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君はまだ、本当の自分を知らない  作者: 曖昧


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15/29

注意事項

 研究所へ向かうその日、私は一人だった。


 医師から渡された紙には、駅名と、簡単な地図だけが書かれていた。


 見慣れない駅名だった。


 電車の路線図を何度も確認して、それでも本当に合っているのか不安で、三回は乗り換え案内を見直した。


 車内の窓に映る自分の顔は、やけに青白く見えた。


(まだ、間に合う)


 何度も思った。


 今なら引き返せる。「やっぱりやめます」と言えばいい。


 でも、そのたびに、病室の白い天井が浮かんだ。拓真の、穏やかな目。


──俺を、置いて行かないでくれ。


 その声が、頭から離れない。


 電車は、ゆっくりと速度を落とした。聞き慣れない駅名が、無機質なアナウンスで流れる。扉が開いた瞬間、空気が変わった。


 普段降りている駅に比べて、かなり人が少ない。昼間なのに、妙に静かだった。


 降りたのは、私を含めて三人だけ。


 改札は、無人に近かった。駅員はいるのかいないのか分からない、小さな窓口だけ。


 外へ出る。静かすぎる。コンビニも、カフェもない。住宅街でもない。オフィス街というほどの賑わいもない。


 ただ、広い道路と、似たような色の建物が、等間隔に並んでいる。


 音がない。風の音だけが、耳に触れる。


(……本当に、ここ?)


 地図を見直す。


 矢印の先にあるのは、低くて横に長い、窓の少ない建物。


 看板らしいものはない。ただ、入り口の横に、小さなプレートがあるだけ。


 病院とは、まったく違う。人を救う場所には、見えなかった。


 足が、止まる。もし今、この建物に入れば。


 私は、「彼の今」を終わらせる人間になる。


 それでも。覚悟を決めて、歩いた。


 扉の前に立つと、ロックが解除される音がした。


 中へ入る。白い。壁も、床も、天井も。音を吸い取るような静けさ。


 受付らしきカウンターの奥から、無言で女性が現れた。


「緋依様ですね」


 名前を呼ばれる。それだけで、逃げ場がなくなる。案内される廊下は、どこまでも白かった。


 窓がない。時間の感覚が、消える。


 連れて行かれた部屋の奥は、病院よりも静かだった。音がないのに、圧迫感だけがある。


 案内された部屋には、一人の男が座っていた。白衣ではない。年齢の分からない、感情の読めない顔。


 目だけが、冷静だった。


「緋依さんですね」


 淡々とした声だった。


「クローン生成は、こちらの条件をすべて受け入れていただくことで可能になります」


 私は、黙って(うなず)いた。


 もう、引き返せない。


「第一に」


 男は、机の上の資料を指で叩いた。


「生成後、あなたには定期的にこの研究所へ来ていただきます。クローンである彼の精神状態、生活の様子、感情の変化について、詳細に報告してもらいます」


 私は、口を開いた。


「……それは、一生ですか」


「彼が稼働している限りは」


 "稼働"。


 その言葉に、胸がざらついた。


 人間じゃない。装置の一部みたいな言い方。


 心臓が、ひとつ沈んだ。


「第二に」


 男は、少しだけ声を低くした。


「クローン本人に、自分がクローンであると"絶対"に気付かせてはいけません」


 私は、強く唇を噛んだ。


「認識した瞬間から、脳が記憶の波に襲われ、記憶の欠損が始まります。最終的には、完全停止です」


 完全停止。それはつまり、二度目の死。


「あなたが彼に真実を告げることは、彼を"殺す"行為と同義です」


 私は、まっすぐに男を見た。


「……守ります」


 声が震えていた。


「絶対に、守ります」


 男は、何も言わなかった。ただ、小さく頷いただけだった。


 契約書に、サインをする。ペンを持つ手が、震えていた。


 その一筆で、私は、嘘を抱えて生きる未来を選んだ。


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