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マリオネットとスティレット  作者: 北條カズマレ
五章 冒険者のプライド
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二十一 リミナルダンジョン内部にて

 朽ちた手紙。黄ばんだ子供の靴。壊れた時計。不明言語の書物。見捨てられた神々の遺骸。


 それらは用途がわかる。


 微細な溝が格子状に刻まれた薄い金属板。均一な太さで切断された金属管。断面が鏡のように滑らかでどんな刃物でも出せない仕上がりのキューブ。図版だけで構成された見たことのない機械の手順書。


 しかしこういうものはパラクロノスの世界にはないものだ。


 全て、リミナルダンジョンで見つかったものだ。そこは明らかに異質な空間……いや、空間と呼べるかも怪しい。


 天井から逆さに生えた椅子は重力を無視して揺れ続け、明かりのない部屋でも影は濃く落ちる。地図を描こうとすれば線はうねり、紙は黒く染まる。世界のバグが貯まる場所、解き放たれた狂気の檻、現実の継ぎ目。それがリミナルダンジョン。


 青白い光を放つ階段の下から、上がってくる足音が複数聞こえたのは、第七層に差しかかったところだった。


 エリオンは立ち止まり、兜の開口部を少し前方に向け、耳を澄ませた。石造りの踊り場。手すりは途中から消え、代わりに壁面からよくわからない素材の管が生えている。下水管か、それとも別の何かか、どちらとも断定のできない管が、壁に埋め込まれたまま途中で折れて宙を向いている。五十年来の探索で見慣れたはずの光景だったが、今日はやけに異様に映る。壁面に张り付いていたソウツェク結晶が、今は一粒もない。深層に向かうほど豊かに光るはずのそれが、抜け落ちた歯のように、ことごとく消えていた。


「無事だったか」


 足音の主はすぐにわかった。冒険者ギルドの銀盾級第六班。今期の定期探索に派遣した、銀盾級二名とまだ階級を授けられていない四名からなる六人パーティだ。帰還予定より四時間早い。明かりを掲げた先頭の男——銀盾級のセルボが、踊り場でエリオンを見つけ、露骨にほっとした顔をした。


「エリオンさん」


「どうした」


「引き返してきました。第九層から先、まったく採れない。前回より上の層も軒並み枯れています。初ダイブのヴリノが足を捻りましたし、これ以上潜っても無駄だと判断して」


 エリオンは少しの間、思案するように兜に白金の手甲を添えていた。


「ふむ。では、アーティファクト類は?」


 セルボは鉄兜を被り直し、首を横に振った。


「……残念ながら……その……有用なものはいっさい……」


 エリオンはセルボの言葉を聞きながら、六人の顔を見渡した。疲弊しているが怪我は軽傷の範囲だ。問題はそこではない。頷き、できるだけ明るい声をかける。


「正しい判断だ。上がれ」


「ですが今月のノルマが」


「上がれ」


 一人一人の肩を軽く叩きながら繰り返したエリオンの声は、彼らの頑張りの対価として十分なものだった。まだ階級を授けられていない若者の中には、涙するものもいた。だが何度もダンジョン深くへ潜っているセルボは一瞬口を開きかけ、そして閉じた。六人のパーティが踊り場を通り過ぎていく。最後尾の若い女が、足を引きずりつつも会釈しながらエリオンの横を通り過ぎた。彼は足音が上に遠ざかっていくのを、ただ聞いていた。


 静かになった。すると壁が遠ざかり、天井が消え、足元の階段だけが確かな実体として残された。周囲は濃密な闇が支配し、時折魔力の閃光が遠くで瞬く。まるで何もない空間に浮かぶ孤独な階段のようだった。


「またダンジョンの蠕動が始まったか。あの若者たちが巻き込まれなくてよかった」


 エリオンは兜を外すと、フーッと息を深く吐いて踊り場の端に腰を下ろし、足元に展開された夜空のような暗い下層を見おろした。猫の耳がピクピクと周囲の状況に気を配る。


 以前ここを通った時には、壁面の至るところにソウツェク結晶が生えていた。緑がかった白い光が、魔光ランタンの明かりがなくても十分に足元を照らした。それが、今は何もない。どこか異世界から流れ着いた、限界を超えて固めた版築土塀のような硬い壁でできた四角い通路の壁面だけだ。


 五十年間、ここから街は生きる糧を拾い上げてきた


 エリオンは立ち上がり、さらに下へと降りた。第九層。第十層。足を止めるたびに壁面を確かめたが、結晶の気配はない。数十年前の昔、第十二層の広間は、採掘しきれないほどのソウツェクが柱状に林立し、その光の中では魔力感知の能力が誤作動するほどだった。異世界からの漂着物である魔法機械、アーティファクトも、役に立つものがどんどん手に入った。


 足を踏み入れた瞬間、エリオンは立ち竦んだ。


 何もなかった。


 柱の跡だけがある。折れた根元が床に残って、あとは空洞だ。採掘した痕跡ではない。自然に尽きた。吸い上げられて、干上がった。そういう消え方だった。


 広間の中央に立って、エリオンは壁を見た。天井を見た。床を見た。


 五十年かけて、ここに来るたびに感じていた圧迫感、大量のソウツェクが発する、空気そのものを押しつぶすような濃密な魔力の圧……それが、今日は欠片もない。ただの石の洞窟だった。


(採掘済みの廃坑と、何が違う)


 エリオンは心の中で呪うようにそう言った。セルボの言った「採れない」は事実だった。しかしそれは精度の問題ではない。量の問題ですらない。ここには、もう、ない。


(さらに深層へ? 20年かけて開拓したルートの他にまた新たな採掘ルートを? ……まさか、現実的じゃない)


 エリオンはしゃがんで、折れたソウツェク結晶の根元に触れた。石のように冷たい。生きているものの手触りがない。


 わかっていた。


 頭では、ずっと前からわかっていた。有限のものを際限なく消費すれば、いつか尽きる。それだけのことだ。わかっていて、しかし、エリオンは何十年もここに来続けた。採掘者を護衛し、結晶を持ち帰り、街の魔力を維持し続けた。英雄として。ギルド長として。


 正しくあり続ける、と選んだ結果がこれだった。


 エリオンは立ち上がった。手のひらの冷たさが残っている。


(少しでも、探索をしよう)


 さらに深く降りようとして、通路の先の空気の質が変わっているのに気づいた。深層特有の、空気がうすくなるあの感覚ではない。もっと別の何か。五十年間、この感覚を忘れたことはない。


 気配。


 物理的な存在の気配ではない。意識の重さ、とでも呼ぶしかないもの。壁にも床にも空気にも滲んでいて、特定の方向から来るのではない。リミナルダンジョンの最深部に根を張った、何か巨大なものが、息をしている気配。


 エリオンは声を出さなかった。


 声に出す必要はない。五十年前からそうだった。


(魔王存在、お前は聞いている)


 エリオンが考えたことを、それは自動的に拾う。そのことがわかっているから、エリオンはこの深さに来た時だけ、思考を言葉にする。


(我々が奪いすぎた)


 誰に向けるでもなく、胸の中でそう呟いた。


(五十年間、何もできなかった。止めることも、変えることも。ただ英雄の顔をして、採掘に採掘を重ねた)


 壁面の岩肌が、微かに鳴動した。あるいはエリオンの耳がそう聞いたのかもしれない。返答ではない。確認だ。聞こえている、という、それだけの。


(もうここには、何もない)


 踵を返した瞬間、広間の反対側に扉があった。降りてきた時にはなかった扉だ。鉄製で、表面に細かい文字が刻まれている——しかしパラクロノスのどの言語でも読める文字ではない。エリオンは立ち止まり、三秒ほど眺めた。それから何事もなかったように広間の出口に向かった。ダンジョンはいつもこうだ。何かが生えて、何かが消える。意味があるとは限らない。


 エリオンは階段を探し、登り始めた。階段を登り始めながら、足の重さが変わらないことを確かめた。絶望しているかと問われれば、していると答えるしかない。しかし絶望は今日始まったものではない。五十年前から抱え続けているものが、今日ようやく外側に形を持っただけだ。わかっていたことが、目の前に置かれた。それだけのことだ。


 第七層の踊り場を過ぎた。第五層。第三層。


 セルボたちとは合流しないまま、エリオンは単独で地上の出口まで登り続けた。松明は持っていなかったが、腰につけた物品……魔力ではなく別の力で動く照明機械(これもこのダンジョンで拾ったアーティファクトの一つだ)のおかげで、暗くはなかった。


 出口の扉を押し開けると、パラクロノスの午後の光が差し込んだ。


 エリオンは目を細め、しばらくそこに立っていた。


 ここは大時計塔の基部だ。真上の大時計が、ゴーンと正午の鐘を打ち鳴らした。

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