第三十八話 昼:ただいま、そして「好きです」って言ってません!
朝靄の中を、馬車がゆっくりと進んでいく。濡れた道に蹄の音がやわらかく響き、木々の間から洩れる光が、ようやく見慣れた王国側の街並みを照らし始めていた。
「……帰ってきたんですね」
私はぽつりと呟き、となりで馬車の揺れにあわせて足を組んでいるエルグランドを横目で見る。
「なーんか久々すぎて、地面が懐かしい気がするな」
いつも通り、軽口を叩く彼。でも、その声にはどこか安堵が滲んでいた。
私たちは、国境近くの王国の救援部隊に合流し、ようやく正式な保護を受けて帰還の途についたのだ。
脱出後、森を抜けるまでの数時間、ほとんど休まずに歩き続けた。道中は雨も降り、ぬかるみに足を取られる場面も多く、エルグランドの傷も浅くはなかった。足を軽く捻っていたため、私は何度も彼の腕を借りる羽目になった。
村に辿り着いた夜、彼の疲労は極限に達していた。私は聖女としての魔法を使い、癒やしの祈りで彼を深い眠りに導いた。
「いいから、少し眠ってください」
「え、でも君の方が……」
「いいから!」
私は強めに言って、彼の額に手を当てた。淡く輝く光が彼を包み、まぶたがすうっと閉じていく。
彼の寝息を聞きながら、私はそっと彼の髪を撫でた。
「少しくらい、甘えてくれてもいいのに」
──そして、その直後だった。
(ふうん、やっと寝かせたの? まったく、甘いのね)
私の中で、夜の“私”──リシェルが囁いた。
「黙っててください……」
(あら、照れてるの? せっかく二人きりの夜だったのに、何も進展なし?)
「ちが……う、わけじゃ……」
頭を押さえ、深く息をついた。リシェルの声は、私が強く意識しない限り、表には出てこないはず。だが、この夜は例外だった。彼女は何かを感じ取っていたのかもしれない。
夜明け前、私はユリシアの自我を保とうと強く念じながら、リシェルの意識を押し戻した。
(もう……眠ってください)
(ふふ、残念。せっかくロマンチックな夜だったのに)
私がようやく心の静寂を取り戻した頃、村のはずれで偶然、王国の偵察部隊と遭遇した。私たちの身なりや負傷した様子から事情を察した兵士が、本部に報告を入れてくれた。
神殿と王宮の連携により、私たち専用の馬車が極秘に手配された。敵国の目を逃れるために、村から離れた林道で合流する段取りが取られ、私はエルグランドの腕を支えながら、再び歩き始めた。
合流地点では、白い装束をまとった王国兵士たちが無言で敬礼して迎えてくれた。その静かな敬意が、なによりの安堵だった。
「無事でよかったです……ほんとに……」
「俺もな。まぁ、君のおかげだな」
「え?」
「だって、助けに来てくれたの、君だったじゃん」
その一言に、胸の奥がずくんと痛くなる。あの牢で、血まみれの彼を見たときの気持ちが、今も胸に残っている。
「わたし、別に……ただ、ああいうの、嫌いなんです。理不尽に誰かが苦しむの」
「……ほんと、聖女様は優しいな」
「そういうこと言わないでください……」
「なんで?」
「照れるからです!」
彼の笑い声が、馬車の木の壁に心地よく響いた。
やがて、街の門が近づいてきた。兵士たちがこちらに敬礼しながら門を開ける。
馬車が止まり、扉が開けられると、差し込んだ陽の光に思わず目を細めた。
「さて、ここからは神殿の人たちが迎えに来るんだよな?」
「はい。すぐそこに控えの馬車が……」
ふと、彼が降りようとしたとき、私の手を取った。
「ユリシア」
名前を呼ばれるだけで、背筋がぴんと伸びる。
「……俺、あの時、牢の中で言ったこと、覚えてるから」
「……え?」
「“好き”って言ったこと。続きがあるって、あの時言えなかったから……」
「ま、待ってくださいっ、それは……っ、わたし、聞いてません! 言ってません! 聞かなかったことにしてくださいっ!」
慌てて馬車から飛び降り、私は神殿の使者に向かってぺこりと頭を下げる。
その背後から聞こえてくる彼の笑い声に、私は顔を真っ赤に染めながら叫んだ。
「いまの、全部なかったことにしてくださいっ!!」
それでも、胸の奥がふわりと温かい。
なにこの気持ち、ほんとに──




