失った日
私と拓真にとって、その日はただのデートだった。
特別な記念日でもなく、予定をぎっしりと詰めたわけでもない。
拓真と二人で、少し遠くの街まで出かけて、他愛もない話をして、夕方には帰るつもりだった。
朝の電車で、彼は私の肩にもたれながらうとうとしていた。
「……昨日、夜更かししただろ」
「してない。動画見てただけ」
「それを夜更かしって言うの」
そんなやり取りを、何度も繰り返した。
水族館では、彼の方がはしゃいでいた。
巨大水槽の前で、子どもみたいに目を輝かせて、「見ろよ、あのエイ、飛んでるみたいだぞ」と私の腕を引いた。
クラゲのコーナーでは、暗い青い光の中で、彼の横顔がやけに綺麗に見えた。
「めっちゃ楽しかったな。クラゲが可愛かった」
出口で、そう言って笑った。
その笑顔は、いつもと何も変わらなかった。だから私は、何も疑わなかった。
(この時間が、ずっと続けばいいのに)
──それが、最後の願いだった。
それは、横断歩道を渡っていた時だった。信号は青。車も、ちゃんと止まっていた。そのはずだった。
彼は、さっき買ったパンフレットを眺めながら歩いていた。
「次はさ、動物園もいいよな」
「また生き物?」
「だって可愛いじゃん」
笑いながら、ほんの少しだけ、私より前に出た。
その瞬間。
視界の端で、異様な速さの影が跳ねた。ブレーキ音はなかった。
「拓真――!」
叫ぶより早く、衝撃音が街に響いた。
鈍く、重い音。彼の体が、私の手を離れて、宙に浮いた。
本当に、スローモーションみたいだった。彼の指先が、私に届きそうで、届かない。
次の瞬間、地面に叩きつけられる音を、私は、はっきりと聞いてしまった。
頭の中で、何かが割れた。拓真は、道路の上に倒れていた。
ピクリとも動かない。拓真の体から赤いものが、アスファルトに広がっていく。
「……嫌だっ!」
声が、震えるどころか、音にならない。足が、動かなかった。近づきたいのに、近づけない。
視界が滲んで、拓真の顔が、うまく見えない。
それでも、さっきまで笑っていた顔だということだけは、分かった。
救急車のサイレンが、遠くから近づいてくる。誰かが叫んでいる。誰かが警察を呼んでいる。
でも、全部が遠く聞こえる。私は、その場に立ち尽くしたまま、ただ名前を呼び続けていた。
何度も、何度も。
───病室の匂いは、現実を嫌というほど突きつけてくる。
消毒液の匂い。
機械の電子音。
白い壁。
拓真は、まだ生きていた。
意識は、辛うじてある。
でも、それが"いつまでか"は、誰の目にも明らかだった。
呼吸器が規則正しく動いている。
それは「彼が生きている証」なのか、「彼を繋ぎ止めている機械」なのか、分からなかった。
医師は、静かな声で言った。
「正直にお話しします。脳への損傷が大きく、これ以上の回復は、見込めません」
言葉はとても丁寧。でも、内容は、残酷だった。頭が真っ白になった私は、ただ、頷いた。
「少し、一人にして貰ってもいいですか」
絞り出した声でそう言った。
「はい。では、失礼いたします」
扉が閉まる。その音が、やけに大きく聞こえた。
───病室は、夜になると音が消える。
機械の規則正しい電子音だけが、拓真がまだ"ここにいる"ことを教えてくれていた。
私は、ベッドの横に座って、ただ彼の手を握っていた。
まだ、冷たくはない。
でも、力はほとんど返ってこない。指先が、わずかに震えるだけ。それでも、私はそれを「生きてる」と信じた。
ノックの音がして、医師が一人、入ってきた。
「……少し、よろしいですか」
その声は、昼間よりも低く、そして慎重だった。
医師はカーテンを閉め、誰もいないことを確認してから、小さく息を吐いた。
「公式には、これ以上の回復は見込めません」
それは、もう何度も聞いた言葉だった。
でも、次の一言が、私の世界を完全に変えた。
「……ただ、非公式の話があります」
私は、顔を上げた。
「私の知人に、『クローン人間』の研究組織を、秘密裏に運営している人がいます。厳密には"レプリカント"という物ですが」
一瞬、意味が分からなかった。理解を、脳が拒否した。
「亡くなる直前の脳情報を記録し、新しい肉体に再構築する。そういう研究です」
心臓が、強く打った。それは、希望に似ていた。でも、どこか、底が抜けていた。
「そ、それって……」
「"彼を生かす"という意味ではありません」
医師は、はっきり言った。
「彼の意識が保たれている今、記憶の情報を取得する必要があります」
その言葉の意味が、遅れて理解された。
今。つまり、彼がまだ、"彼"であるうちに。
「それってつまり……」
「回復の可能性を、完全に捨てるということです」
希望は、希望ではなかった。それは、選択だった。今の彼を、終わらせる選択。
私の頭の中で、何かが崩れた。
「そんなの……」
声が、震えた。
「そんなの、選べないじゃないですか……」
医師は、何も言わなかった。ただ、少しだけ目を伏せてから、こう言った。
「……彼と、話し合ってください」




