第十八話 賭けの行方
地下通路の湿った空気が、レカの肌を刺すように冷たかった。ここまでは魔光灯の導線も引けないようで、灯りは松明だけだ。石造りの壁に沿って点々と灯るそれが、二人の影を不規則に揺らめかせる。ジャドワの分厚い手がレカの肩を掴んでいた。その圧力は、レカの超人的な身体能力をもってしても振り切れないほどの力を秘めていた。父から受け継いだ赤い瞳の魔力も、この獣人の前では無力だった。
「街の秩序維持ィ?」
レカの頭上から嘲笑が降ってくる。獣人の体から漂う獣のような臭気が、地下通路の湿った空気に混ざる。
「笑わせるな。お前たちが守ってるのは、この腐った街の表面的な安寧だけだ」
心底からおかしそうなジャドワの声が通路に響く。
「なあ、レカちゃん?」
ジャドワの声が柔らかくなる。しかしレカの肩に置かれたその手の力は、少しも緩まない。ただ置かれているようだが、それは効果的に人体の動きを制限している。前へ進むことも後ろへ逃れることも、膝の力を抜いて外すのも不可能だった。レカは逃れるのを諦め、横目でジャドワを観察し続けていた。獣人傭兵の荒々しい体格の中に、どこか貴族的な洗練された影が見える。腕や指の毛皮の下から盛り上がった傷跡の数々は、ただの傭兵とは思えない戦歴を物語っていた。特に首筋の傷痕は、暗殺者に襲われた傷にも見える。常人なら生き延びるはずのない修羅場wを、この男は乗り越えてきたのだ。
「この街の底辺で這いつくばる獣人どもは、人間の『秩序』なんぞに何の恩恵も受けちゃいない。お前たちの平和は、俺たちの屍の上に建てられている」
「……そうかもな」
レカは静かに答えた。彼女の赤い瞳が、松明の光を受けて妖しく輝く。そして横を歩くジャドワを見上げる。
「でもよ、だからって暴力で全部解決できると、本気で思ってんのか?」
「ククク……」
ジャドワの笑みは不気味だった。余裕と共に、残虐さを湛えている。
「お前にそれを言われる筋合いはないな。暗殺者さんよ」
ジャドワの手が、さらに強くレカの肩を締め付ける。ミシミシと骨が悲鳴を上げ、レカは苦痛で顔をしかめたが、声を上げることはなかった。
「はは、まあまあ仲良くしようや。同じ赤い瞳を持つ仲間じゃないか」
レカの脳裏に父、タティオンの顔が浮かぶ。赤い瞳……必ずしも血統によらない、身体強化の才能を示す特徴。その繋がりを、彼女は父親にだけ感じていた。断じてこの無礼者とではない。
地下通路は、観客の熱狂も届かないほどの静寂に包まれていた。その石造りの壁に囲まれた薄暗い空間で、レカの瞳が闇の中に違和感を捉えた。豪奢な衣装を纏った肥えた男の存在。
「オーナー……」
ジャドワが呟いた。レカはめざとく松明の灯の中の肥満の男を観察した。太った男だった。絹のローブの下からはみ出す腹は、まるで人間の欲望そのものを形にしたかのよう。しかしその目には、人の命を玩具のように扱うことに慣れきった者特有の狂気が宿っていた。闘技場という暴力の劇場を支配することで肥え太った魂の腐敗が、その全身から匂い立つようだった。やがてその男は近づき、松明の光が、その贅肉の塊全体の姿を不気味に照らし出す。
「なあ、ずいぶん考えるのが上手くなったなあ、ジャドワ」
ねっとりしたオーナーの物言いに、ジャドワは立ち止まる。
「ああ、ご主人様。今この可愛らしいネズミから色々聞き出すところでしてね……」
その言葉が終わる前に、オーナーの絹のローブの袖がさらさらと音を立てる。帯から抜かれた銀色の短剣が闇を切り裂いた。レカは一歩飛び退こうとしたが、彼女の肩に置かれた手はびくともしなかった。短剣はジャドワの腹に深々と突き刺さった。ボタっと垂れた黒い血が石畳を濡らす。
「このできそこないのハーフ獣人がっ!」
オーナーの声は、まるで腐った蜂蜜のように粘っこく、不快な臭いを持っていた。
「お前に稼ぐ方法を教え、傭兵隊長の委任状を与えてやったというのに!」
刃がジャドワの腹で踊り、腹筋を切先で傷つける。レカはジャドワの呼吸の乱れを捉えた。しかしそれは一瞬の、ほんの僅かな乱れに過ぎなかった。その奥に潜む激しい殺意に、レカは息を呑む。
「申し訳ございません、ご主人様」
ジャドワは笑みを崩さない。その声には、まるで何事もなかったかのような冷たさがあった。
「法的にはまだお前はワシの所有物だぞ」
短剣がさらに深く捻られる。
「誰の許しを得てその心臓を鼓動させている?」
オーナーの声が狂気じみていく。
「なにを勝手にお前自身のリズムでドクンドクンやっているんだ?」
レカは目を細める。支配される者の中で最も危険なのは、完璧な従順を演じることができる者。そのことを、レカは暗殺者として、そして父の娘として、誰よりもよく知っていた。ジャドワの瞳に宿る光は、かつて自分も見たことのある色を帯びていた。それは表向きの忠誠の奥底に潜む、絶対に折れることのない意志の光。
ジャドワの赤い瞳は、もはやオーナーの姿すら映していないようだった。その向こうの、遥か遠くにある何かを見つめている。オーナーは短剣を引き抜くと、血に濡れた刃先を喉元に突きつける。だがジャドワは、まるでそれが存在しないかのように、少しだけ顔を下げて礼をし、ゆっくりとオーナーの横を通り過ぎた。その背中には、支配を超越した者の威厳があった。オーナーは一瞬、自分の力が及ばない存在を目の当たりにして、たじろぐ。
通路の先へと歩みを進めるジャドワ。レカも後に続く。二人の影が、松明の光に照らされて壁を這う。しばらくして、レカが声をかける。
「オメー、大丈夫か?」
ジャドワは手で腹を押さえてぐっと力を込める。すると出血が止まったようだ。
「なあに、いつものことさ」
その声には不思議な明るさがあった。レカはその言葉に、この街の闇の深さを改めて思い知る。支配と被支配、暴力と忍従。そしてその連鎖の中で育まれる、より深い暴力の予感を。
(こいつ……)
レカは敵以外の感情のもとにこの男の人生を想像した。そしてその肉体的頑健さを。腹の傷も、まるで痛みを感じていないかのよう。あれほどの深手でも動きは変わらない。
(よくこんな化け物が今まで大人しくしてたもんだぜ……)
暗殺ギルドのスティレットとして闇に生きるレカと、心を闇に隠し街の外の戦場で傭兵に徹した男。その差はもはや埋められないものに思え、敵への賞賛は畏怖になりつつあった。
(まいったな……すでに反乱の意思は明らか……あーしにこいつが殺せるのか?)
闘技場の賭場は、汗と欲望の匂いが充満していた。多くの観客たちが集まり、魔光灯の青白い光が煙草の煙に遮られ、まるで水中のような朦朧とした空間を作り出している。ハーマンとテルは精算窓口に向かう。その途中、テルの鼻をくすぐったのは、獣人特有の獣臭さと高級な香水の入り混じった異様な空気だった。
カウンターの向こうには、タトゥーで腕を彩ったウサギの獣人の女性が座っている。白い毛並みと長い耳には似合わない、粗暴な図柄の刺青。それは、この街で生きる獣人の矜持と屈辱の証のように見えた。彼女は帳簿を確認するフリをしながら、上目遣いで二人の貴族の子息を値踏みするように見つめている。
「ん~?」
獣人は意図的にゆっくりとページをめくり、わざとらしく首を傾げた。
「清算ん〜?」
ハーマンがまゆをひそめた。この世で最も面倒な仕事は貴族の若者と会話することであるとても言いたげな、極めてだるそうな振る舞い……。彼はここまで無礼な態度を取られた経験がない。「あー」と、獣人が合点が言ったように唸った。
「あの女の子に賭けたやつなんて、1人もいないみたいねえ。残念だけど、記録にないものは諦めてもらうしかないわ」
「冗談はよせ」
ハーマンの声が冷たくなる。
「さっきここで、確かにあんたから買っただろうが、券を……」
うさぎ耳の獣人女はふっと吹き出した。
「記録にないものは、なかったことになるの」
獣人は薄笑いを浮かべながら、真っ直ぐにハーマンを見据えた。その瞳には、見下されることへの倦怠と、密かな復讐心が混ざっている。
「闘技場の掟ってやつよ。貴族様でもね」
ゲラゲラと、周りから笑い声が聞こえる。テルは思わず息を飲んだ。後ろを見回すと、他の観客たちが円陣でも組むみたいにテルたちを取り囲んでいる。敵意に満ちたニヤニヤ笑い……。
(……見たことないような団結ぶりだ……)
テルは身震いがした。貧民街で強盗にあったことはある。しかしこんな多数の人間から剥き出しの悪意をぶつけられたことはなかった。獣人の挑発的な態度の裏に、この街の差別構造への怨嗟をありありと感じる。だが同時に、隣のハーマンからも危険な気配が立ち昇るのを感じた。
「おい、舐めたクチを利くなよ?」
ハーマンの声が一変する。優雅な貴族の仮面が剥がれ落ち、素の暴力性が顔を出し始めた。
「獣人のゴミのくせに、貴族様に歯向かうつもりか?」
空気が張り詰めた。賭場の喧噪が一瞬で静まり返る。
受付の女獣人の耳がピクッと揺れた。魔光灯が放つ青白い光の下、緊張感に耐えられなかったのか、テルがふっと上を向く。闘技場の開け放たれた天蓋から、遥か遠くに第時計塔が見えた。いつもは忌々しい暴力的支配構造の象徴に見えるそれも、こうもぼやっとしか見えないと心細い。
「払えよ!」
ハーマンの声が賭場を切り裂く。すでに周りの獣人たちは不気味なまでにシーンと静まり返っていて、今にも飛びかかってきそうだ。まだまだ未熟な貴族の怒号には、傲慢の裏の焦りが滲んでいた。街一番の武器工房の跡取りである彼にとって、金よりも、それ以上に面子が問題なのだ。
受付のウサギの獣人は、ゆっくりと吟味台の上に肘をつき、腕を組んだ。腕には傭兵ギルドの下部組織を示す刺青。人ならざる黒い目が、貴族の若者を値踏みするように見つめる。
「申し訳ございませんが、試合が中断された以上、払い戻しはできかねます」
丁寧な言葉の裏に潜む侮蔑。窓口の前に並んでいた客たちのうち、野次馬程度の興味しかなかった者は、事態を察して静かに身を引いていく。残るのは大柄な、牙を見せつけるように口からのぞかせる大型獣人のみだ。獣人と貴族の確執は、この街では日常茶飯事だった。しかし、今宵はどこか空気が違う。なぜなら、いつもならどうしたって獣人の側ーが折れることになるのに、ここでならおそらく、それは逆になるから。
「や、やめようよ、ハーマン?」
テルは幼い頃から街の暗部を知る者として、この場の危うさを感じ取っていた。しかし、ハーマンの腕から伝わる震えは、もはや理性では制御できないものに変わっていた。
彼の上着の内側から取り出されたのは、魔法科学ギルド最新の試作品、魔導合金製リボルバー。銀色の銃身が、女獣人の鼻先にわずかに触れる。彼女は耳をピクリとも動かさない。その静けさにこそ、真の危険が潜んでいた。
「なにそれ? 銀細工の飾り?」
受付の女獣人の挑発的な声に、周囲の獣人たちが含み笑いを漏らす。その笑いの中で、ハーマンの理性が音を立てて砕けていく。
彼の指が引き金に触れた瞬間、獣人たちの耳がピクリと動く。火薬に火をつける音も、導火線のジリジリという音も、火縄銃特有の予兆は一切ない。しかし彼らの鋭敏な感覚は、何か決定的に違うものの存在を察知していた。
轟音が響いた。
笑いが凍りつく。獣人たちの鼻腔が一斉にヒクつく。彼らの優れた嗅覚が、発射後に初めて漂い始めた火薬の臭気を捉えた瞬間だった。受付の横の壁に、小さな穴が開いている。
「火薬の臭いが……撃つ前には、なかったはずだ」
「これは、火縄なしで……?」
「そんな、ありえない……」
獣人たちの囁きが重なり合う。彼らの耳は不安げに揺れ、尻尾は警戒するように下がっていた。テルはその反応を静かに見つめていた。リボルバー拳銃……薬莢、管理しやすい火薬……。撃つために何の準備もいらない銃は、まだこの世界には存在しないはずの武器。ハーマンが見せつけたのは、単なる武器ではない。貴族の持つ新たな暴力の形だった。
「ふん、まだ試作段階だがなあ。面白いだろう?」
ハーマンの手にある銃からほんの少し硝煙が上がる。彼は獣人たちの動揺を眺めながら、うっすらと笑みを浮かべる。その表情には、技術の進歩を独占する者の傲慢さが滲んでいた。そして再び受付の女獣人に銃口が向いた。
「さあ、これでも払わないつもりか?」
その言葉が空気を切り裂く瞬間、フッと、賭場の空気が変わった。それはテルでもわかった。魔光灯の明かりですら、息を潜めたかのように。取り囲んでいた獣人の群れが割れ、背の高い男が一人やってきた。
「やあ、若き貴族殿」
(こいつ……っ!)
テルは、さっきレカの首がぎりぎりと締め付けられていた光景を思い出した。ジャドワ。その名をテルは以前から知っていた。いや、誰でも知っているだろう。この街の獣人傭兵部隊を、使い捨てから英雄に変えた革新者。半人狼のジャドワ……。こうして近くで見ると、テルの倍、背の高いハーマンより頭二つ分以上大きい。ハーマンも狼狽えたようだった。そんな彼に、ジャドワは優しく語りかける。
「その銃はお父さんから借りてきたものかな? 武器工房の跡取り……ローデシアのご子息らしい、良い趣味だ……」
涼やかな声が、張り詰めた空気を溶かし、そして再び凍らせていく。周囲の獣人たちが頭を垂れている。彼の立ち姿には獣人の荒々しさを感じさせない優雅さがあった。
「貴族の坊やよ」
その声は優しい。ハーマンは努めて動揺を表に出さないようにする。
「その引き金を引いてみたまえ。獣人がどれほどの速さで動けるか、その目で確かめるのも勉強になるだろう」
ジャドワの口元が、かすかに歪む。その微笑みには、この街の暴力を知り尽くした者の余裕が滲んでいた。
「い……いいだろう……」
ハーマンがジャドワに銃を向ける。その瞬間ピンと空気が張り詰めるのがテルにもわかった。彼らの王に武器を向けたことへの、この夜一番の敵意。しかしハーマンは気付いているのかいないのか、指が引き金に掛かる。テルは息を呑んだ。
バン!
轟音が賭場に響き渡る。しかしジャドワの姿は既になく、まるで影が実体化したかのように、ハーマンの背後に立っていた。超人的な動きに、観衆からどよめきが漏れる。暗殺ギルドの連中でさえ、これほどの速さは見せない。
「おや、外したか。残念だったな。君にはまだ……獣人種の本質は理解できないようだ」
ジャドワの声には余裕が滲んでいた。賭場は水を打ったように静まり返る。魔光灯の光が彼の赤く光る瞳を照らし、そこに宿る獣性と知性の奇妙な均衡を浮かび上がらせる。
「さて、こんな場所で血を流すのは面白くない。私の店で一杯どうかね? もちろんティトゥレー嬢への賭け金は、おいらが立て替えよう。いや何、どうも彼女逃げちまったらしくてね。そういう場合は闘技場側の落ち度だ。ちゃんと払うさ」
ハーマンは安堵した表情を見せる。
「そ、そうか、それなら……あっ!?」
ハーマンの手から、いつの間にか銃が消え、金貨に変わっていた。それはきっかり同じ重さだった。代わりに銃はジャドワのポケットの中にある。今やそれは無害な玩具と化している。テルは深い息をつく。喉に粘りついていた緊張が吐き出されたかのようだ。そんな彼の肩に、ジャドワが軽く手を置く。その仕草には、かつて貴族に仕えた者の品格が残っていた。
「闘技場の地下に、おいらの酒場がある。すでに君の大切な人も招待してある。さあ、お腹が空いただろう?」
その言葉には、この街の闇と光を知り尽くした者の説得力があった。テルとハーマンは恐る恐る顔を見合わせる。テルの目に映る兄代わりの青年の姿は、可哀想なくらいブルブル震えていた。
二人はジャドワの後を追う。賭場の空気が、ようやく緩みはじめる。
二人が消えた後、受付の獣人は、長い溜め息を吐いた。刺青の下には、まだ冷や汗が滲んでいる。……まだ未熟な年頃だろうと、貴族はみんなドラゴンだ。荒くれ者には慣れている彼女でも、銃を突きつけられて平静でいられるわけもない。汗を拭き、息を整える。彼女の鋭い嗅覚は、そこに人間の血の匂いと、迫り来る嵐の予感を感じ取っていた。それは今宵の闘技場に、いつもと違う風が吹いていることを告げているのかもしれない。大時計塔の影が、闇と共にゆっくりとその場所を覆い隠していった。




