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マリオネットとスティレット  作者: 北條カズマレ
第五章 魔王を拝むモノたち
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幕間 地下の密談

 パラクロノスに雪が降るよりも、何ヶ月も前の話である。

 鉄錆、酒、獣臭が染み込んだ小汚いテーブル。血がこびりついた石壁。分厚いドアの向こうから、闘技場の歓声が遠く響く。傭兵ギルドに闘技場の地下深く、隠された酒場は、特別なVIPだけが利用することができる秘密の会合場所。

 テーブルの上の蝋燭の炎が不規則に揺れる。薄闇の中、唯一の客である二つの影がテーブルを挟んで向かい合っていた。酒場の主人は一方の座る獣人に絶対の忠誠を誓っており、その向かいに座る有名人のことを、見て見ぬ振りをした。

「ククク、相変わらず、敵陣深くでも物怖じしないねえ」

 ジャドワは獣人特有の尖った歯を見せながら、グラスに注がれた濃い酒をくるりと回した。その鋭い目は相手の表情を窺っている。

「…………………………」

 返答するその声は若く聞こえるが、瞳の奥には計り知れない年月の影が潜んでいる。ジャドワはクスクスと笑った。

「冗談だよ、冗談。あんたくらい長く生きてりゃあ、ユーモアのひとつも身につくと思うんだがねぇ」

 ジャドワの嘲笑めいた声にも、客人は微動だにしなかった。

「…………………………」

 ジャドワは心配するなというようにグラスを持っていない方の手を振ってみせた。

「こっちは順調さ。手はずは整いつつある」

 そしてグラスを傾け、煽って一気に酒を飲み干した。

「ただいくつか邪魔が入りそうでね」

「……?」

「ああ。例えば冒険者ギルドの金槌級、ルゥリィとかいう魔術師がうるさくなってきてる。『平和的解決』だとか、『獣人への理解』だとか……聞いてるだけで吐き気がする。魔法科学ギルドを敵に回さないためにも一旦止めろと言ったはずの、裏路地でのエルフ奴隷狩りにもでしゃばりやがって……」

「…………………………」

 ジャドワは給仕のエルフ奴隷が酒を注ぐのを待たずにグラスを奪うと、彼女を蹴り飛ばす。哀れなエルフはガシャンと音を立てて向こうのバーカウンターに突っ込んだ。店主が無言でそれを片付け始める。

「オイオイ、あんまりふざけた事いうなよぉ? 味方が制御できないならこの反乱は失敗するぞ?」

 彼の声には、嘲りの下に本物の憎悪が潜んでいた。向かい合う客人は、静かにワインを一口だけ口に含み、思案するように目を細めた。

「…………………………」

「ハハハ、なるほどねえ」

 ジャドワが皮肉めいた笑みを浮かべる。客人の表情が一瞬だけ硬くなった。ジャドワは酒を飲みつつ、面白そうに言う。

「なるほどなるほど。あんたにとっては、もうこの街は邪魔者だらけの不要な場所ってわけだ。ずいぶんな心変わりじゃないか? え?」

「…………………………」

 客人の声は氷のように冷たく、ジャドワでさえ背筋に冷たいものを感じた。ジャドワは自分の言葉が効いたと気づいて、さらに畳みかける。

「じゃあルゥリィはそちらに任せていいんだな?」

 客人はワイングラスの縁に指を走らせ、一瞬だけうなずいた。

「…………………………」

「なるほど、汚い仕事に躊躇がない。あんたもつくづく悪党だね」

 ジャドワは楽しそうに酒を飲んだ。獣人の顔に浮かんだ下品な笑みは、客人からの冷たい視線で凍りついた。

「…………………………」

「わ、悪かったよ。冗談だ、冗談」

 ジャドワは狼狽えたように両手を上げる。酒が少しこぼれた。それは彼のおどけた演技だったが、彼の額に浮かんだ薄い汗は本物だった。

「まあとにかく、こちらとしてもまだあんたらを信用するわけじゃない。エリオン自身とはまだ話していないし……。信用の担保が欲しいね。例えば、人質とか?」

 ジャドワの声が低くなる。彼の目が闇の中で赤く光った。

「…………………………」

「ははっ! エリオンの妹分を好きにしていいと! こりゃ傑作だ! 闘技場で剣闘士にでもなってもらおうか!?」

 ジャドワは大声で笑った。

「あんた、恐ろしいねぇ。おいらたちも大概だが、あんたほどじゃないよ。最低限、仲間には優しくするからね」

「…………………………」

 客人の手が微かに震えた。それは怒りか、恐怖か、それとも別の感情か。

「いいだろう、取引成立だ」

 ジャドワは立ち上がり、悪意に満ちた微笑を浮かべた。握手のために手を差し伸べる。向かいの客人も立ち上がって同じようにする。

 ……それは罠だった。

 握手のための二人の手は、触れることはなかった。ジャドワの右手が影絵のように伸びた。獣人の身体能力と赤い目の魔法的強化、それにより亜音速にまで達する閃光のような一撃……。戦場で数千の命を奪った攻撃が、客人の手に這うように絡みつく。……ジャドワとしては、単なる威嚇のつもりだった。この反乱のイニシアチブを握られたままでは、腹の虫がおさまらない。そのような狭量な感覚が、彼にちょっとしたお遊びを仕掛けさせた。腕を捉え、引き、技をかけ、床に貼り付けにして、ちょっとした決め台詞を浴びせかける。それだけでジャドワの沽券は守られるはずだった。

 だが世界が捻じれた。

 蝋燭の炎が不自然に引き伸ばされ、時間そのものが蜜のように粘り始める。ジャドワの目に映ったのは、自分の攻撃が水中を進むように鈍くなる異様な光景だった。

(これは……っ??)

 気づいた時には、客人の腕がジャドワの喉を掴んでいた。

「ぐ……ッ!? こ、この力……!」

 テーブルがガタンと倒れ、グラスが割れる。エルフの奴隷たちが飛び退き、酒場の主人が飛び出てくる。しかし誰も近づけない。ジャドワが本気で戦う時は、その暴風のような動きの通り道にいるものは、全員が手や足や首を失うハメになるからだ。

 しかしジャドワの体は動くこともできないようだった。大柄な体が床へと崩れ落ちる。彼の強靭な首筋に、指が蔦のように絡みついていた。その握力は鋼鉄を捩じ曲げるほどの力を秘めている。

「な、なぜお前にこんな力が……ッ!?」

 ジャドワの赤い瞳に久々に現れた感情。それは純粋な恐怖だった。二人の周囲の空間だけ、別の法則で動いているかのようで……。倒れたテーブルも、椅子も、床に落ちた蝋燭も、一瞬で長く伸び、次の瞬間には縮む。時間が波打っていた。

「グ、ククク……」

 喉を圧迫されながらも、彼は笑おうとした。獣人の誇りが、恐怖を見せることを拒否する。

「さすがだよ、わかった、わかったよ。あんたには逆らわない……」

 客人の指が、ほんの僅かに力を緩めた。酸素が肺に戻り、ジャドワの思考が鮮明になる。彼の戦闘本能が状況を分析した瞬間、彼の魂が震えた。

「ふう、ふう、なるほど」

 ジャドワは荒い息をつき、喉をさすりながら言う。

「魔王存在との取引は、デカいリターンをくれるものだな」

 彼の瞳には恐怖が残っていたが、それと共に別の光、獲物を前にした捕食者の興奮が宿っていた。彼は力の前に屈服したが、その魂は反逆の炎を燃やし続けていた。

「…………………………」

「わかった、わかったよ。お互い自分たちの計画に口出しはしないようにしよう」

 ジャドワは居住まいを正した。再び手を伸ばす。今度は何事もなく握手が成立した。

「俺はこっちの獣人共を煽って、この腐った街の状況を覆す。そしてあんたは…」

「…………………………」

 客人の言葉はジャドワしか聞き取れなかったが、それは彼の表情を一瞬だけ曇らせた。

「おい、本気なのか? それほどまでに…」

「…………………………」

 客人の瞳に宿った決意の色に、ジャドワは言葉を飲み込んだ。

「そうか。全てに終止符を打つ、か」

 客人はゆっくりと入口の方に向き直った。壁の燭台の光に影が揺れる。

「じゃあ、次に会う時は…」

「…………………………」

「ああ、街が炎に包まれる時だな」

 ジャドワの笑みが再び獣のように残忍に変わる。

「華々しい結末にしようじゃないか、なあ?」

 彼は最後に相手の素性を口にした。闇に溶け込むように二つの影が別々の方向へ消えていく。残されたテーブルの上、ろうそくの炎が窓から入る風でゆらゆらと揺れながら、やがて消えた。

 彼らの計画では、雪が降る前に街は大きく変わるはずだった。街は知らぬままに、炎と血の季節へと向かっていた。

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