1997年 誘蛾灯(2)
転校して三日も過ぎると、新しい学校にもだんだん慣れてくる。隣の席は相変わらず空いていたが、その持ち主についての情報は、断片的ながら知ることができた。
彼は元々は野球部のエースだったが、怪我をして退部を余儀なくされたらしい。そこまでは良いのだが、どうやらそれがきっかけでグレてしまい、あまり学校来ていないようだ。
まぁしかし、そんなことはぼくには全く関係がない。ぼくにとって今一番大事なことは職員室辿り着くことだった。
進路についての話し合いをするのは良いが、さすがに三日間で学校全体の地理を把握するのは、いくら記憶力に自信のあるぼくでも難しい。
一階にあることだけは分かっているのだが、いかんせん広い学校なので、探すには難儀する。
「危ない!」
遠くでそんな声がした。何がどう危ないのか理解できなかったが、直後に訪れた顔面への衝撃で、それがなんの意図で発せられた言葉であったのか、すぐに分かった。
ふらりとよろめいて、咄嗟に目を瞑り、壁に手をついた。だらりと生暖かい液体が鼻先を流れる感覚に身震いする。
「おい、大丈夫か?」
「ええ、なんとか」
近くで聞こえる声に返事をしながら薄目を開く。ぼんやりとした視界の中、遊びで使う大きめのボールの輪郭が見えた。
「雨だからな、たまにいるんだよこういうの」
呑気な口振りでそう言いながら、その人物はぼくのほうを見た。
――とは言っても、ぼやけた視界ではそれもはっきりしない。おそらく、先ほどの激突で、眼鏡が外れてしまったのだろう。
「お前、血出てるぞ。しかも頭から……マジで大丈夫かよ」
親切にもその言葉の主は眼鏡を探しだしてくれたようで、手元には慣れた感触が触れた。
「あ。俺、前田。前田良輝」
「木場透です」
明瞭になった視界で前田くんを見上げる。明るく色を抜いた髪に、いくつものピアス。改造したと思われる制服は、ぼくが着ているものと同じとは思えないほどだった。
いつ殴ってくるか分からない印象の彼だったが、そんな素振りを見せるどころか、反対にハンカチを差し出してきた。
「あんまりボ―ッとすんなよ。だいたいこんなとこになんの用だよ。なんもねェよ、ここ」
「あの、職員室に……」
「反対方向だぞ。なにお前、一年?」
「いえ、三のGです」
どうやら見かけによらず親切な人のようだ。この人なら職員室までの道を教えてくれるかもしれない。
「同じクラスじゃん。誰お前、知らないんだけど」
授業をサボりがちな前田くんも、家庭科や美術、特に体育なんかの授業の出席率は良い。短い金髪を靡かせて走る短距離は、クラスで一位二位を競うほどだった。
「なぁ、下書きしなくていいのか?」
クラスだけでなく美術の机も隣だとうんざりする。版画の下書きは、ぼくにとって無意味な作業なのだけど、それを指摘されるのは嫌だった。いつの日か、からかわれた小学生時代を思い出す。
「関係ないですよね」
強く彫刻刀を握った。馬鹿にされたわけではないのに、なぜか腹がたった。
何かを壊したい衝動に駆られ、恐ろしい想像は悪いほうへ悪いほうへと一人歩きを始める。
大変な疑心暗鬼に陥った。恐怖で背筋が冷え、冬の冷たい風が一段と身に染みる。胃のあたりが急に重くなり、しっかり呼吸を繰り返しているのに息苦しい。目頭が熱くなり、全身に震えが走った。鼻を啜って涙を拭く。眼鏡が引っ掛かって上手くいかず、指先が焦燥で震えた。
昔は、あんなにも外に出たいと思っていたのに、今はなんだかもて余してるような気がする。相変わらず地面に足がついておらず、ぼくは不安定なままだった。
「何も泣くことないだろ、みっともねェなぁ。いいじゃん、凄ェじゃん」
前田くんはぼくの気も知らないであけすけに言う。絵のことで褒められたのは始めてだったので、なんだかくすぐったいような気持ちになった。
「……ハンカチ、返す。あのときは、どうも」
ぼくはポケットから取り出したハンカチを彼に返した。




