尾行作戦
月曜日。
朝から妙に落ち着かなかった。
講義は三限だけだったけれど、ノートを取る手が上滑りする。教授の声は耳に入っているのに、意味が残らない。
時計を見る回数がやけに多い。
隣で優心が小さく欠伸をした。
「お前、緊張しすぎやろ」
「してない」
「顔に出とる」
している自覚はあった。
三限が終わると同時に、優心が立ち上がる。
「よし、行くか探偵」
「まだ探偵じゃない」
「いやもう今日だけは探偵やろ」
大学を出て、僕の最寄り駅まで戻る。
緋依は今日は午後から外に出ると言っていた。行き先は「ちょっと買い物」とだけ。
僕たちは駅前のコンビニの陰に立つ。優心がリュックをがさごそと漁った。
「なにしてんの」
「待て待て」
取り出したのは——
黒縁の、やたら大きいメガネ。
「……は?」
「探偵アイテム」
「どこで買った」
「もちろんドンキ」
「ノリノリじゃんか」
優心はそれを自分でかけてみせる。
「どう? それっぽくね?」
「怪しさしかない」
「いやいや、これで変装完璧やろ」
「むしろ目立つ」
優心は笑いながら僕にも差し出す。
「かけてみ?」
「絶対やだ」
「なんだよ〜つまんな」
そんなやり取りをしているうちに、緋依がマンションから出てきた。
白いコート。見慣れたバッグ。胸が少しだけ強く鳴る。
「来た」
「よし、ミッション開始や」
優心が妙に小声になる。
「普通に歩け。自然に」
「わかっとるわ」
僕たちは少し距離を空けて後ろを歩く。緋依は駅へ向かい、そのまま電車に乗った。僕たちも別のドアから乗る。
車内。
優心がさっきのメガネをまたかけている。
「やめろ」
「いや今こそやろ」
「だから目立つって」
緋依は窓の外を見ている。特に誰かと連絡を取る様子もない。途中、学校近くの駅で降りる。
大型ショッピングモールのある駅だ。
「買い物って言っとったしな」
「うん」
モールの中に入る。服屋、本屋、雑貨店。緋依は一人で店を回り、スカーフを手に取り、少し考えて戻す。
特に怪しい様子はない。
「普通やな」
優心が小声で言う。
「うん」
緋依は化粧品売り場で少し長く立ち止まったあと、カフェに入った。
僕たちは外のベンチに座る。少し疲れた。
「腹減った」
優心が言う。
「まだ何もしてないだろ」
「尾行って意外と体力使うんやぞ」
そう言ってまたリュックを漁る。
「なに」
「俺、持ってきとるで」
取り出したのは、小さな紙パックの牛乳と、コンビニのコッペパン。
「……なんで」
「張り込みと言えばこれやろ?」
「探偵気分すぎるだろ」
「最高やな」
優心は牛乳をストローで飲みながら、満足そうに頷く。
「お前、完全にイベント楽しんでるだろ」
「いやいや、真剣やって」
口の端にパンくずをつけながら言うから説得力がない。
思わず少し笑ってしまう。
お陰で、緊張がほんの少しだけほどけた。
カフェから出てきた緋依は、そのまま本屋に寄り、文庫本を一冊買った。
誰とも会わない。電話もしない。夕方前には帰りの電車に乗った。マンションに入っていく背中を、少し離れた場所から見送る。
何も、ない。本当に、何も。優心がメガネを外した。
「……普通やな」
「うん」
「むしろちゃんと買い物しとる真面目彼女やん」
僕は返事ができなかった。
怪しい行動はなかった。
でも。
それでも、胸の奥の違和感は消えていない。
「どうするん?明日」
優心が聞く。
「え?」
「俺、明日から用事あるんよ。バイト増やされてさ。留年回避資金稼がなあかん」
「そうなのか」
「だから尾行するなら一人でしてな」
軽く言う。
「今日で十分じゃないか?」
「まあな。でもお前、納得しとらん顔しとる」
図星だった。
「……」
「無理すんなよ。考えすぎなこともあるし」
優心はそう言って、肩を軽く叩いた。
「とりあえず今日は解散。探偵業務終了」
笑って手を振る。一人になる。夕暮れが少しだけ赤い。今日、何もなかった。
それなのに。なぜだろう。
安心より先に、空白みたいな感覚が残る。
本当に見たいものを、僕はまだ見ていない気がした。




