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君はまだ、本当の自分を知らない  作者: 曖昧


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決断

 アトリエの窓から、夕暮れの光が斜めに差し込む。


 木の床、裁断台の上に散らばる生地。ミシンの低い振動音だけが、静かに響く。


「緋依さん、今日のサンプルは……」


 先輩デザイナーの声を聞きながら、緋依は手元の布に目を落とす。でも、縫う手が自然と止まった。


 小さく息をついて、口を開く。


「……あの、少し相談したいことがあるんです」


 先輩は眉を上げ、椅子を引く。


「どうしたの?」


 緋依は机に手をつき、言葉を選ぶ。


「実は……この仕事はすごく好きです。デザインも、ものづくりも」


 声は震えていなかった。けれど、瞳の奥は少し揺れている。


「でも、最近、他にやりたいことができてしまって……」


 先輩は黙って緋依の顔を見る。言葉が続かない。緋依は少し視線を落とす。


「まだ、はっきりとは言えません。ただ……挑戦したいことがあって」


 深い沈黙。ミシンの音だけが部屋に残る。


「……そうか。緋依さんがそう思うなら、応援するよ」


 先輩はゆっくりと微笑んだ。その笑顔に、緋依は胸の奥で何かが温かくなるのを感じる。


「ありがとうございます……必ず、五年間、ここで学んだことを無駄にしません」


 緋依は立ち上がり、机の端に置かれた布をそっと撫でる。

 未来の道はまだ見えない。けれど、次に踏み出す一歩は、確かに決まっていた。


 帰り道、街灯に照らされた道を歩きながら、緋依は自分の心のざわめきを感じていた。


 靴底がアスファルトを擦る音だけが、冷たい夜の静寂に響く。


 家に着くと、郵便受けの中の書類や手紙をまとめながら、緋依はふと笑みを浮かべた。


 この小さな日常も愛おしいけれど、心の奥底にある、あの「戻したい」という想いが、静かに芽吹いていた。


──翌日。


 緋依は自分のアトリエで最後の作業をしていた。布を折りたたみ、ミシンを片付け、パターンのファイルを整理する。


 何度も振り返る。見慣れた机、棚、そして窓の外の光景。


(ここを離れるんだ。前に進むんだ)


 机の上に残った針や布の端を手で払う。掌に残る感触が、心の中の決意をさらに固める。


 そのとき、先輩が軽く声をかけた。


「最後の一日だね」


「はい……ありがとうございました」


 緋依の声は静かだが、どこか凛としていた。


「新しい挑戦か……応援してるよ」


 緋依は深く一礼する。


 背筋に力を入れ、窓の外を見た。赤く染まる空の向こうに、まだ見ぬ景色が広がっている気がした。


 その日の夜、荷物をまとめながら緋依は、改めて自分に言い聞かせる。


(私は、後悔しない道を選びたい。本当は怖い。でも、行かなきゃ)


 段ボールに服や小物を詰め込み、封をする。カレンダーの上に、小さく「新しい始まり」と書き込む。


 最後に机に座り、静かに目を閉じた。


(この手で、あの人を……)


 その想いだけが、確かに胸にあった。


 緋依は荷物を抱え、ドアを閉める。静かに、でも確かに、新しい一歩を踏み出した瞬間だった。


 そして数日後。


「行ってくるね。多分、長い間家を空けることになるから、一旦お別れだね」

 

 緊張で手が少し震える。でも、胸の奥には、もう迷いはなかった。


「はい…分かりました」


 拓真の淡々とした視線を受けながらも、緋依はゆっくりと口を開く。


「絶対、拓真を元通りに戻してみせる」


 未来を見据えたその瞳に、迷いはない。


 アトリエで過ごした日々、先輩の笑顔、そして心の奥の想いが、彼女をここまで導いていた。


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