彼女の秘密
家に帰り着くまで、ほとんど記憶がない。気付いたら、玄関の前だった。
鍵を閉め、カーテンを引く。テレビもつけずに、ようやく床に座り込む。
呼吸が荒い。震える手で、慎重に鞄からファイルを取り出す。
『T-03』
その文字を見るだけで、胸の奥が軋む。
(……見るべきじゃない)
本能が、警告する。
でも、指は勝手に動き、ページを捲る。紙が擦れる音が、やけに大きく感じた。
ここから先は、もう元には戻れない。
そんな予感だけが、はっきりとしていた。
家に戻ってから、どれくらい時間が経ったのか、わからない。時計は見ていたはずなのに、数字が頭に入ってこなかった。
確かに秒針は動いていた。動いていたのに、時間だけが、僕の周囲を素通りしていくみたいだった。
テーブルの上に置いたファイル。
『T-03』
それは、いずれ起爆する爆弾のように静かだった。触れなければ、ただの紙の束。けれど、開けば、何かが壊れる。
覚悟を決めて、さっき研究所で見た続きを読む。
被験体:T-03
事故発生日時:〇年〇月〇日
状態:死亡確認
──は?
思わず、声が出た。
喉の奥が、乾いた音を立てる。視界が、一瞬だけ遠くなる。
そのまま、ゆっくりとページをめくる。
交通事故。
脳組織の広範囲損傷。
淡々と、感情の一切ない文章で、「僕の死」が書かれていた。
「……なに、これ」
笑いそうになった。いや、実際、口角は上がっていたと思う。
現実感がなさすぎて、可笑しかった。
「冗談にしては、悪質すぎるだろ」
誰に言うでもなく、呟く。声が、妙に軽い。
事故?死亡?馬鹿馬鹿しい。
だって、僕は今、ここにいる。心臓も動いてる。息もしてる。こうして、ページをめくっている。床の感触も、指先の紙のざらつきも、全部、確かだ。
「適当なことが、書いてあるだけだ」
そう結論付けた。
研究所。ファイル。番号。全部、誰かの悪趣味な研究か、もしくは占い師が書いた予言書。
そう考えれば、説明はつく。つく、はずだった。
次のページ。
オリジナル被験体の記憶保持率:90%
クローン個体への移植完了
適合率:安定
指が止まった。
「……クローン?」
声に出した瞬間、現実感が、一気に薄れる。
SFだ。映画だ。小説の設定だ。現実じゃない。現実であるはずがない。
頭のどこかが、必死に拒否している。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
もし本当にクローンなら?僕は、僕じゃない?
鏡に映る自分の顔を思い出す。毎朝見ていた顔。髭を剃るとき、寝癖を直すとき、緋依と並んで歯を磨くとき。
あれは、本物じゃない?
そのとき、玄関の鍵が回る。
──ガチャ。
心臓が、跳ねた。
反射的にファイルを閉じる。でも、隠す、という選択肢は浮かばなかった。隠したところで、何も変わらない気がした。
扉が開く。
「ただいま」
いつもの声。いつもの、緋依。
その何気ない一言が、やけに遠く感じた。
「……おかえり」
僕の声が少しだけ掠れていた。
彼女は靴を脱ぎ、リビングに入ってくる。そして、テーブルの上のファイルを見た瞬間、彼女は完全に、動きを止めた。
一秒。
二秒。
三秒。
空気が、ぴん、と張り詰める。冷蔵庫の微かな駆動音だけが、やけに大きい。
「……それ」
声が低かった。僕はファイルを指で叩いた。わざと軽く。
「これ、冗談だよね」
自分でも、驚くくらい軽い口調だった。
「事故で死んだとか、クローンとか、適当なことばっかり書いてあるけど。これって、なに?」
緋依は、僕の顔を見てから、ファイルに視線を落とした。
ほんの一瞬、瞳が揺れる。それだけで、答えは出ているも同然だった。
「……どこで、それ手に入れたの?」
責める声じゃなかった。怒ってもいなかった。
ただ、回収しなければならないものを見つけた人の声だった。
「調べてた」
そう言うと、彼女の肩が、わずかに揺れた。
「……後、付けてたの?」
「ごめん」
本当に、そう思った。
信じきれなかったこと。疑ったこと。尾行したこと。全部。
「でも、違和感があって」
兄の話。
母の命日。
偏頭痛のこと。
知らないはずの好み。
今まで感じてきた些細な違和感が、波のように押し寄せてくる。
彼女が一瞬だけ言葉を濁した日。
僕が「覚えてない」と言ったとき、少しだけ悲しそうに笑った夜。
「全部、偶然だと思おうとした。でも無理だった」
緋依は、目を伏せた。
その睫毛が、震えている。
「それ……見ちゃ、いけなかった」
それは、叱る言葉じゃなかった。懇願だった。
「これ、なんなの?」
ファイルを持ち上げる。重さが、変に現実みたいで、嫌だった。
「僕、事故で死んだって書いてある。だけど、ここにいる。意味がわからない」
声が、少しずつ荒くなる。
「なあ、緋依。僕は、生きてるよな?」
その問いに、彼女はすぐには答えなかった。
数秒の沈黙。それは、逃げる時間じゃない。考える時間だった。
やがて、静かに、息を吸う。
「……拓真」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が、嫌な音を立てた。
その呼び方が、いつもより、少しだけ丁寧だった。
「全部、話すね」
それは、覚悟を決めた人の声だった。
「でも、その前に……」
一歩、近づいてくる。距離が、縮まる。
彼女の目が、真っ直ぐこちらを見ていた。その奥にあるのは、罪悪感でも、恐怖でもなく──
失うことへの、覚悟。
「お願い。途中で、信じられなくなってもいい。否定してもいい。それでも、最後まで聞いて」
声が、わずかに震えている。
僕は、何も言えなかった。ただ、頷いた。
その瞬間、彼女の瞳が、ほんの少しだけ潤む。
「あなたは、一度、事故で亡くなってるの」
その一言で、世界が、音を立てて崩れ始めた。崩れているのに、奇妙なほど、静かだった。
まるで、ずっと前からヒビが入っていたガラスが、ようやく割れただけみたいに。




