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君はまだ、本当の自分を知らない  作者: 曖昧


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13/29

失った日

 私と拓真にとって、その日はただのデートだった。


 特別な記念日でもなく、予定をぎっしりと詰めたわけでもない。


 拓真と二人で、少し遠くの街まで出かけて、他愛もない話をして、夕方には帰るつもりだった。


 朝の電車で、彼は私の肩にもたれながらうとうとしていた。


「……昨日、夜更かししただろ」


「してない。動画見てただけ」


「それを夜更かしって言うの」


 そんなやり取りを、何度も繰り返した。


 水族館では、彼の方がはしゃいでいた。


 巨大水槽の前で、子どもみたいに目を輝かせて、「見ろよ、あのエイ、飛んでるみたいだぞ」と私の腕を引いた。


 クラゲのコーナーでは、暗い青い光の中で、彼の横顔がやけに綺麗に見えた。


「めっちゃ楽しかったな。クラゲが可愛かった」


 出口で、そう言って笑った。


 その笑顔は、いつもと何も変わらなかった。だから私は、何も疑わなかった。


(この時間が、ずっと続けばいいのに)


──それが、最後の願いだった。


 それは、横断歩道を渡っていた時だった。信号は青。車も、ちゃんと止まっていた。そのはずだった。


 彼は、さっき買ったパンフレットを眺めながら歩いていた。


「次はさ、動物園もいいよな」


「また生き物?」


「だって可愛いじゃん」


 笑いながら、ほんの少しだけ、私より前に出た。


 その瞬間。


 視界の端で、異様な速さの影が跳ねた。ブレーキ音はなかった。


「拓真――!」


 叫ぶより早く、衝撃音が街に響いた。


 鈍く、重い音。彼の体が、私の手を離れて、宙に浮いた。


 本当に、スローモーションみたいだった。彼の指先が、私に届きそうで、届かない。


 次の瞬間、地面に叩きつけられる音を、私は、はっきりと聞いてしまった。


 頭の中で、何かが割れた。拓真は、道路の上に倒れていた。


 ピクリとも動かない。拓真の体から赤いものが、アスファルトに広がっていく。


「……嫌だっ!」


 声が、震えるどころか、音にならない。足が、動かなかった。近づきたいのに、近づけない。


 視界が(にじ)んで、拓真の顔が、うまく見えない。


 それでも、さっきまで笑っていた顔だということだけは、分かった。


 救急車のサイレンが、遠くから近づいてくる。誰かが叫んでいる。誰かが警察を呼んでいる。


 でも、全部が遠く聞こえる。私は、その場に立ち尽くしたまま、ただ名前を呼び続けていた。


 何度も、何度も。


───病室の匂いは、現実を嫌というほど突きつけてくる。


 消毒液の匂い。

 機械の電子音。

 白い壁。


 拓真は、まだ生きていた。


 意識は、辛うじてある。


 でも、それが"いつまでか"は、誰の目にも明らかだった。


 呼吸器が規則正しく動いている。


 それは「彼が生きている証」なのか、「彼を繋ぎ止めている機械」なのか、分からなかった。


 医師は、静かな声で言った。


「正直にお話しします。脳への損傷が大きく、これ以上の回復は、見込めません」


 言葉はとても丁寧(ていねい)。でも、内容は、残酷だった。頭が真っ白になった私は、ただ、頷いた。


「少し、一人にして貰ってもいいですか」


 絞り出した声でそう言った。


「はい。では、失礼いたします」


 扉が閉まる。その音が、やけに大きく聞こえた。


───病室は、夜になると音が消える。


 機械の規則正しい電子音だけが、拓真がまだ"ここにいる"ことを教えてくれていた。


 私は、ベッドの横に座って、ただ彼の手を握っていた。


 まだ、冷たくはない。


 でも、力はほとんど返ってこない。指先が、わずかに震えるだけ。それでも、私はそれを「生きてる」と信じた。


 ノックの音がして、医師が一人、入ってきた。


「……少し、よろしいですか」


 その声は、昼間よりも低く、そして慎重だった。


 医師はカーテンを閉め、誰もいないことを確認してから、小さく息を吐いた。


「公式には、これ以上の回復は見込めません」


 それは、もう何度も聞いた言葉だった。


 でも、次の一言が、私の世界を完全に変えた。


「……ただ、非公式の話があります」


 私は、顔を上げた。


「私の知人に、『クローン人間』の研究組織を、秘密裏に運営している人がいます。厳密には"レプリカント"という物ですが」


 一瞬、意味が分からなかった。理解を、脳が拒否した。


「亡くなる直前の脳情報を記録し、新しい肉体に再構築する。そういう研究です」


 心臓が、強く打った。それは、希望に似ていた。でも、どこか、底が抜けていた。


「そ、それって……」


「"彼を生かす"という意味ではありません」


 医師は、はっきり言った。


「彼の意識が保たれている今、記憶の情報を取得する必要があります」


 その言葉の意味が、遅れて理解された。


 今。つまり、彼がまだ、"彼"であるうちに。


「それってつまり……」


「回復の可能性を、完全に捨てるということです」


 希望は、希望ではなかった。それは、選択だった。今の彼を、終わらせる選択。


 私の頭の中で、何かが崩れた。


「そんなの……」


 声が、震えた。


「そんなの、選べないじゃないですか……」


 医師は、何も言わなかった。ただ、少しだけ目を伏せてから、こう言った。


「……彼と、話し合ってください」

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