変わらない朝
目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光で、だいたい七時前だと分かる。隣を見ると、緋依はまだ寝ていた。毛布を顎まで引き上げて、静かな寝息を立てている。
起こさないように、そっとベッドを抜ける。
顔を洗って、キッチンに立つ。パンを二人分取り出して、トースターに入れる。冷蔵庫からレタスとハム、チーズ。卵はどうしようかと少し迷って、結局スクランブルにすることにした。
フライパンの上にバターを落とした途端、部屋を包むような甘い匂いが広がる。
シンクの中には、昨夜のグラスが一つだけ残っている。水滴が乾ききらず、底に丸く跡を作っていた。蛇口をひねると、少しだけ水が跳ねる。
こういう時間は嫌いじゃない。
朝の光が、テーブルの端までゆっくり伸びてくる。部屋はどこか静かすぎる気もする。静かなことに慣れたのは、いつからだっただろう。
前は、緋依の方が早起きだった。眠そうな顔で「コーヒー飲む?」って聞いてきて、俺が「まだ無理」って言って笑われる、みたいな。
いつから逆になったんだっけ。
パンが跳ねる音がして、思考が切れる。
サンドイッチを二つ皿に並べる。今日は少し厚めになったかもしれない。ラップで半分に切って、マグカップを二つ並べる。
そのタイミングで、寝室のドアが開いた。
「……あれ」
寝癖のまま、緋依が立っている。
「今日はもう家出るの?」
少し不思議そうな声だった。
僕は一瞬、時計を見る。
「いや、まだだけど。昨日言わなかったっけ?今日、二限に補講入ったんだよね」
そう言いながら、コーヒーを注ぐ。
緋依は目を瞬かせてから、ああ、と曖昧に笑った。
「あー……なんか言ってたかも」
"かも"。
前も、こんな言い方してた気がする。
「わー! 美味しそうなサンドイッチ!」
急に明るい声を出して、テーブルに近づく。
皿を覗き込んで、本当に嬉しそうに笑う。
その笑顔は、見慣れているはずなのに、どこか薄い膜越しみたいに感じた。
「今日は卵入れた」
「え、ほんと? やった」
椅子に座って、すぐにかぶりつく。
美味しい、と言って親指を立てる。
その動作も、いつも通りだ。いつも通り、のはずなのに。
昨日、二限の話をしたとき、どんな反応だったっけ。思い出そうとして、やめた。
別に大したことじゃない。言ったかもしれないし、言ってないかもしれない。僕だって忘れることはある。
ただ最近、"言ったはず"が少し増えただけだ。
コーヒーを一口飲む。少し苦い。
「何時に出るの?」
緋依が聞く。
「八時半くらい」
「そっか。今日帰り遅い?」
「いや、補講だけだから、むしろ早いかも」
「へえ」
そこで会話が切れる。
前は、ここからどうでもいい話が続いていた気がする。教授の愚痴とか、コンビニの新商品とか。
今日は、静かだった。
緋依はサンドイッチを食べるのに夢中で、僕はコーヒーを飲んでいる。
テレビはついていない。換気扇の音だけがしている。
別に、嫌な空気じゃない。でも、少しだけ、噛み合っていない歯車みたいな感じがする。
時計が八時二十五分を指す。
「そろそろ行くわ」
立ち上がる。
「うん。いってらっしゃい」
いつも通りの声。
靴を履きながら、ふと振り返る。緋依はもうスマホを見ていた。僕がドアを開ける音に、顔を上げない。
「……行ってきます」
小さく言って、外に出る。
ドアが閉まる直前、緋依の声がした。
「いってらっしゃい」
ほんの少し、間があった気がした。気のせいかもしれない。
マンションの階段を降りながら、ポケットのスマホを取り出す。
昨日のトーク履歴を開く。
"明日、二限補講入ったから早い"
ちゃんと送っている。既読もついている。
……まあ、忘れることくらいあるか。スマホを閉じて、駅へ向かう。
朝の空気は冷たくて、少しだけ深呼吸したくなる。家の中より、外のほうが音が多い。そのことに、ほっとしている自分がいる。
空はよく晴れていた。何も、変わらない朝だった。
たぶん。




