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マリオネットとスティレット  作者: 北條カズマレ
十章 崩壊の足音
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四十九 廊下の異母姉妹

「待って!」


 リリアが立ち止まった。レカとの間に三歩ほどの距離を残して。近づくべきか迷うように、片方の足が前に出かけて止まった。


「レカお姉さま、私……私、何も知らなくて……」


 喉の奥で詰まった声。レカは立ち止まり、振り返る。リリアの手が、自分のワンピースの胸元を握り締めている。布が皺になるのも構わずに。


「父が、あんなことをあなたに頼んでいただなんて、思ってもみなくて……」   思ってもみなくて。


 その言葉が、レカの胸の中でゆっくりと反響した。思ってもみなかった。そうだろう。そうだろうとも。父が殺しを司っているのは知っている。しかしリリアの世界には、父がレカに人殺しを命じるという概念そのものが存在しなかったのだ。ルゥリィの名前も、巻き込まれる子供たちも、それらをこの世から消し去ってのうのうと生きているレカも……リリアの知る父の姿のどこにも、そんなものは接続されていなかった。


「ふぅー」


 レカは壁にもたれた。天井を見た。もうこの街では中央区画にしか供給されていないソウツェクの灯りが蒼白い光を壁に投げかけている。静かな光だった。何も照らさない光だった。


「リリア」


 出てきたのは、妙に平坦な声だった。


「あの人はな、あーしのおとーさんでもあるんだ」


 リリアの瞳が揺れた。


「もし、悪く言おうとしてるなら、やめてほしい。それはそれとして……」


 レカはリリアを見た。じっと。仮面の微笑みを貼り付けて。


「いいさ。いいんだよ」


 嘘だった。いいわけがなかった。しかしレカの口は動き続けた。十九年間の訓練が、感情の上に蓋を被せる手順を自動で実行していた。


「光と影。それだけの話さ」


 しばしの沈黙があった。レカは立っていただけだが、リリアは知らない間に手が届く距離まで近づいていた。だが最後の一歩は……永遠の距離だった。


 そのうち、リリアが首を横に振った。小さく、しかしはっきりと。


「でも、こんなのって……」


 声が震えていた。怒りではなかった。悲しみでもなかった。父が半分しか血の繋がらない姉に行った理不尽。それを力強く理不尽だと指摘するための言葉を、十六年間の語彙の中に見つけられない少女の、途方に暮れた声だった。


「お姉さまに人を殺させて、私にはそれを知らせないで、それで家族だなんて……そんなの、おかしいよ。光と影なんかじゃない。お姉さまばっかり暗いところに……」


 その声が、レカの蓋を内側から叩いた。


 リリアの言葉は正しかった。正しかったから、耐えられなかった。正しいことを、何も知らない子供に指摘されることが……レカ自身が十九年かけて飲み込んできたものを、たった今知ったばかりの子供が泣きながら「おかしい」と言い切ることが……。


 涙は、衝動に化けた。


「だから何だよ!」


 レカの声が、思っていたより刺々しく出た。


 リリアはまばたきをした。責めるでも怯えるでもなく、ただレカを見ていた。その視線が、いつもどおりのまっすぐさで、柔らかくて、何の陰もなくて……それが、今夜のレカには耐えられなかった。耐えられないと言うことが、さらに言葉に暴力を宿す。


「……なんであんたは、いつもそうなんだ」


 声が出てしまった。止められなかった。


「救貧院でにこにこしてて、レカさまレカさまって、……あーしが何やってるか、知ってるか? あーしの手が何のためについてるか、知ってるか? そうだよ、今夜初めて知ったんだよなあ!? あんたが考えもしなかった事をあーしは何年もやってきたってわけだ!」


「レカお姉さま……」


「あんたは何も知らねぇで笑ってやがる! あーしがどんな思いで……おとーさんがどんなことを……」


 声が割れた。


 それ以上続かなかった。言いたいことの形が、途中でぐずぐずに溶けた。続きを声にしたら、別の何かも一緒に出てきてしまう気がした。知らず知らずのうちに乱れた呼吸を抑制しようと、レカは奥歯を噛んだ。喉の奥を締めた。


 廊下が静かだった。遠くで何かの崩れる音がした。外の騒乱の残響。まだまだ街は混乱のさなかだ。


 リリアは黙っていた。


 しばらくして、リリアが言った。


「レカさまの瞳って、真紅ね」


 レカは答えなかった。リリアは微笑む。


「ふふ、でも少しだけ銀色の光が混じってる」


「え?」


「今気づいた。今まで私にそんなに近づいてくれたことがないから、よく見えなかった。でも今、混じってるのがわかった」


「……何が言いたいんだよ」


「父上そっくり」


 その言葉に、レカはうまく反応できなかった。


「父上の目にも、こういう色が入ってる。私、子供の頃から好きだったの。光の当たり方で変わるから。父上と同じ。でも違う。あの人の目は、そんなに人間らしい光を宿したりしない」


 リリアが少し笑った。廊下の薄暗がりの中で、笑い方だけははっきりわかった。


「えへへ。でも、少し嬉しいな」


「……嬉しい?」


「レカさま、本当のことちっとも言ってくれなかったから。ようやく胸の内が聞けた気がして」


 レカは答えなかった。答えられなかった。


 父上そっくり。その言葉が、廊下の暗がりの中で消えずに残っていた。リリアの視線が、レカの瞳の奥を覗き込んでいる。品定めではない。分析でもない。ただ姉の顔を見ている。初めてきちんと見ている、という目だった。


 レカの喉が動いた。唾を飲み込もうとしたが、口の中が渇いていた。


 エリオンはレカの瞳を「綺麗な赤だ」と言ったことがある。ジャドワは「同じ色だね」と嗤った。タティオンは何も言わなかった。瞳の色について触れたことが一度もなかった。自分と同じ色であることを、認めも否定もしなかった。


 リリアだけが……父と同じ、でも違う、と言った。


 壁に預けた背中の力が、少しだけ抜けた。肩甲骨の間の強張りが、ほんの僅かだけ緩んだ。


「レカお姉さま」


 リリアの声で、少しだけ心臓が跳ねた。


「さっきのあなたの言葉、本音だなんて思ってないよ」


 とリリアは続けた。


「人間みんな、ちょっと落ち込んで、心にもないこと言っちゃう時あるよね。私もあるから。大丈夫。気にしてないから」


 レカは何も言えなかった。


 言い返す言葉が出てこなかった。さっき捲し立てた言葉の全部が、行き場をなくして宙に浮いたまま、消えていった。罵倒した相手が、その罵倒をそっくりそのまま「本音じゃない」と言って、ふーっとどこかへ吹き流してしまったから。レカの怒りは怒りのまま着地する場所をなくした。


「……なんで」


 声が、意図せず小さくなった。


「なんで、そんなふうに……」


「だって、お姉さまが苦しそうだったから」


 リリアが一歩、レカの方へ近づいた。もう顔同士が隣り合うくらいの距離だった。


「私にはわからないことが、たくさんあると思う。お姉さまの生きてきたこと、感じてきたこと……私が知らないことの方が、ずっと多い。でも、今夜のお姉さまが苦しそうなのは、わかった。ううん、絶対もっと早く気づくべきだった。お姉さまって、たまにすごく顔に出る」


 レカは思わず、廊下の壁に寄りかかった。背中を壁につけて、天井を見上げた。石の天井。灯りが届かない暗い天井。視界が滲んだが、滲んだとは認めなかった。


「あーしの負けだよ」


 小さく言った。


「完敗だ」


 リリアは何も言わなかった。ただ、もう一度笑ったのが、視界の端でわかった。


「また会おうね、お姉さま」


 リリアが言った。声は穏やかで、明るくて、まるで普通の夜に普通の別れ話をしているみたいだった。


「今夜が終わったら、また。二人でゆっくり話せる時に」


 レカは天井を見上げたまま、短く答えた。


「……ああ」


 そうする、とは言わなかった。言えなかった。でも否定もしなかった。


 リリアの足音が廊下の奥へ遠ざかっていった。軽い足音だった。怖がっている人間の足音ではなかった。


 レカはしばらく壁に寄りかかったまま、動かなかった。滲んだ視界が元に戻るまで、少し時間がかかりそうだ。だが、鑑賞に浸ることもできないようだ。廊下の空気が、変わった。


(出やがったな? ノゾキ野郎)


 リリアの足音が消えてからしばらく経っていた。レカは壁に背をつけたまま動けずにいた。涙の痕が冷えて頬が突っ張る。それを拭う気力もなく、ただ天井の暗がりを見上げていた。そこへ、例の声、いや気配が返ってきた。


(結節点よ。大きな感情の動きを観測したぞ)


(そーかい。いいセンサーをお持ちで)


(あの子は世界を壊さない)


(ああ?)


 感情のない、記述的な声。レカの体が強張った。意味がわからなかった。あの子。リリアのことか。世界を壊さない。壊さないから何だ。壊す子がどこかにいるのか。それとも壊す人間が別にいるという話なのか。もしかしてそれは……


「……なんだよ、それ」


 声に出した。廊下には誰もいなかった。蒼白いソウツェクの灯りだけが、石壁に淡い影を落としている。答えはなかった。振動は消えていた。


 屋敷の裏口から外に出た。


 夜気が頬を打った。パラクロノスの冬の風は刃物のように冷たく、涙の痕が一瞬で凍りつくような錯覚を覚えた。


「ふぃー、さっむ。上着着てくるんだったぜ」


 大時計塔の影が空を裂いている。半壊した街並みの向こうに、ソウツェクの蒼白い光がまばらに点在していた。歩きながら、レカの指先が無意識に胸元へ触れた。何もなかった。当たり前だ。ずっと前からない。アトリエの窓の外に落として……エリオンが拾って……返そうとしてくれて……あーしの顔を見て、やめた。「今度でいい」と言って、懐に戻した。あの錆びた金属は、エリオンと一緒にポータルの向こう側に消えた。


(そう言えば返してもらってねえな)


 今はどこにあるのだろう。エリオンは持ってくれていないのか? あの重さがないことで、かえってペンダントの中の文字が鮮明に浮かぶ。


「おとうさん、はやくかえってきてね」


 あの字は今もどこかに存在している。レカの手の届かない、暗い深淵の中で。  レカは手を下ろした。冬の風が、空っぽの胸元を吹き抜けていった。




 その後、街の混乱はまたさらに混迷を深めることになる。


 完全に修復されたポータルから現れたのは、一人の男の死体だった。それは、パラクロノスの魔法科学では理解すらできない異常な装備を身につけていた……。そして何よりも驚きをもたらしたのは……その死体の顔が、タティオンその人のものだったことである。

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