昼ごはん
「昼メシ行くぞ」
優心が肩を叩く。
「ああ」
僕は頷いた。まだ、この違和感に名前をつけるつもりはなかった。
教室を出た瞬間、どっと人の波が廊下に溢れた。
「腹減ったー」
優心が大げさに伸びをする。
「さっきまで死にそうって言ってなかった?」
「あれは単位の話な。腹は別腹」
僕には、全く意味が分からない。
エレベーター前は混んでいたので、階段で一階まで降りる。補講とはいえ二限終わり。ちょうど昼休みに差しかかる時間だ。
「とりあえず学食行こうぜ」
「ああ」
外に出ると、昼前の陽射しが思ったより強い。朝より少しだけ気温が上がっていて、コートを着てきたことを少し後悔する。
学食の建物が見えてきたところで、
「あ、ちょ、トイレ」
優心が急に方向を変えた。
「は?」
「無理無理無理、さっきコーヒー飲んだの忘れとった」
「今?」
「今。マジで今」
そう言って走っていく。
僕は仕方なく入り口の横で待つことにした。
学生がどんどん中に吸い込まれていく。嫌な予感しかしない。
数分後、すっきりした顔の優心が戻ってきた。
「生き返った」
「終わった。お前が遅いせいで、食堂絶対混んでる」
「いやいや、まだいけるって」
中に入った瞬間、僕はため息をついた。
予想した通り、長蛇の列。
券売機の前からトレーを持つカウンターまで、蛇みたいに折れ曲がっている。
「ほら言っただろ」
「うわぁ……やらかしたわ」
優心が頭をかく。仕方なく最後尾に並ぶ。
前の学生のリュックが何度も腕に当たる。揚げ物の匂いが漂ってきて、余計に腹が減る。
「何食う?」
「うーん、日替わりかな」
「今日唐揚げらしいで」
「まじ?」
「さっき掲示板に書いとった」
どうでもいい会話をする。前の人が少し進む。
「てかさ」
優心が急に声を落とす。
「今日の教授の話、分かった?」
「なんとなく」
「なんか難しくね?存在してるだけで価値ある、とかさ。俺、単位落としたら存在価値ゼロやんって思ったわ」
「極端すぎるだろ」
「いやでも割とマジやで?親からしたら単位=価値みたいなとこあるし」
笑っているけど、少し本気が混ざっている。
「まあ、落とすなよ」
「落としたら笑えんけどな」
列はなかなか進まない。優心が腕時計を見る。
「これ、三十分コースじゃね?」
「だな」
その時、優心が何か思い出したように顔を上げた。
「あー、そういや」
「なに」
「秘密の昼飯スポットあるわ」
「え、まじ?」
「この時間でもほぼ並ばんとこ」
「そんなとこあったっけ」
「あるある。みんな知らんだけ」
列から抜ける。後ろの学生に軽く睨まれたけど、もうどうでもいい。
優心に連れられて学食棟の裏側に回る。自販機が並んでいる通路の奥、さらに奥。半地下みたいなスペースに、小さな売店があった。
「ここ、穴場。三年でも知らんやつ多い」
本当に人が少ない。メニューも簡素で、カレーと丼もの数種類だけ。
「こんなとこあったんだ。てか、なんで知ってんの」
「一年のとき、授業サボって探索しとった」
「その努力を出席に使えよ」
「うるせ」
結局、僕はカレー、優心は豚丼を頼んだ。
簡素なプラスチックのトレーを持って、窓際の小さなテーブルに座る。外の木が揺れているのが見える。
「ここ、落ち着くやろ?」
「まあ、静かだな」
人のざわめきが遠い。
昼の光が斜めに差し込んで、テーブルの上に四角い影を作っている。
スプーンを持ちながら、僕は少し迷った。
今なら、話せるかもしれない。
優心は豚丼に七味をかけながら、こっちを見た。
「で?」
「なにが」
「さっきからなんか言いたそうやん」
やっぱり気づくか。
僕は小さく息を吐いた。
「……ちょっと、相談いい?」
優心が箸を止める。
「お、珍し。なに、金ないとか?」
「違う」
少し笑ってから、真顔に戻る。
「最近さ。緋依が、ちょっと変なんだ」
言葉にした瞬間、胸の奥の棘が、少しだけはっきりした。
優心は眉を上げる。
「変って?」
僕はカレーを一口食べてから、続けた。
「なんか……噛み合わないんだよ。会話が」
「噛み合わないって?」
優心は豚丼をかき込みながら聞く。
「なんていうか……言ったこと覚えてなかったり」
「どのレベル?」
「昨日、今日二限あるって送ったんだよ。既読もついてた。でも朝、"今日はもう出るの?"って」
「ふーん」
優心は特に驚いた様子もない。
「それくらいなら普通じゃね?」
「……そうか?」
「俺なんて昨日の夕飯思い出せんし」
「それはお前の問題だろ」
優心が笑う。
でも僕は笑えなかった。
「最近、増えた気がするんだよ。そういうの」
「他には?」
「約束の時間、間違えたり。前に話したこと、初めて聞くみたいな顔したり。逆に、"言ってもないこと知ってたり"」
「それ、ケンカにならんの?」
「ならない。俺も強く言わないし、向こうも、"あーごめん"って」
ごめん、も最近少し軽い。いや、考えすぎか。
優心は少し黙って、僕を見た。
「拓真さ」
「なに」
「それ、不安になっとるだけじゃね?」
「……」
「なんかあった?」
カレーの湯気が上がる。僕は視線を落とした。
「別に、大したことはない」
でも。
「なんか、距離がさ」
「距離?」
「物理的じゃなくて。目、合わないときがあるんだよ。合っても、なんか……薄い」
自分で言っていて、抽象的すぎると思う。
優心は箸を止めたまま、少し考える顔をした。
「それってさ」
「うん」
「浮気とかじゃね?」
あまりにも軽いトーンで言う。
「は?」
「いやいや、冗談半分な?でも可能性としてはあるやろ」
「ない」
即答だった。優心が少し目を細める。
「即答できるんや」
「できる」
たぶん。優心は肩をすくめる。
「まあでもさ、怪しいなら確認すればよくね?」
「確認って?」
「聞くか、見るか」
「見る?」
「尾行とか」
冗談っぽく言う。でも僕は笑えなかった。
「……尾行」
「いや本気にすんなよ。ドラマかって」
でも、頭のどこかで、その言葉が引っかかった。見る。事実を。
「でもさ」
優心が続ける。
「モヤモヤしたままの方がしんどくね?浮気なら浮気で分かるし、違うなら安心やろ」
「……」
「今のままやと、ずっと疑っとる状態やん」
図星だった。
疑っているわけじゃない。でも、引っかかっている。その引っかかりを、僕は無視しきれない。
「別に浮気じゃなくても」
僕は小さく言う。
「何か理由があるかもしれない」
「病気とか?」
「いや、そこまでじゃなくて」
言いながら、自分で線を引く。そこまでは、考えない。
優心は豚丼を食べ終えて、箸を置いた。
「じゃあさ、来週どっかで試してみれば?」
「試すって」
「例えば月曜。講義ない時間に、あえて何も言わんで様子見るとか」
月曜。緋依は、確か午後から出かけるって言っていた。
「……月曜」
「どうせ俺、その日三限までで授業終わりやし。終わったら付き合ってやろか?」
「え?」
「一人で尾行とか怪しすぎやろ」
優心がにやっと笑う。
「まあ冗談半分やけどな。でもさ、白黒つけたいなら動くしかなくね?」
白黒。そんな大げさな話じゃない。でも。
僕はスプーンを握り直す。
「……月曜、やってみる」
自分の声が、少し低かった。優心が目を丸くする。
「お、マジで?」
「確認するだけだよ」
「まあな。何もなければ笑い話やし」
そうだ。笑い話になるはずだ。考えすぎだった、って。
僕は残りのカレーを口に運ぶ。
味が、少し分からなかった。
窓の外で、風に揺れた木の影が、テーブルの上で揺れている。
たぶん、何も起きない。でももし。もし、何かあったら。そのとき、僕はどうするんだろう。




