第二十話 テルとレカ
「じゃあ、ごゆっくり」
それだけ言い残して、ジャドワは鉄の扉を閉めた。石の床をゴリゴリ削り、鉄板が響く耳障りな音を残して。
テルは部屋の奥のテーブルを見つめる。シャンデリアの青白い灯りでよくよく見ると、よっぽど汚い。テルは向こうのレカを見てから、両横にいる二人の人物をチラリと見る。あまりにも、あまりにも日常から離れたその姿。先ほど観客席から見たよりもさらに大きい。大型の、極めて大型の獣人。彼が動くたび、他とは違うゴツい椅子が重さに耐えられないと悲痛な鳴き声を上げる。闘技場の怪物、ガズボ。彼は一心不乱に何かの肉を詰め込んでいる。生肉だった。何本もの鋭い牙が肉を引き裂いて、血があたりに飛び散った。もう一方には、文献でしか目にしたことがない触手族。さっき闘技場のマイクで客を煽っていた女性だ。彼女も大きい。座っているからわからないが、髪の毛のような触手をぬきにしても2メートルはある。蝋燭の光で赤っぽい体が艶かしく光り、両手ではなく触手で食べ物を口に運んでいる。いや食べ物なのだろうか。彼女の前に置かれたまな板の上に積み上がった骨。いや、もうごちゃごちゃに詰み上がった、生き物を解体する際に出た、解体残滓ではないか? 生ゴミのような骨だの内臓だのを、触手の粘液で溶かしながら舐めている。レカはと言えば、体を起こして椅子に大きく反り返って座り、瓶で何かを飲んでいる。何か投げやりな様子に見えた。
(レカ……)
シャンデリアの青白い魔光の下で、全てが非現実的にうかびあがっていた。ジャドワに促されるままこの地下まで来たものの、その先に待つものへの不安は強かった。しかし、レカの姿を確認したくて、結局彼は一歩を踏み出した。テーブルに近づくなり、生肉の臭いと獣の体臭が鼻を突く。テルは思わず袖で鼻を覆いそうになったが、貴族としての礼儀上、それは我慢した。テーブルの表面には無数の傷跡と、こびりついた食べ物の残骸。テルはその汚れに触れるのを躊躇したが、レカがいる場所はそこしかない。
「……よお、テル。まあ座れや」
テルは何も答えられずに言われた通りにする。しばらく、肉を咀嚼するベチャベチャという音だけが聞こえていた。エルフの給仕がやってきて、かろうじて清潔と呼べそうなコップと瓶がテルの前に置かれた。テルは目の前のそれを観察する。コップの縁には小さな欠け、瓶のラベルは剥がれかけている。そして顔を上げればレカの顔。表情が読めなかった。疲れているようにも、落ち込んでいるのを隠しているようにも見えた。テルの部屋にいるときのように、タンクトップ姿だった。瓶をとって注いでくれる。彼の目の前のコップに、黄水で溶けた黄金のような色の液体が注がれる。
「テル、ダイジョーブだって。アルコールでもなければやばいもんでもねーから」 懐かしい声音だった。小さい頃から何度も聞いた声。しかし次の言葉は、まるで別の存在が紡ぐかのように重い。
「暗殺者にゃあ、仕事でアルコールの力に頼るやつも頼らないやつもいるが……。あーしはそういうの、一切入れないポリシーだ。ただしまあ、それは気つけになるかもな」
「仕事……」
テルがぼそっと吐いた言葉は、ガズボの咀嚼音にかき消された。レカの赤い瞳とテルの青い瞳が交錯する瞬間、地下室の空気が凍りついたかのようだった。
(ここにいるのは本当にレカなのか?)
たった数秒の、永遠とも思える沈黙。テルの指が、決意を固めたように瓶に伸びる。泡立つ炭酸が、魔光灯の光を不規則に屈折させる。
(雰囲気に呑まれてなるものか!)
その一心で、テルは一気に飲み干した。
「ゲホぁ!?」
予想を遥かに超える刺激に、テルの体が跳ねる。ガズボの喉から低い笑い声が漏れ、その巨体が揺れる。牙の間から生肉の生き血が混じった唾が飛んだ。シャルトリューズが含み笑いして触手が小刻みに震え、その先から毒の霧が立ち昇る。レカは慌てて立ち上がり、テルに近寄って背中をさする。
「ま、まさかイッキとは……オメーにしちゃあ軽率だったな……」
弟を気遣うようなその仕草には、昔と変わらない親しみが垣間見える。テルに背中を甲斐甲斐しくさする。
「ゲホゲホ! こ、これは……」
「香辛料をしこたま入れた、デカい獣人用の飲み物でヨォ……港湾労働の時の気付けで……すまん、育ちのいいやつにはには絶対向かないやつだわ……」
シャルトリューズは触手を扇のように広げ、毒の霧を薄く漂わせながら微笑む。「レカちゃん、緊張してるのよ、この子。貴族のお坊ちゃまったら、可愛いこと」 咳き込むテル。レカの方に勘弁してくれというように軽く手をかざし、鼻をハンカチで拭く。必死に貴族としての威厳を保とうとするが、喉を焼く刺激と鼻を突く炭酸に、顔が朱に染まっていく。
「ぎゃははははははは!l
ガズボの笑いが大きくなる。巨大な獣人の体が揺れるたびに、テーブルの上の食器がカチャカチャと音を立てる。
だんだんとテルの様子が落ち着いてくる。肩にそっと置かれる手の温もりに、テルは思わず背筋を伸ばした。まるで昔から変わらない、幼馴染みの優しさ。しかしその手は、今や確かな殺意を宿す暗殺者の手。テルの背中で、二つの現実が交錯する。温かく、そして冷たく。まだまだ少年の面影を残す唇が、ぎゅっと結ばれる。
「……うるせーぞガズボ」
レカはガズボを睨みつけながら、優しくテルの背中を撫でる。その手つきは、かつてテルが風邪で体調を崩した時にしてくれたのと変わらない温かさを持っていた。しかしだからこそその場違いさが信じられなかった。
「もっとマシなもんを飲もっか……」
幼馴染みへの愛情、背中に触れる手の温もり。テルは懐かしさと戸惑いを同時に覚える。目の前にいるのは、昔から知る幼馴染みのレカなのか、それとも全く違うレカなのか。答えは、おそらくその両方なのだ。テルは水をもらって、ようやく落ち着いた。ピンクの触手の持ち主がクスクス笑った。
「うふふ。貴族さまはお上品だから、仕方ないわあ」
テルはなんだか、その女性の吐息を吸うと、頭がくらくらした。甘い香りの中に、かすかに腐臭のような異様な臭気が混じっている。視界が歪み始め、手足の感覚が遠のいていく。レカの声が飛ぶ。
「シャル! あんまり耐性のない若い御仁に息を浴びせるんじゃねえ!」
シャルトリューズは食事に使っていない両手で軽く掲げる仕草をしたあと、頬杖をついてニヤけている。その仕草は愛らしく見えるはずなのに、どこか形容しがたい不気味さを漂わせていた。
(この人たちとは、どういう関係なんだ? レカは本当は……)
テルの心に疑問が渦巻く。目の前の光景が、これまで知っていたレカの姿と重なり合わず、現実感が失われていく。
「俺たちはなあ」
ガズボが血に濡れた牙をのぞかせながら、テルの心を見透かしたように語り出した。その巨体からは獣臭い体臭が立ち込め、それだけで普通なら誰もが逃げ出すはずの威圧感があった。
「レカの姐御に首輪をつけられたカワイソウな奴隷だぜ。姐御の許可が無きゃあ、誰も殺せねえのよ。まあ、それでもたまに、な?」
それを聞いて、シャルトリューズと名乗った触手族がクスクス笑う。その笑い声には少女のような可愛らしさと、異形の者特有の狂気が混ざっていた。
「ウチもなの。うふふ、この前娼館でお客さんを死なせちゃってね、怒られちゃったわあ。あの人とってもステキだったから、ちょっとだけ特別扱いしたかっただけなのに……」
ガズボがそれを聞いて生肉の血を吹き出して笑った。その血がテーブルクロスに赤い染みを作る。
「ギャハハ! こいつまた男を発狂させたのか! どうしようもねえなあ! まあ俺も先週、ちょっと調子に乗って五、六人ほど……」
シャルトリューズは媚びたように体をくねらせて抗議する。その動きは蛇のようでもあり、触手のようでもあった。
「ちがうのお〜! わざとじゃないも〜ん。ウチ、ちゃんと制御してるつもりなのに……」
ドン、とテーブルが鳴る。レカが拳を打ちつけたのだ。重いテーブルが一瞬浮いて、もう一度床に落ちる。大柄な異人種二人はそれで黙って食事を再開した。レカは特大のため息を吐いた。その表情には疲れと諦めが混ざっていた。目線はテーブルの上のどこかにうつろに投げかけられている。
「……こういう奴らのお守りが、あーしの裏の仕事さ、テル」
レカは瓶を手の中で弄びながら言った。その仕草には、どこか幼いころの彼女の面影があった。
「仕事……貧民街のみんなを守るのと同じように……?」
ガズボとシャルトリューズがクスクス笑う。レカは黙っていた。何か言おうと。詰まったものを吐き出すかのように口を開いたが、すぐに閉じた。テルには、いつもリラックスしているはずの彼女の体が、少しずつ体が縮こまっていくのがわかった
「……あーし、は……」
言葉が続かない。レカ自身、何を言うべきなのか分からなかった。心理的にブロックしてきたこと、言ったことがないこと。それを言おうとしても、何も出てこない。ただ漠然と、テルに何かを伝えなければならないという思いだけが募る。
「レカ」
テルの声に、レカは顔を上げた。その赤い瞳には、言葉にできない何かが渦を巻いていた。テルがテーブルに少しだけ身を乗り出して、心配そうに彼女を見ていた。
「大丈夫?」
赤い瞳の投げかける先が、部屋の暗がりの方へ逃げた。テルを見ることができない。何を話せば良いのか。何を話してはいけないのか。その境界線すら、レカにはわからなかった。殺しの仕事のこと? タティオンへの思い? それとも自分自身の本当の気持ち? 全てが絡み合って、もはや解きほぐすことすらできない。無理もない。自分の心の中でも、ろくすっぽ言語化したことなんかなかったのだ。
「へえ、テルちゃんって優しいのねえ」
シャルトリューズの声が、甘ったるく室内に響く。その声音には、これから何か意地の悪いことを言い出しそうな雰囲気が漂っていた。
「でもさあ、知ってる? レカちゃんが先週やった仕事」
「シャル……」
レカの声が震える。だが制止はできない。
「この前なんて、商人ギルドの長老を首を絞めて窒息死させたのよ。ウチの毒より時間かかるじゃない? でもレカちゃん、ちゃんと最後まで絞め続けてたの。すごくない?」
ガズボが血に濡れた牙をむき出しにして笑う。
「ギャハハ! そりゃまだマシな方だぜ? 先月なんて、子供のスパイを抱き寄せて、耳元で『ごめんね』って囁きながら心臓を貫いたんだぜ? 泣いてる顔見ながらよ!」
テルの顔から血の気が引く。レカは俯いたまま、震える手で瓶を握りしめている。
「あら、あの時のことね。可愛そうだったわ。でも任務だもの。そうでしょ、レカちゃん?」
シャルトリューズの緑の目がレカを見る。あきらかに意地の悪い物言いだったが、その視線には本気のいたわりが見てとれた。テルはシャルトリューズを見て、それからガズボを見た。この化け物じみた二人とも、ニヤニヤしながらレカを見ていた。
「ほら、他にも色々あったわよね? 商人の奥さんを風呂場で溺れさせたり、貴族の少女を首吊り自殺に見せかけたり……」
「やめろ!」
テルの声が、静かに響く。巨大な獣人と触手族の女は、どちらもピタッと止まり、これまでの態度とは違う敵意をテルに向けた。しかし彼の青い瞳には、これまで見たことのない怒りが宿っていて、その剣呑な雰囲気を恐れない。レカは顔を伏せている。沈黙が数秒続き、テルはフーッと息を吐き、目を閉じた。
「……もう、やめてください」
手が力無く額をさわる。
「知りたくない……」
テルは立ち上がる。その動作には、貴族としての威厳が感じられた。そしてレカの白くなった肩に触れた。肌は、氷のように冷えてしまっていた。テルの胸は、いっぱいになった感情で痛む。
「レカが話したくないことは、僕も聞きたくない」
レカの肩の震えが、一瞬止まる。
「あーあー、純情ねえ」
シャルトリューズがからかうように笑う。しかしテルは動じなかった。毅然として言った。
「レカ、帰ろう。ジャドワさんが許してくれるかわからないけど」
差し出された手に、レカはゆっくりと顔を上げる。その赤い瞳には、言葉にならない感情が溢れていた。これまで隠してきた闇が暴かれた不安と、それでもこうして自分をかまってくれるテルへの期待が交錯する瞬間。
「テル……」
しかしレカはゆっくり首を横に振った。
「それはできねーんだ」
そしてゆっくり瓶を口に運び、思いっきり傾けて中身を喉に流し込む。テルはさっきの刺激的というにはあまりに強すぎる、味とも言えない酸が喉を焼くような感覚を思い出して、レカの肩から手を離した。瓶がテーブルにダン、と音を立てて置かれる。
「こいつらの言う通りさ」
レカは手首で口を拭う。
「あーしはうすぎたねー闇の掃除屋。暗殺ギルドの表の暗殺者ですらできないような、罪深い仕事をするのが本当の役目だ。こいつらを使ってでもな」
レカがガズボとシャルトリューズに投げかける視線は、戒めとも、愛情とも、責任とも取れる複雑なものだった。テルはその視線の意味を理解しようとして、レカの横顔を見つめた。シャンデリアの青白い光が、彼女の金色の髪を月光のように照らし出している。
「こいつらは……」
レカの声は静かながら、確かな意志を秘めていた。
「こいつらはな、テル。傭兵ギルドも庇いきれなくなって暗殺ギルドに捕まった大量殺人鬼と、娼館で客を殺しちまう娼婦。ボスからあーしが世話を頼まれた、哀れなこの街最低のクズだ」
その言葉に、ガズボが生肉を噛みちぎる動きを止め、シャルトリューズの触手が微かに波打つ。闇の中の青白い光の中で、二人の異形の者たちの存在が、レカの言葉に反応するように、より鮮明に浮かび上がる。
「でもな、テル」
レカの指が、空の瓶を掴む。その仕草には、言葉にできない重みが滲んでいた。
「この街には、誰にも殺せないが、殺さなきゃいけない奴がいる。そして……」 一瞬の躊躇。テルは息を詰めた。
「生きてちゃいけない奴もいる。それが、あーしらの宿命なんだ。わかるだろう? テル……あーしらは、暗殺ギルドの秘密部隊としてのみ、その存在を許されるんだ」
シャンデリアの光が揺れ、影が歪む。ガズボの金色の瞳が闇の中で光り、シャルトリューズの触手が不規則な模様を描く。テルは、自分がいかに非日常の場所に立っているかを、改めて痛感した。
「ウチらにはね」
シャルトリューズの声が、甘い毒のように室内に満ちる。
「この街でしか生きられない理由があるの。レカちゃんは……それを理解してくれた、たった一人の人間なのよ」
「ギャハハ!」
ガズボの笑い声が、地下室の壁を震わせる。生肉を噛みちぎった牙から、まだ血が滴っている。
「姐御の首輪がなきゃあ、俺ぁとっくにこの街を血の海にしてたぜ!」
テルは黙ってレカの横顔を見つめた。彼女の瞳には、これまで見たことのない深い影が宿っていた。それは決して消えることのない、暗い宿命の色。
「テル、あーしは……」
レカの声が途切れる。その肩が、かすかに震えていた。
「バレたくなかった。気づかれたくなかったなあ……」
レカは腕を組んでうなだれた。テルはたまらない気持ちになった。
「レカ、気づくなって方が無理あるよ」
テルはなるべく強い感情を露わにしないように努力して言った。
「君は単なる暗殺ギルドの小間使いなんかじゃないなんてことは……。そんなの薄々わかってたさ。ねえ、レカ? バレたくなかったなんて嘘だよ? レカだって本当はわかって欲しかったんだろう?」
レカは俯いたまま、エルフの給仕からドリンクを受け取った。ぐいっと顔を上げてそれを思いっきり流し込む。琥珀色の液体が、彼女の白い喉を通るたびに、テルは何か、心に痛いものを感じていた。あれだけ強い刺激の飲み物を、あんなに勢いよく飲む。そのことが、彼女の苦しみを表している気がした。そうでもしなければ誤魔化せないくらいの苦しみを。テルは自分の感情が抑えられないことを自覚した。
「レカ。自分で、自分が僕に秘密を知って欲しがってるって! バレてほしいって! そうじゃなきゃ、僕の前であんなに苦しそうな顔しないでしょ!」
テルの手が机を叩いた。グラスが揺れて音を立てる。その音にレカの肩が小さく震えた。
テルはそんなつもりはなかったが、結果としてレカを責めるような調子になってしまったことに気づき、激しい後悔を感じた。ガズボとシャルトリューズは、その様子を楽しむようにニヤニヤして眺めている。レカはテルの方を見ることなく、瓶の中身を飲み干すと、またうなだれた。金色のポニーテールが、顔を隠すように垂れ下がる。
「テル。おめーには関係ねえ話だ」
レカの声は低く、冷たかった。しかしその指先は、瓶を握りしめて震えていた。ホワイトゴールドの髪の間から見えるその横顔には、まるで泣きそうな表情が浮かんでいる。
「夫婦喧嘩はそれくらいにしよーぜ?」
ガズボが大きな欠伸をしながら言った。その丸太のような腕を伸ばして背もたれに投げ出す。
「姐御はそういう仕事なんだよ。予想してたんなら驚くなっての。なあ、シャル?」
シャルトリューズは頬杖をつきながらそれに答える。
「そうよ~。誰にだって秘密ぐらいあるでしょ?」
シャルトリューズは触手を優雅に揺らしながら、グラスをくるくる回していた。その目は、まるでサーカスの見物人のように愉しげに二人を見つめている。
「違う!」
テルの叫びが、地下室の空気を震わせた。シャンデリアのガラスが僅かに揺れ、その光が二人の表情を明滅させる。
「レカは、僕に気づいてほしかったんだ。だって……」
テルの声が詰まった。拳が震えている。しかし猛獣のような視線が少年を射抜いた。
「おいガキぃ、いい加減にしとけ」
ガズボに睨まれてもテルはなおも食い下がろうとしたが、黄色い目が蝋燭の灯りの中でギラギラ光って、真っ赤に染まった口がぬらぬらてかって、あまりの迫力に黙らざるを得ない。
「テルだったか? ウチのお姫様の幼馴染だとは聞いてるが……そろそろ邪魔はやめてもらおうか? これから俺らは通さなきゃなんねえ筋ってものがあってな。ジャドワの兄貴の前で、大立ち回りをやらにゃならんのよ」
テルは気を張った。凛として立ち、テーブルを叩いた。
「くっ! お前のような巨漢にも屈しないぞ! 僕は!」
ゴグァアア!!
魔界のモンスターのような唸り声だった。奥にいたエルフたちがヒッと声を上げた。ガズボが本気で怒鳴ったのだ。猛獣の威嚇さながらだった。奥から心配そうに獣人のコックが顔を出し、エルフたちを叩いてから引っ込む。
「この貴族のクソガキがぁ! テメエも血をかぶってから言えってんだよ! ……聞いてるぜぇ? レカの姉御が嬉しそうに言ってたからなあ。あのかわいいテル坊は血を流さずに物事をおさめられる人だ、って。この街をちゃんとうまいこと統治してくれるってよぉ」
これが一番、テルにとってショックだった。その評価は、まるで自分の無力さを指摘されているようで、テルの胸が締め付けられた。レカは血にまみれながら街を守り、自分は言葉巧みに問題を回避しているだけなのか……。救貧院での活動ですら、レカほどにはできていないのだ。しかしそんな想いもガズボの剣幕で雲散霧消する。
「なあボウズ!? オメエら貴族はまるで人をマリオネットみてえに操るんだろぉ!? 貴族のやり方はいつもそうだ! そこが俺は気に食わねえぜ。テメエのような半端ものはぁ、結局レカの姐御を傷つけるんだぜ?」
「やめろガズボ」
レカが言った。あまりにも寂しそうな声に、ガズボも一瞬毒気を抜かれたようだった。レカは……本当に寂しそうな笑みを浮かべていた。テルの胸が痛んだ。抱きしめたいとすら思った。だが、その資格があるかどうか、彼にはわからなかった。
「なあテル」
これでこの話は最後にしよう、と言って、レカは話した。
「誰かを殺せば褒めてもらえる。あーしは、ただそれで生きてるんだ。ボスからのお褒めの言葉。それだけでいいんだ。あーしは」
数秒の沈黙があった。ガズボもシャルトリューズも、もう興味を失ったように食事に集中していた。レカは決してテルを見ようとしないで、テーブルの上に目線を落としている。
「本気で言ってるの?」
テルは頭の中で色々なことを巡らせつつ、この愛する幼馴染に問いかける。
「そんなんで、それでいいのかい? レカ! 君は……」
レカは寂しそうな笑みを崩さずに、
「……ああ」
とだけ答えた。テルは深呼吸して、次の言葉を繰り出そうとした。しかしそれはもうレカが許さなかった。
「もういい加減ごちゃごちゃうるせーぞテル坊! そろそろあーしらの邪魔はしねーでもらえるか!? 仕事前の神聖な食事の時間だ! 日頃から好きな飯を食い、嗜好品を浴びるようにやるのは、いつ死んでも悔いが残らないようにするためだ! 食事の邪魔は許さない! この、あーしはこいつらに好きなものを食っていいってことだけは保証してるんだ! 食事の時間は絶対の神聖な時間だ!」
レカの椅子が軋んだ。彼女は両手をテーブルについて立ち上がると、まるで獲物に向かっていくように上体を前のめりにした。普段テルに向けることのない赤い瞳の魔力が、一瞬だけ光った。それは父から受け継いだ血の証。テルは息を呑んだ。今まで見たことのない、ここまで剥き出しの感情をレカが見せるのは初めてだった。
「テル。あーしらはいつ死んでもおかしくねえんだからなーせいぜい食い物くれぇは好きなようにしないと、いざ死ぬときに後悔しちまう……。ボスが言ってたぜ。人間はうまいもんを飲み食いした記憶だけは忘れねーんだと」
テルもレカも仁王立ちになって、お互いを見ていた。両脇の亜人種両名は、食事をちょうど終えたようだった。テル。レカ。二人は、いつにない緊張関係を感じていた。先に目を逸らしたのは、レカだった。
扉が開く音がした。ジャドワが姿を見せる。その存在感に、室内の空気が一瞬で凍りついた。こういうことに疎いテルですら、直感が告げていた。この獣人は単なる傭兵以上の、もっと危険な存在なのだと。
「おや、まだ話は終わっていなかったか」
獣臭を放つ男が室内に入ってくる。テルは思わず後ずさったが、その仕草にジャドワは穏やかな微笑みを浮かべた。それは獣人の顔には不似合いな、まるで貴族のような優雅さ。しかしその瞳の奥には、計算された殺意が潜んでいる。テルにはそれが見えた。この男は何かを企んでいる。しかしその真意を読み取ることはできない。
「時間だぞ〜、レカちゃん。準備はいいか?」
レカは黙って頷いた。その瞳には、もはやテルへの感情すら映っていない。まるで人形のように虚ろな表情。それを見てテルは胸が締め付けられた。たった今まで激しい感情をぶつけ合っていた幼馴染みが、一瞬にして別人のように変わってしまう。これが暗殺者としてのレカの素顔なのか。それとも……。
ジャドワはテルの方へ歩み寄ると、懐から何かを取り出した。魔法科学ギルドの試作品、ハーマンから取り上げたリボルバー拳銃だ。その洗練された銀色の輝きは、この薄暗い地下室では異質な存在に見えた。
「これを返そう。君のお友達のものだったね」
ジャドワは銃を差し出した。その手つきには、かつて貴族に仕えた者の品格が残っている。テルは躊躇した。確かにハーマンからはこれの奪還を頼まれていた。しかし今ここで受け取ってしまったら、レカを置いて帰ることになる。それは裏切りに思えた。ジャドワが優しく続ける。
「さあ、受け取るがいいさ。帰してあげるよ。闘技場の外へ出る時は必要になるだろう。獣人たちの興奮は、まだ収まっていないからね」
「テル、取っとけ。そんで帰るんだ」
レカが言った。テルは銃を受け取った。その冷たい感触が、今夜の現実を突きつける。ジャドワの赤い瞳が、テルを見下ろしていた。その目には、人間を玩具のように扱うことに慣れた者特有の残虐さが宿っている。ニヤッと笑う。
「さあさあ、レカちゃん。観客が待っている」
レカはすっとテルの横を通り、一度も振り返ることなく、ジャドワの後ろへ並んだ。ガズボとシャルトリューズも続く。まるで怪物たちの行進のように。
テルはその場に立ち尽くしたまま、レカの背中を見送った。タンクトップから覗く鍛えられたしなやかな肉体に、この街のあらゆる責任がのしかかっているように思えた。魔光灯の青白い光がジジっとまたたく。テルの手の中で、銀色の銃身が冷たく光る。それは魔法科学ギルドの最新技術の結晶でありながら、今の彼には無力な玩具にしか思えなかった。
(レカ、君は、闇の中で僕に何も言わずにずっと……)
喉の奥で何かが弾け、ほほがつっぱって涙になって溢れそうになった。テルは銃を握り締めた手を下ろす。指先が震えていた。今まで知っていたレカと、今夜見た彼女の姿。その二つの現実が、彼の中でまだ重なり合わない。いつも強がっていた幼馴染みの、寂しげな表情がどうしても飲み込めない。
(父上は言っていた。『この街には光だけでは照らせない闇がある。それを全てつぶさに知りつつ、それでも光へと歩んでいける人間がこの街を導くべきだ』って……)
テルは静かに歩き出した。鉄の扉に手をかける。しかし彼の心は、すでに次の一歩を決めていた。今夜見た現実から目を背けるのではなく、レカの闇に寄り添える強さを、自分の中に見つけ出さなければならない。それが幼馴染みとして、そして一人の人間として、できる精一杯のことだった。
重い鉄の扉が開き、通路の闇がテルを飲み込んでいった。




