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雨とまぼろし①


最早、彼の者に眠りはない。マクベスは、眠りを殺したのだ。


-シェイクスピア『マクベス』より-


【目次】


1.夫人の災難

2.さまよう心

3.始まり


1.夫人の災難


鐘が鳴っている。


古い時計の鐘。


ローランド夫人は、その音をぼんやりと聞きながら、1歳になる息子を両手の間で抱き、夫の帰宅を待っていた。


鐘は、まだ鳴っていた。


名士だった夫の祖父がその昔、皆殺しにされたロシアの皇族の城から持ち出したと噂のある、曰く付きの時計。


「まるで、生きているみたい」


理由はわからなかったが,最初にその時計を見た時から、夫人はそう思っていた。


「みたい」は、すぐに確信に変わった。


時計の中から,頻繁に何者かの視線を感じるのである。


気味悪がった夫人が覆いを付けても、少しでも目を離すと、いつの間にか覆いは外れ、床に落ちていた。

ある時などは、まるで嘲笑うかのように、テーブルの上にきちんと畳んであった事もあった。


「あれは間違いなく生きてる。あの黒い針の間から,だれかが私を監視してる」


夫人はそう思っていた。


まだ誰にも話したことはないが、そのうちあの時計はどこか、人目に着かない場所にしまい込んでしまおう、と密かに夫人は考えていた。


時計が11回目の鐘を打った。


(今夜は遅いのね)

と夫人は思った。


夫はいつもは遅い日でも,9時には帰ってくる。

連絡もなく,こんなに遅いことは珍しい。


急ぎのお仕事なのかしら。


夫人は,窓から庭を見つめ、自動車の明かりが見えないか、目を凝らした。


秋口の、肌寒い夜だった。

庭に小雨が降っている。広い庭は墨を流したように暗い。


庭木がさわさわと風に揺れていた。


窓が急にガタッと大きく鳴った。


夫人はびくっと背筋を硬直させた。


時計はいつの間にか鳴り止んでいた。


今度は、逆に、耳鳴りがするほど静かである。


広いリビングに、夫人の息の音と、白い吐息が拡散していく。


窓がガタガタ鳴っていた。


ふと、目の端で、何か黒い影が動いた気がした。


それ以上見ない方がいい気がして、夫人は、窓から目を離した。


その瞬間、


「ピンポーン!」


唐突に、玄関のチャイムが鳴った。


夫だろうか、と夫人は思って、はーい、と呼び掛けた。


返事はなかった。


暫くおいて、


「ピンポーン」


と、またチャイムが鳴った。


そして、


ぴしゃ……ぴしゃ…


水で濡れた足で歩くような足音が、廊下から聞こえてきた。


夫人は全身が痺れたように、その場に立ち尽くした。


ぴしゃ…ぴしゃ…


足音は次第に大きくなり、リビングにつながるドアに近づいてくる様だった。


誰かが近づいてくる。


どう考えても、夫ではない。


(泥棒なの?それとも…)


とにかく、ここにはいない方がいい、と思った。


夫人は火がついたように泣く息子を抱いたまま、縺れる足を必死で動かし、全速力で走り出した。


いくつかの廊下を抜け、ドアをくぐり、無我夢中で空き部屋の一つに駆け込み、ドアに鍵を掛けた。


月明かりの中に、ぼんやりと壁に掛けられた絵画と椅子一つが見えた。


いったい、家に入って来たのは誰?

泥棒?それとも…。


ドアに耳を着け、様子を伺ってみた。


気配はなかった。


心臓が、肋骨を激しく打ち付けていた。汗が玉になって顎から床に滴り落ちた。


夫人は汗を拭おうとして、自分の手元が見えない程、辺りが真っ暗なことに気づいた。


この部屋は、こんなに暗かっただろうか?


いや。


耳元に生暖かい吐息が吹きかかった。


真っ黒な影が、夫人の背中側から、覗き込む様に覆い被さっていた。


誰かの笑い声が聞こえた気がした。


その瞬間、夫人は、本能的に、自らの生の望みがないことを悟った。


叫び声を上げる間もなく、空気を裂く鋭い音と共に、夫人の世界は、瞬時に消失した。


床に広がっていく血溜まりを、時計が銀の針の間から見下ろしていた。


2.さまよう心


チャーリー・テイラーは、ベッドの上で、高熱に呻いていた。


最初に発熱したのは、3日前の夜だった。


その日の朝、起きた時から何となく体が重いと感じた。


眠いせいだと自分に言い聞かせ、無理矢理頭から冷たいシャワーを浴び、そのまま訓練に行った。


それがそもそも失敗だった。


運が悪く、その日は屋外での訓練で、風が強く、しかも終わり間近になって強い雨が降りだした。


隊員が苦しむ姿を見るのが無上の喜びである指導官が、残り僅かの訓練をわざわざ屋内に移動して行う手間を掛ける筈もなく、訓練はそのまま土砂降りの中で続行された。


雨の中で訓練が行われたのは、精々4、50分程度だったが、その間中、ずっと冷たい雨に打たれ続けたことが、弱った体に最後のとどめを差したらしい。


その日の夜中にふと目を覚ました時には、既に高熱が出ていた。


こんな時、親切に看病してくれる友人などがいれば、と思うが、現実の人間は、聖書のサマリア人の様に慈悲深くはない。


ルームメートは、風邪がうつるのを嫌ったのか、はたまた、病人には安静が必要、という外泊する格好の口実を見つけたからか、チャーリーが発熱した次の朝にはもう部屋から姿を消しており、それから丸二日間、部屋に戻ってくる気配はなかった。


そういうわけで、チャーリーはたった一人、汗臭いベッドの上で呻いているしかなかった。


薬は頼めば届けてくれるはずだが、もう一度起き上がって、壁に掛けてある電話までいく元気はない。


訓練を欠席する連絡をしなければならなかったので,朝は何とかそこまで這いずって行ったが,立ち上がっただけでひどい眩暈がして,そのあとで二度も嘔吐してしまった。


二度目は、とても無理そうだった。


熱を出すのはそんなに珍しいことではない。


もともと体はあまり丈夫な方ではなく,風邪を引くこともしょっちゅうあった。


チャーリーが嫌なのは,熱が出ることよりも、そうやって熱を出して寝込んでいる時には,決まって悪夢を見ることだった。


家族の夢だったり,古い友人の夢だったりしたが,時には戦場にいた時の夢だったり,自分でもよくわからない,薄気味悪い夢だったりした。


中には、とても夢だとは思えない程生々しい夢もあり、そういう夢を見て目覚めたあとは、暫く憂鬱な気分で過ごさなければならなかった。


また、そういう夢を見た後は、何かよくない事が起きるということも、チャーリーの中では確固として法則化していた。


そうこう考え事をしているうちに、いつの間にかまた眠りに落ちていたらしい。


目が覚めると、瓦礫の中を歩いていた。


どこかの街角らしい。

崩れた壁や、コンクリートの水槽が見えた。


足が酷く冷たく、痛い。

下を見ると裸足だった。


粉雪の混じった風が吹き付け、半袖の腕を抉った。


裸足の足が石畳を踏みつけた。

激痛が足の裏から背筋を走り抜けた。


急に、霙混じりの雨が降ってきた。


雨が、急速に水かさを増していき、氷のように冷たい水が、踝を浸した。


寒さのせいで、足が棒の様に硬直してうまく動かず、瓦礫につまずいて水溜まりの中に転んだ。


頬が水を打った。


冷たい泥水が、目に、鼻に、口に染み込んでいく。


泥に、ゆっくりと体が沈み混んでいく。

もがこうとしたが、体が動かない。


泥が、口の中に流れ込んでくる。

息を吸おうとしても、喉の奥に詰まった泥がそれを妨げる。


ひゅー……ひゅー……がぼっ……がはっ……


息…苦……し……


体はほとんど泥に沈んでいるのに、なぜか頭だけがなかなか沈まない。

頭だけを泥の上に突き出し、水から無理やり引きずり出された魚のように、ただ口だけを動かしている。


誰か……助けて…


涙が溢れた。

目に激痛が走った。

いつの間にか、両目にぎっしり泥が詰まっていた。


あ、痛!と思ったところで、本当に目が覚めた。


あわてて自分の目を触ってみたが、もちろん、泥など詰まってはいなかった。


目から泥ではなく、本物の涙が流れていて、少し閉口した。


時計を見ると、夜中の2時だった。

変な時間に起きちゃったな、と思った。


肌に当たる冷たい風の感触がまだ残っていた。


灰色の空、身を切る風の冷たさ、霙、泥、そして雪。


全てが、あの頃のままだった。


敗走を重ね、街から街へ放浪していた、あの頃。


「死」がすぐ隣にあった。


チャーリーは軽く頭を振った。


罪悪感に苛まれている。いつも。


体の置かれた場所に心がついてくる、というような言葉を昔聞いたような気がするけど、自分の心は今、どこにあるんだろう。


あの夢の中の、どこでもなくて、どこにでもあった

街角を、まださまよい続けているのだろうか。


ぼんやり考え事をしながら、チャーリーはまたいつの間にか眠りに落ちていた。


3.始まり


翌朝目覚めると、熱はすっかり下がっていた。

活力が、体にみなぎるのを感じた。


窓を開けた。


頬に当たる朝の風が気持ちいい。

鳴いているのは雲雀だろうか。

何かいい事があるかも、とチャーリーは思った。


その時ふいに、周囲の音が停止した。


ザッとノイズが聞こえた。

甘い感傷を打ち砕くように、低く、乾いた声が、頭の中に飛び込んできた。


「すぐ来い」














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