、お坊ちゃま。あんたまだレカのこと、ぜんぜん知らないでしょ?」

 シャルトリューズの言葉は、テルの胸を刺した。彼はもう一度レカの方を見る。風もないのに、彼女の肩が小さく震えているように見えた。

「あの子はね、自分でどうにもならない罪まで背負い込んじゃうタイプなのよ。償えるわけでもないのに」

 シャルトリューズは触手の一本でアリーナの雪を撫でるように動かし、無造作に舞い上がった雪の結晶を見つめた。

 彼女は言葉を切り、艶やかな唇を引き結んだ。

「あの子、殺していいと言われた相手しか殺さない。でも、殺すなと言われない限り、どんな相手でも殺す。そう仕込まれてきたのよ」

 テルは息を呑む。レカは彼にそこまで話してはくれなかった。

「ウチやガズボは違うのよね。べつに何か訓練されたわけでもないし。暗殺ギルドに飼われてるだけ。楽しけりゃいいし、苦しかったら逃げる。ウチらの道は、ウチらが決める。でもあの子は可哀想」

 シャルトリューズは緑の目を細め、一瞬だけ彼女の表情に哀しみのような感情が浮かんだ。

「自分で自分の道を決められない子なのよ」

 アリーナではガズボの豪快な笑い声と子供たちの歓声が響き、白い雪が舞い上がっては光の粒となって降り注ぐ。それとは対照的に、レカは依然として動かず、その金色の髪だけが冬の日差しを受けて淡く輝いていた。テルはその姿を見つめながら、自分の心の弱さを痛感していた。この闘技場で彼が描くべき絵は、遠くに立つあの少女の姿なのだと。

 テルはふと体を起こし、足元の雪を踏みしめて立ち上がった。

「ありがとう」

 シャルトリューズに小さく頭を下げ、彼はレカに向かって歩き始めた。

「あら、勇気を出したの?」

 彼女の声は軽やかだが、少し羨望が混じっているようにも聞こえた。

「テルお兄ちゃん、戻ってきてー!」

「雪合戦するんでしょう?」

 子供たちの呼びかけも、テルの足を止めることはなかった。彼はただまっすぐに、アリーナの端に立つ金色の影へと向かっていった。

「レカ」

 近づいて呼びかけた彼の声に、彼女はゆっくりと振り返る。その赤い瞳は、最初微かに驚きの色を帯びたが、すぐに元の虚ろな表情に戻る。

「テル……シャルと何話してた?」

「君のこと」

 テルは正直に答えた。レカの表情が一瞬だけ固まる。

「なに言われた?」

「別に」

 レカは微笑んだ。しかし、それは心からの笑顔ではなかった。レカの赤い瞳には、決して口にしない悲しみが宿っていた。まるで雪の下に隠された血のように。

「何にせよくだらねえ。あいつの言うことなんか……」

 テルは話題を変える。

「寒くない?」

 レカは首を振る。

「いーや」

 彼女の言葉とは裏腹に、その体は小刻みに震えていた。テルはその手を取った。彼女の白い指は、すでに赤くなっていた。過酷な訓練と実戦で分厚くなった皮膚でも、寒さには耐えられなかったらしい。

「冷たくなってるじゃないか」

 レカの手は凝り固まっていた。一瞬手を引っ込めようとしたが、されるがままにしていた。コートの中で温めていたテルの手の温度がじわじわと彼女の冷えた指先に伝わっていく。テルはレカの手を両手で包み込み、彼女の手に軽く息を吹きかけた。レカは思わず小さく笑みを漏らす。

「懐かしいな、そういうの。覚えてるぜ、小さい頃よく雪で遊んだよな」

 テルも微笑んだ。懐かしい記憶が蘇る。二人の間に漂っていた重苦しさが、少しだけ軽くなった。

「昨日の爆発さ……」

 レカがふいに口を開いた。鎮痛な表情ではなく、どこか安らいだように。

「あれ、責任は……あーしにある」

 テルは黙って聞いていた。

「キナが目を覚さないのも、子供達の何人かが犠牲になったのも……。今はあのデカブツが空気読まずにはしゃいでるおかげで何とかなってるが、救貧院に戻った後でなんて言って慰めたらいいかわからねーよ」

「……レカはただ、命令に従っただけじゃないの?」

 テルの言葉は優しかった。レカは苦笑した。

「そうやって自分を慰めようとしたんだ。でも……でもな、キナの顔を見てたら……」

 彼女の声が震える。

「タンザの悲しむ顔を見てたら……あーしに免罪符なんてねえんだってわかった。あーしは判断を間違えた。ボスの命令と、彼らを守ることの間で……あーしは……」

 レカの赤い瞳に涙が浮かび、彼女は慌てて顔を背けた。その声は消え入りそうだった。金髪の前髪の陰で涙が溢れるのがわかった。俯いて言葉を続ける。

「あーしはスティレットなのに」

  彼女はつぶやいた。

「誰かの心臓に突き刺さってればそれでいいのに……」

 テルはレカの言葉の意味を完全には理解できなかった。しかし、彼女の内側で引き裂かれている何かは感じ取れた。義務と良心の間で、命令と友情の間で、彼女は今にも壊れそうだった。

「レカ」

 テルは静かに言った。

「レカが背負っているのは、君ひとりの責任じゃない。それに……」

 レカは顔を上げた。その赤い瞳には、子供のような弱さが宿っていた。

「君は暗殺者である前に、レカだよ。それは変わらない」

 遠くからは相変わらずガズボと子供たちの声が聞こえていた。しかし今、この二人の間にある静寂は、重苦しいものではなく、どこか安らかなものに変わりつつあった。レカは小さく首を振ろうとした。縦にか、横にか……。何かを言いかけたその時、アリーナから歓声が上がった。

「レカお姉ちゃーん!」

 子供たちがレカに気づき、雪玉を手に走り寄ってくる。ガズボとシャルトリューズも振り返った。そして、魔法のように、レカの表情が変わった。あれほど深い悲しみを湛えていた瞳に、光が戻り、唇が引き上がる。彼女にいつもの表情が戻っていく。強く、明るく、優しい微笑み。テルはなぜかそれを見ても安心より不安の方がまさった。レカの明るさが、リリアのように他者を癒すものではなく、彼女自身の心を守るための鎧だと気づいてしまったのだ。

「おーい!」

 レカは子供たちに向かって手を振った。一瞬前の弱さは、まるで幻だったかのようだった。

「レカお姉ちゃん、雪合戦やろう!」

「僕、一回もガズボに当てられないんだ!」

「シャルちゃんもチームに入って!」

 子供たちの声が重なり、レカは笑って彼らの頭を撫でた。その動作には、どこか無理をしている様子はなく、自然な愛情が滲んでいた。しかし、テルの記憶には、さっきまでの彼女の表情が焼きついたままだった。シャルトリューズのそばにも子供達が集まる。普段子供と関わる機会のない彼女は困惑しているようだった。触手の椅子を解除して立ち上がった。

「ウチがやるわけないでしょう? 子供らで……」

  そのとき、一つの雪玉がものすごい速度で飛んできた。

 パチン!

 乾いた音と共に、雪玉はシャルトリューズの顔面に命中した。触手族特有の柔らかな顔に、白い雪が派手に散る。一瞬、闘技場全体が静まり返った。

「ギャハハハハ! 厚化粧が落ちたか!?」

 ガズボだった。シャルトリューズは雪を顔から払い、ゆっくりと顔を上げた。その目は危険な光を宿している。

 「あらぁ?」

 その声は砂糖のように甘く、しかし刃物のように鋭かった。

「誰かさんは、ウチの特製毒の化粧を顔に塗られたいみたいねぇ?」

 彼女の触手が不気味に蠢き、体から薄紫色の液体が滲み始めた。子供たちが悲鳴を上げ、一斉にガズボの後ろに隠れる。ガズボも思わず後ずさりし、乾いた笑いを浮かべた。

「ほ、冗談だろ、シャル? 餓鬼の前でそんなもん使うのか?」

 シャルトリューズの唇が不敵な笑みに歪む。それを見たレカが引き気味に言う。

「あ、やべっ……切れたぞ、これ」

 シャルトリューズが上着を脱ぎ、丁寧に畳むと、雪を払った石段の上に置く。彼女の触手のような指先が、繊細な動きで布地を撫でる。それから、彼女の唇が薄く笑みを浮かべ、その声はまるで甘い媚薬のように響いた。

「あんたら……ウチがまだ見せてない毒液、見せたろかぁぁあ??」

 シャルトリューズの口調に、その場の緊張感が一変する。

 そう叫ぶと、彼女は触手を何本も一気に雪に突っ込み、一瞬で数個の雪玉を作った。それだけなら単に驚嘆すべきことだが……雪玉は毒々しい紫色になっていた。

「ま、待て待て待て!?」

 ガズボが焦りに満ちた低い声で叫ぶ。彼の針のような毛に覆われた顔が、恐怖で歪む。レカも流石に焦ったようだ。

 その瞬間、澄んだ笛の音が闘技場に鋭く響き渡った。

 ピッピッピー!

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