お別れの時
別室に行くと、拓真は横たわっていた。その表情から、既に意識が薄いことが分かる。
ガラス越しに見える、その巨大な装置は、まるで棺みたいだった。白いフレームに、絡みつくケーブル。
それは、病院で見た生命維持装置よりも無機質だった。
拓真の体が、ゆっくりと中へ運ばれていくのを眺めながら、私は、ガラスの前に立った。
(ごめんね)
声には出せなかった。
(こんな形でしか、そばにいられなくて)
拓真の顔は、穏やかだった。まるで、眠っているみたいに。
それが、余計に残酷に感じられた。
装置の扉が、閉まる。低い音がして、完全に密閉された。その瞬間、胸の奥が、引き裂かれた気がした。
(……お別れだね)
誰にも聞こえない声で、心の中だけで言った。
(ありがとう。大好きだった。ちゃんと、私の心の中で生き続けるよ)
私は、ガラスに手を当てた。
冷たかった。向こう側には、もう触れられない。
(また、会おう)
それが、願いなのか、呪いなのか、分からなかった。
機械のランプが、一斉に灯る。
視界が明るくなると同時に、低い振動が床を通って、私の身体を揺らした。
その光の中で、私の知っている拓真は、確かに終わった。
そして同時に、私の「順調だった恋愛」も、そこで終わった。
装置の明かりが、ゆっくりと一つ、また一つと消えていく。
白い光に満ちていた部屋が、次第に薄暗くなり、機械の低い駆動音だけが名残のように残る。
やがてそれも止まり、完全な静寂が訪れた。
さっきまで、そこには確かに「生」と「終わり」があったのに、今は何もなかったかのように静まり返っている。
私は、しばらくその場から動けなかった。
ガラスに触れていた手は、もう冷え切っている。
それでも、離せなかった。
数秒なのか、数分なのか分からない時間が過ぎたあと、背後から足音が近づいた。
「こちらへ」
さっきの男だった。
振り向いた瞬間、自分の視界が少し歪んでいることに気づく。泣いてはいない。泣いてはいないけれど、世界の輪郭がどこか曖昧だった。
私は、何も言わず、男の後を歩いた。
廊下は相変わらず静かだった。
床は無機質な灰色。窓はない。時間の感覚を奪うために作られたみたいな空間。
この建物の中では、「朝」も「夜」も意味を持たない。
同じ机。同じ椅子。さっきまでと何も変わらないのが少し残酷に感じた。
私は椅子に腰を下ろした。
男は、手元の端末を閉じ、書類を一枚、静かに私の前に滑らせた。
「最後に確認です」
その声は、相変わらず温度がなかった。
私は、黙って顔を上げた。
その男の瞳には、同情も、慰めも、微塵の躊躇もない。
「万が一、事故の記憶が残っていれば、致命的な不具合につながります」
ペン先が、ある項目を正確に指す。
細かい文字の羅列。
"事故情報完全削除"
"関連記憶再構築"
"人格整合性再調整"
言葉だけ見れば、ただ、少しだけ難しい専門的な項目が並んでいるにすぎない。でも、その項目の一つ一つが、彼の人生を削っている。
「そのため、彼の記憶は、あなたと『出会う前』までに設定します」
喉が、きゅっと締まった。
空気が薄くなる。
「……それって」
自分の声が、少し掠れている。
「あなたのことも、最初は知りません」
男は、事務的に続けた。
「あなたという存在は、彼の中から一度完全に削除されます」
削除。
たった二文字で、私たちの一年が消える。
「もう一度、"初めまして"から始めてください」
胸が、痛んだ。思い出が、波のように押し寄せる。
はじめて並んだ電車。
はじめて交わした、ぎこちない会話。
水族館で見た、揺れるクラゲ。
笑った顔。怒った顔。眠そうな顔。
全部、無かったことになる。
男は、さらに言葉を重ねた。
「世間的には、彼は奇跡的に回復したことになっています。事故の影響で、一時的な記憶障害があった。そういう扱いです。当然、大学も以前と同じ所へ戻ります」
私は、唇を噛んだ。
血の味が、僅かに広がる。
「……じゃあ、彼が死んだことは」
その言葉を口にした瞬間、空気が変わった。
男の視線が、鋭くなる。
「言ってはいけません」
その短く、強い言葉は間違いなく、命令だ。
「それは、最大のタブーです。このプロジェクトは国のお偉い方々の出資によって成り立っています。それをお忘れないように」
机を、指で軽く叩く。
「"死んだ"という事実は、彼自身にとっても、研究にとっても、致命的です。ですから、冗談でも、比喩でも、許されません」
私は、小さく頷いた。
理解はしている。でも、納得はできない。
だって、私は見た。あの瞬間を。止まった心電図を。冷たくなっていく体を。それを、なかったことにするなんて。
「……分かりました」
喉の奥が、焼けるように痛い。男は、少しだけ表情を緩めた。
「あなたは、再び彼と出会います。偶然のように。そして、何も知らない彼に、微笑みかける。それが、彼を生かす唯一の方法です」
唯一。他に選択肢はない。
私は、机の下で、拳を握りしめた。爪が、掌に食い込む。
(初めまして、か)
それは、あまりにも残酷な言葉だった。
初めて会ったあの日の私は、未来を知らなかった。
でも今の私は、すべてを知っている。この先、また彼が私を好きになる保証なんてない。
むしろ、嫌われるかもしれない。他の誰かを選ぶかもしれない。それでも。
私は、深く息を吸った。
「……約束します」
声は、思ったよりも落ち着いていた。でも、胸の奥では、何かが静かに死んでいた。
恋人としての私。隣にいることが当たり前だった私。彼に「好き」と言われる資格を持っていた私。
全部、一度ここで終わる。
書類に、名前を書く。ペン先が震え、インクがわずかに滲んだ。それが、私の覚悟だった。
別室へ戻ると、装置の内部は静まり返っていた。透明なカバー越しに、彼が横たわっているのが見える。
まだ眠っている。どうやら呼吸は安定しているらしい。数値を示すモニターが、規則正しく光っている。
私は、ゆっくりとガラスに近づいた。
もう、私を知らない人。私との一年を持たない人。
それでも、顔は同じだ。睫毛の長さも、眉の形も、少しだけ上がった口角も。全部、拓真だ。
でも、私だけが他人になる。
(初めまして、拓真)
心の中で、そう言った。声に出せば、崩れてしまいそうだったから。
(また、恋をしよう)
ゼロから。何も知らないふりをして。偶然を装って。同じ電車に乗って。隣に立って。
もう一度、好きになってもらう。それが、私の罰であり、役目だ。
私は、ガラスに額を寄せた。その冷たさが、残酷な現実を表していた。
(今度は、絶対に守る)
事故も。記憶も。真実も。全部、私が抱える。たとえ、全部嘘でも。それが、彼を生かす条件なら、それでもいい。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
次に目を開けたとき、私はもう「恋人」ではない。ただの、他人だ。それでも私は、彼の隣に立つ。
何度でも。
何度だって。




