補講
駅までは徒歩十分。いつもより少しだけ空気が冷たい。
早起きなんて久しぶりで、頭がまだ完全に起ききっていない。身体の芯がぼんやり重い。いつもは三限からだから、こんな時間の街を見ることもあまりない。
通勤ラッシュの波に混ざる。
改札を抜けて、ホームへ上がると、ちょうど電車が滑り込んできた。金属音と風が一気に押し寄せる。
ドアが開く。
人の流れに押されるように乗り込んで、吊り革を掴む。座席は当然空いていない。
ああ、眠い。
目を閉じたらそのまま立ったまま寝そうだ。
電車が動き出す。ガタン、と小さな衝撃。
窓の外、朝日がビルの隙間から差し込んでくる。斜めの光が車内に流れ込んで、目に刺さる。
思わず目を細める。窓に映る自分の顔が、少し疲れて見えた。
こんなに朝弱かったっけ。
揺れに身を任せながら、ぼんやり今日の朝を思い出す。
"昨日言わなかったっけ?"
あの一瞬、緋依が止まった顔。あー、なんか言ってたかも。
既読はついてた。忘れることくらいある。俺だってある。そう思うのに、胸の奥に小さな棘みたいなものが残る。最近、こういうのが少し増えた気がする。
言った言わない。聞いた聞いてない。噛み合わない会話。でも別に、喧嘩になるほどでもない。だから、たぶん大したことじゃない。
電車が減速する。
アナウンスが流れる。大学の最寄り駅の名前が呼ばれる。
もう着いたのか。思ったより早い。
人の流れに押されてホームに降りる。朝の空気はまだ澄んでいて、少しだけ冷たい。
階段を上がり、改札を抜けたところで、
「あれ、拓真?」
聞き慣れた声。振り向くと、友達の優心が立っていた。
リュックを片方の肩に引っかけて、寝癖をそのままにしている。
「お、おはよう」
「おはよ。久しぶりじゃね? こんな時間に会うの」
確かに。
いつもは俺が三限から、優心はそもそも授業に来ないことが多い。
「今日、二限に補講入ったんだよ」
「まじ!環境倫理学特攻やろ?俺も一緒の授業や」
優心が笑う。
「あれ、優心ってこの授業取ってたっけ?あんま見たことない気がするけど」
そう言うと、優心はわざとらしく目を見開いた。
「取っとるよ! ちゃんと取っとるって!」
「いや、見たことないけど」
「行ってなさすぎて落としそうやけどな、マジで」
けらけら笑う。
でもその笑いは少しだけ引きつっている。
「この授業落としたら留年確定するけ、絶対取らなやばいわ。今日の補講マジ命綱」
「それ笑い事じゃなくない?」
「いやほんま笑えん。親に殺される」
そう言いながらも、どこか呑気な顔をしている。
適当そうに見えて、単位の計算はちゃんとしているあたり、優心らしい。
「まあ、お前は余裕やろ?」
「いや、別に。普通」
「普通って言うやつが一番安全圏なんよ」
駅前の横断歩道を渡る。
朝の学生の群れに混ざって、二人で歩く。大学の門が見えてくる。いつも通りの景色。いつも通りの朝。なのに、なぜか少しだけ落ち着かない。
優心が隣であくびをする。
「はぁ……補講とかだるすぎ。終わったら昼メシ行こうぜ」
「ああ、いいよ」
自然に返事をする。
この後、あんな話をすることになるなんて、この時はまだ、思ってもいなかった。




