挑戦
相変わらず、研究所の廊下は、音がなかった。白い壁に、白い床。空調の低い唸りだけが、遠くで鳴っている。
受付の女性が顔を上げた。
「ご用件を」
「……研究責任者の方に」
「アポイントはございますか」
「ありません」
淡々とした視線。
「関係者以外の立ち入りはご遠慮いただいております」
「関係者になります」
受付の手が止まる。
「どういう意味でしょう?」
「ここで、働かせてください」
数分後。通された会議室は、冷えていた。
向かいに座る男性は、白衣を着ていない。ただのスーツ姿。それなのに、空気が違う。
「理由を」
前置きはなかった。
「……拓真を、戻したいんです」
「対象は停止しています」
「知っています」
「再生成は理論上可能ですが、保証はありません」
「それでも」
言葉は震えなかった。
「専門知識は?」
「ありません」
「研究経験は?」
「ありません」
「では、なぜ。ここに来ても、あなたが出来ることはありません」
「覚えます」
間髪入れずに言う。男性の目が、わずかに細まる。
「軽い覚悟では務まりません」
「軽い気持ちで来ていません」
沈黙が落ちる。彼は机の上で指を組み、しばらくこちらを見ていた。
「あなたは当事者です」
「はい」
「研究対象に私情を持ち込むことは、危険です」
「持ち込みます。でも、壊しません」
キッパリと行った。
「……保証は?」
「責任は、私が取ります」
男性は長く息を吐いた。
「三か月」
「……え?」
「基礎研修。雑務、記録整理、データ補助」
「それでいいです」
「適性がなければ切ります」
「はい」
「感情で判断したと感じた瞬間も、外します」
「わかっています」
即答。それを見て、彼は椅子にもたれた。
「明日から来てください。服はこちらで準備しておきます」
「分かりました」
「それと、この施設の向かいにある建物が寮になってます。そこに泊まるようにしてください。これも、秘密厳守の観点から必要なことなので」
──翌日。
白衣を渡されたとき、ようやく現実味が湧いた。袖は少し長い。
「サイズは後で調整します」
昨日の男性が書類を差し出す。
「署名を」
ペンを握る手が、ほんの少し震える。
名前を書いた瞬間、もう戻れないと知る。書類を受け取りながら、彼は初めて名乗った。
「木村です」
一拍。
「これからよろしくお願いします」
淡々と、けれど確かな声。
緋依は、深く頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
顔を上げる。ガラスの向こうに、白い光が揺れている。
あの場所まで、必ず行く。ここからだ。
そうして、緋依は研究所の一員になった。




