1998年 火取虫(4)
「なぁ」
昼休み、いつものように売店で菓子パンを買った。その低い声は、メロンパンとクリームパンを無事に獲得したことで喜んでいたぼくの気持ちを、一瞬で下降させる。
「……はい?」
見上げるほど背が高い。髪は明るい金髪で、耳にはいくつものピアスを開けていた。一瞬見えた口の中にも、キラリと光るものがあったが、見なかったことにする。知らない顔だから、たぶん同学年ではないだろう。それにしても凄い格好だ。
「ちょっと、」
派手な身なりの先輩は、有無を言わせない様子で顎をしゃくる。返事をする暇もなく、ぼくは腕を掴まれ、購買部から引きずられた。上級生が入り浸っている、タバコ臭い三階の階段を上がり、さらに上へと進む。
いつの間にか、腕は自由になっていたけれど、ここで方向転換をして逃げ帰ったら、あとでどんな仕打ちが待っているのかは、想像に難くない。
先輩はどんどん階段を上がり、固い鉄製の扉を開けた。夏の終わった生暖かい風が一気に駆け抜ける。
太陽は西に傾き始め、昼下がりの暖かい光を、コンクリートに注いでいた。
ぼくは渋々先輩に続き、屋上へ出る。陽気が良い所為か、ちらほらと人の気配があった。もっとも、三年生ばかりだが。……なんだか気まずい。
「で、」
先輩は振り返り、鋭い視線でぼくを見る。見つめられただけで背筋を伸ばしてしまう、そんな眼光だった。
「俺に何か、言うことあるよな」
「えーと……」
なんとなく想像はついていた。きっとこの人は、結城先輩の恋人だ。先輩に怪我をさせてしまったから怒っているんだ。ぼくは一体、何をされてしまうのだろう。
無意識に手が震えているのが分かった。拳をつくると、爪が掌に食い込む。指先が冷たくなっていた。
怖くて怖くて堪らない。身体は麻痺したみたいに感覚がないのに、なぜか頭の芯は冷静だ。震える唇を開き、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「結城先輩のことですか」
思ったよりも低く、落ち着いた声が出た。少しだけ肩の力が抜け、しっかりと先輩を見ることができた。
「家に行ったから、怒ってるんですか? それは、放っておいたアンタが悪い」
「あ゛あ?」
ぼくがそう言うと、先輩は怒った様子で近づいてきた。制服の襟首の辺りを掴まれる。相手の体温や息遣いが如実に感じられ、身がすくんだ。
「せ、先輩は寂しかったんです、たぶん。おれは何も悪くない。何もしていない……ですし」
目を伏せて、後ずさる。二三歩で背中にフェンスが当たり、いよいよ逃げ場がないことを悟った。
太陽がジリジリと照りつける。こんなにも天気が良いのに、背中を冷や汗が伝っていった。
「何もしてないってことはないだろッ! 怪我までさせて!」
耳元で大声を出され、頭に響いた。思い切りフェンスに身体を押し付けられ、背中が痛む。一瞬だけ後ろに見えた校庭が遠く、恐怖で目を見開いた。
どうやら先輩は相当怒っているようだ。結城先輩が彼に何と言ったのかは分からないが、ぼくは相当の悪者になっているらしい。
「あのう……おれ、キスしかしてないです。あと、痛いです、すごく。離してください」
素早く目線を走らせたが、もう周りに人の気配はなかった。反撃をしようと突っ張った腕を、逆に掴まれてしまう。
「はあ? テメェ自分が何したか分かってんのか!?」
捕まれた手首がひどく痛む。締め上げられた所為で、指先の感覚がほとんどなかった。手に持っていた昼食のパンが落下してゆく。
「甘ったるいもん食いやがって!」
メロンパンが踏み潰される。クリームパンのほうは遠くに蹴飛ばされ、視界の端へと消えていった。
不意に、捕まれた左手が解放された。痛みが引いて安心したのも束の間、今度は左の頬に物凄い衝撃がやってくる。身体ごと倒れ、後頭部がフェンスにぶつかった感覚に視界が揺れた。
「これぐらいで勘弁したる」
そう言い残し、先輩は遠ざかっていった。頬はジンジンと痛み、心臓は全力疾走したあとのように早い。ちょっとしたパニックで、思考が思うように纏まらない。断片的に、殴られたのは理不尽だと感じていた。
とても怖かった。ぼくも早く帰らないと。
後頭部を押さえて立ち上がり、パンを拾う。鈍い痛みと共に、ドロリとした感覚が鼻を襲った。舌で舐めとると、鉄のしょっぱい味が口に広がる。
瞼を閉じ、上を向いて鼻血を直接喉に流し込む。久しぶりの快感に全身が震えた。
眩しい太陽もお構い無しに目を開く。青々とした空に、解放感を覚えた。
気分が落ち着き、辺りを見渡す。クリームパンを目で追うが、若干の違和感に、ぼくは顔を歪めた。
「あれ?」
見当たらない――正確に言うと、全体的に風景がぼやけて見える。おそるおそる顔に掌を持っていくと、案の定違和感があった。
眼鏡がない……。あれがないと真っ直ぐに歩く自信もない。命の次に大事なものだ。
仕方がない。ぼくはゆっくりと膝をつき、コンクリートに掌を這わせた。冷たい砂利の感覚に絶望する。遠くまで飛ばされていたらどうしよう。見つけるには随分時間がかかりそうだ。
何本目かの煙草の吸殻の感触に消沈する。秋を帯びた九月の強風に、眼鏡がまた遠くへ行ってしまったのではないかと不安が募った。
早くしないと……。気持ちばかりが焦り、一向に眼鏡は見つからない。思わず大きくため息をついた。
「なーにしてんの?」
知っている声が前方から聞こえた。長い間会っていなかった人物の声。
「良輝くん?」
驚いた。良輝くんとは、夏休みが始まる前までは、よく話をしていたが、最近は一切会っていない。クラスが違うから、無理もないのかもしれない。
「えーと、眼鏡が見当たらなくて……」
デジャヴュを感じた。以前にも、似たような出来事があったような気がする。
「眼鏡? あぁ、これか」
指先に触れる懐かしい感触。すかさず装着すると、霧が晴れたように視界が戻ってきた。良輝くんの姿が懐かしい。
「あ、ありがとう。本当に、見つからなかったら、どうしようかと――」
安堵で全身の力が抜ける。涙が出そうになったが、なんとか堪えた。
「鼻血、出てるぞ」
良輝くんはポケットからハンカチを取りだし、ぼくに渡す。
「すいません」
水色のそれは、どこにでもある普通のものだ。ごわごわした布地だが、わずかに洗剤の香りが残っている。やっぱりこの状況には覚えがあった。
「あ、いや。気にすんなよ」
良輝くんは、あけすけに笑って見せた。フェンス越しに校庭を眺め、大きく伸びをする。短い髪が風で揺れていた。
「それで? 痴話喧嘩? すっげぇ噂になってたぜ」
明るい抑揚で話す。なんだかこの状況を面白がっている様子だ。
噂、というのはどういうことだろう。そんな短時間で広まるものとは思えないが、でもあれだけ大声で騒げば噂になってもおかしくないのかもしれない。
「帰りとか、また絡まれるかもな。俺、教室行くから待ってろよ」
「いえ、それはいらない」
迷惑をかけるわけにはいかない。いくら良輝くんが喧嘩に強いといっても、あの堂々たる体格である先輩にかてるかは微妙なところだ。
鼻血は止まったようだ。ハンカチはすっかり汚れてしまい、薄い紫色になっていた。
「いいじゃんいいじゃん、積もる話もあるし」
遠くで予鈴が鳴る。ぼくは決まりが悪くて爪を噛んだ。




