単独尾行
火曜日の朝。
目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。まだ薄暗い天井を見上げたまま、しばらく動けなかった。
やるのか、やらないのか。昨日は何もなかった。それは事実だ。なら、もう終わりにすればいい。
考えすぎだった、と笑って。
でも。隣を見る。緋依は静かに眠っている。規則正しい寝息。
少しだけ開いたカーテンの隙間から、朝の光が彼女の頬に落ちている。
穏やかな顔。
本当に、何も隠していない人の顔に見える。
胸の奥が、少し痛む。こんなことを考えている自分の方が、よほど疑わしい。
それでも。昨日の「普通」が、逆に引っかかっている。何もなさすぎた。怪しいことがないことに安心できないなんて、どうかしている。
僕はそっとベッドから起き上がる。
キッチンで水を飲む。冷たい水が喉を通る。自分の顔を洗面所の鏡で見る。目の下に、うっすら影。
「やめろよ」
小さく呟く。誰に言っているのか分からない。
自分か。疑っている自分か。
それとも——
リビングのテーブルに、昨日緋依が買っていた文庫本が置いてある。
しおりが挟まっている。途中まで読んだのだろう。何気ない、普通の生活の跡。僕はその本を手に取る。表紙を眺める。知らない物語。僕の知らない時間。当たり前だ。
恋人でも、全部は知らない。全部知らないのは、普通だ。
じゃあ、何が引っかかっている?会話のずれ?視線の薄さ?
"何かが欠けている感じ"か。
はっきりしない。はっきりしないまま、ここまで来ている。それが一番怖い。
緋依が起きる前に、僕はスマホを開く。
優心からのメッセージ。
『無理すんなよ』
短い一文。僕は返信を打ちかけて、やめた。
無理は、していない。ただ、確かめたいだけだ。確かめないと。このままだと、きっと僕は、緋依を見るたびに探してしまう。
言葉の裏を。視線の揺れを。記憶のズレを。少しの違和感を。それは、きっともっと醜い。
尾行は卑怯かもしれない。でも、疑い続けるよりはましだ。
白か黒か、はっきりさせる。それだけ。
自分に言い聞かせる。背後で、布団の擦れる音がした。
「……拓真?」
振り向く。
眠そうな緋依が、目を細めている。
「早いね、今日」
「うん」
喉が少し乾く。
「ちょっと早く行こうかなって」
「そうなんだ」
彼女は微笑む。その笑顔に、違和感はない。ないはずだ。それでも、僕の中の何かが静かにざわつく。
今日、僕は。彼女の後ろを歩く。彼女に知られない場所から。
本当に知りたいのは、彼女の行動なのか。それとも、僕自身の、疑う心なのか。まだ分からないまま。
僕は静かに、覚悟だけを決めた。
⸻火曜日
今日は、優心無しで尾行することを決めた。決めたのは良かったが、結局、この日も特に変わったことはなかった。
昼休み、彼女は同僚らしき女性と並んで歩いていた。笑いながら、仕事の愚痴を言っているように見える。
笑うとき、少しだけ目尻が下がる。それは、僕といるときと同じだった。
(……やっぱり、考えすぎか)
疑う理由より、疑っている自分の方が、少し嫌になってきた。
こんなことをしているのが、ばれたらどう思うだろう。
たぶん、悲しむ。それでも、やめられなかった。
⸻水曜日
この日は、仕事終わりに寄り道をしていた。
雑貨屋。文房具。アクセサリーショップ。店の前で立ち止まり、中に入っては出て、また次の店を覗く。
ショーケースの前で腕を組み、真剣な顔で悩んでいる。
(……ああ)
すぐに分かった。
(プレゼントか)
自分のためだと思うと、胸の奥が、少しあたたかくなった。
あんなふうに悩んでくれているのを見て、疑っていた自分が、急に情けなくなった。
その横顔を、しばらく見てしまった。もし、今声をかけたら。きっと驚いて、怒って、それでも最後には笑うんだろう。
そう想像できることが、嬉しかった。
⸻木曜日
この日は、いつもより早く帰宅していた。
駅前のスーパーで買い物をして、袋いっぱいの食材を抱えて家に戻る。献立を考えているのか、スマホでレシピを見ながら歩いていた。
途中で立ち止まり、玉ねぎを袋越しに指で押して確かめる。
生活の音がする。
(……完全に、日常だ)
特別なことなんて、何もない。
今まで感じた些細な違和感が、ただの思い込みだった気がしてくる。
(もしかしたら、本当に俺の勘違いだったのかもしれない)
そう思い始めていた。
⸻金曜日
この日は、尾行なんてできなかった。
「水族館、行こう!」
緋依にそう言われて、二人で休日みたいな時間を過ごした。
水槽の前で、同じ魚を見て、同じところで笑う。
光が揺れて、彼女の横顔も揺れる。
「クラゲ、好き?」
「うん。見てると落ち着く」
クラゲは、ただ漂っているだけなのに、なぜか目が離せなかった。
緋依も、同じ顔でそれを見ていた。
──そこから昼ごはんを食べた。
「んー!このオムライス美味しい!やっぱりケチャップは星の模様が一番だよね」
唇にケチャップを付けながら笑う顔が、凄く愛しい。
指で拭おうとして、途中でやめる。
代わりに、紙ナプキンを差し出す。
「緋依は本当にオムライスが好きだよな。今度練習して作ってみようかな」
「え、楽しみ」
その言い方が、未来を当然の様に含んでいた。
楽しかった。本当に。
(俺、何を疑ってたんだろう)
彼女は、ただの恋人だ。
秘密なんてない。そう、思いたかった。
⸻土曜日
問題は、ここからだった。
「明日、仕事なんだ」
前日の夜、緋依はそう言っていた。
そのとき、ほんの一瞬だけ視線が泳いだ気がした。
「珍しいね、土曜なのに」
「うん、ちょっとだけ」
その言葉を、信じていた。
信じたいと思っていた。
けれど、彼女が家を出たあと、念のため、と思って後を追った。
駅のホーム。緋依は、いつもとは反対側のホームに立っていた。
(……あれ?)
乗る電車も、違う。行き先も、見覚えがない。彼女は、迷いなく乗り込んだ。その迷いのなさが、胸を刺した。
(やっぱり……)
頭の中で、また嫌な想像が膨らみ始める。
浮気。隠し事。知らない誰か。
でも、それよりも怖かったのは、知らない緋依がいる、という事実だった。
電車のドアが閉まる。その向こうで、緋依は一度も、振り返らなかった。確信した。
──これは、勘違いじゃない。
彼女は、僕に言えない場所へ行っている。
だからこそ、僕はその電車に、乗った。
彼女の"秘密"を、知るために。




