1998年 火取虫(5)
「いやいや、しかしびっくりしたよ。まさか透が痴話喧嘩とはな」
階が違う教室にわざわざやってきて、そんなことを言う。ぼくのクラスだというのに、良輝くんのほうが馴染んでいて、我が物顔でぼくの前の席に座る。放課後の喧騒にも慣れた様子で、何人かと挨拶を交わしたりしていた。
「いや、別にそんなんじゃ……」
そんなんじゃない、とぼくは思う。あれは恋愛ではなかった。なんとなく寂しかったときに近くにいただけで、だからやっぱり殴られたのは理不尽の気がした。
「あんまり、落ち込むなよ。今度合コンセッティングしてやるから、な?」
ぼくを気遣っているのだろうか。あまり心配をかけるのはよそう。実際、ぼくは落ち込んでなどいないのだけれど、こういう友達がいるのは心強くもあった。
良輝くんはいつもそうだ。何も思っていないような顔をして、本当はたくさんのこと、いろいろのことを考えている。きっと他のみんなもそうだ。いなくなったクラスの人も、何かを考えて学校を辞めていったのだ。
制服だけで入学した、何も考えていないぼくだけが、中途半端にぶら下がっている。世紀末を従えた九月の空はどんよりと曇っていた。
惰性で生きている気がしたが、不思議と焦りはなかった。難しい季節をなんとなくで乗り過ごしている自分は、得をしているとさえ思った。頭の半分だけで物を考えていた。
見慣れた机に頬杖をついた。手首の血管が顎に触れる。熱を持って、動いているのが分かった。ぼくは生きている。
良輝くんの世間話を聞きながら、ぼくは生きていて良かったと思った。




