第三十九話 夜:黒い祈りと、王子の影を抱いて
王都の夜は静かで、どこか空虚だった。貴族たちは戦地の緊張など知らぬ顔で舞踏会に興じ、市場は明日の納品に備えて眠りにつき、神殿の白壁だけが月光を映していた。
その地下、誰も立ち入らぬ礼拝堂の奥深くに、私は一人、黒い装束をまとって跪いていた。
「……闇よ。我に許しと代償を」
この呪文を唱えるとき、胸の奥が冷える。祈りと呼ぶにはあまりに冷たく、どこか異質な響きを持っている。
昼の聖女ユリシアとは真逆──夜の“私”、リシェルだけが扱える闇の魔法。
私の指先には、淡く黒い魔法陣が浮かび、王国から戦地に至る地図を描き出していた。そこに、密かに王子の衣服から抜き取った糸片を結びつける。彼を追跡する呪符。それは、私にしかできない遠隔干渉。
「どうか……無事でいて」
口にしたその願いは、祈りではなかった。
執念。あるいは執着。
私は彼の姿を、ただ見たかっただけかもしれない。
魔法陣が脈動し、空間が黒く揺れる。鏡のように滲んだ闇の中に、騎馬に乗った王子の姿が映った。夜営の野営地。焚き火を囲み、兜を外して静かに書類に目を通す彼。
(……また、無理をしている顔)
その眉間の皺、その指の節の動き。そのすべてが、私には痛いほど分かる。
「どうして、あなたは……そんなに馬鹿なの」
唇を噛む。胸が軋む。
私は、もっと冷酷になれる。誰かを犠牲にしてでも守るべきものを守る覚悟がある。
だけど、あなたは違う。人の痛みを知って、だからこそ、人を傷つけることに躊躇する。
(なら、私が……)
私は、あなたの手が汚れないように、その代わりになる。
「これ以上、あなたに……穢れてほしくない」
そう呟いた瞬間、魔法陣が激しく脈動し、私の髪が風もない礼拝堂でふわりと舞う。心臓が熱くなり、内なる“闇の核”が疼く。
長く封じていた力が、今、目覚めようとしていた。
「王子ユリウス・セレスタ……私は、あなたの影になる」
その言葉に迷いはなかった。
──それが、愛という名で呼べるものなのか、私にはまだ分からない。
ただ、胸にあるこの痛みを、私は信じたかった。
「……たとえ、戻れなくなっても」
そのとき、魔法陣の一角が赤く染まる。
敵軍の魔術部隊が集束し、王子の部隊に照準を定めている証。
「やっぱり……狙われてる」
私は立ち上がった。
魔法陣を一度、掌で壊し、新たな式を描く。
撹乱、幻影、防壁。
──私の王子を、誰にも触れさせない。
術式を展開するたびに、指先がひりつき、皮膚が焼けるような痛みを感じる。
呼吸が浅くなり、視界がちらつく。これは、闇魔法の代償──寿命を削る代価だ。
私は知っている。
このまま術を重ね続ければ、十年、いや五年すら残らないかもしれない。
「それでも、いい」
呟いた声が震えていた。
「……あの人が、傷つかずに戻るなら……私の魂も、この命も、どうでもいい」
言葉が礼拝堂の石壁に吸い込まれ、黒く輝く魔法陣が静かに夜を包み込む。
地上の人々が平和な眠りにつくその裏で──
私は、誰にも知られぬまま、王子を守る“影”になろうとしていた。
けれど──
(……どうして、こんな風にまでしなくてはいけないの?)
胸の奥で、昼の私、ユリシアの声が響いた。
(これは“聖女”のすべきことじゃない。リシェル、これは間違ってる……!)
その声はたしかに私の中にあって、なおさら苦しかった。
(……だったら、あなたは、見捨てられる? あの人を)
私は心の内で問い返す。
ユリシアの声が、沈黙した。
(私は……彼の笑顔が、もう一度見たいだけなの)
その言葉が、私の中で静かに涙となって、胸を満たしていった。




