第十四話 夜:聖職者の裏の顔──枢機卿に仕掛けた美しき地雷
神殿の高官、枢機卿ダレオン・ラミレスは、表向きは清廉な信徒の鑑だった。
しかし、その実態は腐敗の塊。
名家の子女を秘密裏に売買し、献金を名目に私財を蓄え、裏で手を回しては気に入らぬ神官を左遷してきた。
──そして、次の標的が私だった。
すべては、ある夜の呼び出しから始まった。
「リシェル殿。昼間はお忙しいでしょうから……今夜、静かな時間にお話でもと思ってね。執務室まで来てもらえるかね?」
その声は、猫なで声というには不自然に甘かった。
神殿での表の仕事を見聞きしたこともないこの男が、唐突に私へ興味を持ったふりをする──それだけで十分、裏があると察するには十分だった。
だが、彼が私の“夜の顔”について何かを掴んでいるらしい気配は、感じていた。
「夜ごと忙しい任務をお持ちのようだね。神殿のために尽くすその姿勢、実に感心だ」
笑いの裏に潜むものを、私は見逃さなかった。
彼はおそらく、私の裏稼業の存在を“噂”程度には知っている。だが確証がないからこそ、こうして餌を投げて様子を見ているのだ。
他の神官たちが帰った後の夜の神殿。静まり返った回廊を進む私の足音だけが、石床に反響する。
扉の向こう、蝋燭の灯る執務室には、やけに甘い香が漂っていた。窓は固く閉ざされ、外との空気の流れも断たれている。密室だった。
「リシェル殿。君のような美しい娘は、もう少し柔らかく扱われるべきだ。神殿よりも、もっと華やかな場所が似合う」
私の傍に立つと、枢機卿は机を回り込むふりをして私の肩へと手を伸ばした。
「……特別な待遇というものを、受けてみたくはないかね?」
私は内心の冷笑を隠しながら、手をすっと躱した。
「それはつまり……私を“特別扱い”してくださるという意味で?」
笑顔を崩さず、意味深に返す。
彼の指は空を掴み、わずかに眉を寄せた。
この男のやり方は見え透いている。
“特別”と称して、意のままになる女を囲い込もうとする。
だが私は、そんな薄っぺらい欲望に付き合うほど、素直じゃない。
「……まあ。光栄ですわ」
“餌に食いついた”と思ったようだ。
だがそれは、私が用意した毒針のついた餌だった。
この男が、ある国境貴族に私を差し出そうとしていることは、すでに掴んでいた。
だから私は逆に、自ら“差し出される”側を演じた。
彼の執務室に入り浸り、従順な仮面を被って情報を引き出した。
ある夜、彼が机の下から隠し金庫を取り出すのを見た私は、わざと無邪気な声で尋ねた。
「それは……とても大事なもの、なのですか?」
ダレオンはにやつきながら封筒を一通見せびらかした。「ちょっとした契約書だよ。君の名前も、もしかしたら載るかもしれない」
その一言で、私は“仕上げ”に入る決意をした。
──そして、その翌夜。
礼拝堂に集められた神官たちの前で、その情報が一斉に暴かれた。
「この送金記録、どう説明されますか?」「この手紙……この封蝋は、貴方のものでしょう」
次々と晒される証拠。
枢機卿の顔が、見る間に青ざめてゆく。
「こ、これは……で、でたらめだ! でっち上げだっ!」
神官たちの視線が冷たくなる。
私は、祭壇の奥の影からゆっくりと姿を現す。
「──罪を悔いるのは、地獄でどうぞ?」
その瞬間、私はわずかに指を動かし、足元にわずかな魔術の印を刻んだ。
空気がきゅっと絞られるように重くなる。周囲には見えない──けれど確かに、異質な力が満ちた。
枢機卿の額に、玉の汗が浮かんだ。
「き、貴様……まさか……!」
私は微笑んだまま、囁くように告げた。
「ええ。夜の任務では……もう少し、強いものを相手にしておりますので」
「ま、待て、これは誤解だ……! 私は何も──っ」
その瞬間、私はわざと周囲の空気をさらに圧し、宙に浮かぶような闇の羽根を一枚、彼の目の前に舞わせた。
魔力の象徴。それは人の心の奥底を揺さぶる象徴でもある。
「言い逃れを重ねるほど、罪は重くなりますわよ。──枢機卿」
ダレオンの喉が、ごくりと鳴った。彼の顔色は土気色に変わり、膝をついて震え始める。
「ひ、引き下がろう……私はもう、何も言わぬ……っ」
礼拝堂の石の床に、崩れ落ちる男。
静寂の中、誰も手を差し伸べる者はいなかった。
私は軽く裾を翻し、背を向ける。
この夜の礼拝は、きっと神さまも笑って見ていたに違いない。