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僕の脳裏に浮かぶのは、鉱山の粗末な小屋にいる——孤独ながらも知性を漂わせる老人の姿だ。
死の直前にも、僕の幸せを願ってくれた。
公爵の父の、失態の尻拭いをしてやったとか言っていた。王国崩壊後にアッヘンバッハ公爵領に流れてきていたのだ。
(でも——そうなると、ヒンガ老人の最期の言葉って……?)
あのとき僕は【森羅万象】をつけていたのではっきりとその言葉を覚えている。
——この身は、罰を受けるためにあり。死ぬことでは償えぬ罪を犯したゆえ。されど、今際にて日の光を浴びるほどの僥倖に浴した。天地を統べる万能の神よ、願わくばこの忌み子に祝福を授けよ……。
ヒンガ老人はなにか「罪」を犯した? それは天賦珠玉に関するなにか? あるいはフォルシャ王国壊滅につながること?
たぶん……「忌み子」というのは黒髪黒目のことだろうけど。
そんなことを考え込んでいると、エルさんは続けて言った。
「え、わたくしめは聖王に無理を言って、調査団を派遣してもらい、ヒンガ博士の著作を集めました。ほとんど残っておりませんでしたが、それらを写し、残りは血縁の方にお渡ししました。え、ヒンガ博士の論文はこれまでの常識を覆すものが多く、興味を持っていただけたのならうれしいですな」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
今、聞き捨てならないことをエルさんが言った。
「ヒンガ老人の血縁の方って!?」
「老人、ではなく、博士、ですぞ。え、まあ、レイジさんから見れば老人かもしれませんが」
「す、すみません、言葉を間違えました。ヒンガ博士に血縁の方が?」
「さようです。レフ魔導帝国という変わった国がありまして。え、そちらに娘さんが嫁がれていましてな」
ヒンガ老人の娘さんは、フォルシャ王国の壊滅時には海外にいたのだ。だから、難を逃れた。
「今もその娘さんはレフ魔導帝国に?」
「さあ、そこまでは……なにせ10年、いや、15年も前のことですからな。もし著作が見たいのでしたらここ聖王宮にも写しがございますが」
「……いえ、本物のほうを見てみたいです。その娘さんの連絡先を教えてくれませんか!?」
「構いませんよ。え、その方はエマとおっしゃいまして、旦那様がレフ魔導帝国の上級官吏でしたな。確か娘さんがひとりいらっしゃったはずです」
ルルシャさんだ。
ピンと来たけれど、僕はそれ以上言うのは不審がられるだろうから——もう十分怪しかったかもしれないけれど——黙っていた。
思わぬ収穫を得た僕は、ひとり、お屋敷へと帰った。
* 特級祭司エル *
座ったままじっと動かない大きなウサギの背後にふらりと現れたのは、6大公爵家のひとりであるエベーニュ家当主、その人だった。
「……エル様、レイジ殿は帰られましたか?」
「え、お帰りです」
「なにをお考えでしたか?『災厄の子』についてですか?」
当主がするりと横に座ると、そちらに視線も向けずにエルは言った。
「……さようです。レイジさんが『災厄の子』であることはほぼ間違いないと思うのですが……この目で見ても、確信が持てません。彼からは、え、邪気が感じられません」
「文献にある内容が事実であれば、『災厄の子』は黒髪黒目であり、強大な力を持つと。一国すら滅ぼすこともあるということでしたが……レイジ殿は青い髪ですな」
「髪の色は変えられます。え、染髪剤を使っているでしょう——少なくとも黒髪黒目であることで、不利益を被ることがあると知っているということです」
「ただのファッションかもしれません」
「これは! エベーニュ家当主ともあろう方が、え、そのような意味のない仮定をなさる」
「可能性はすべてつぶしておかねば気が済まないのですよ。ではエル様はあの少年が『災厄の子』であると?」
「……え、そうとは言い切れません」
「なぜ?」
「…………」
「確証が持てたら、この場にてけりをつけるよう聖王はおっしゃっていたのに……つまり見逃しましたね?」
スッ、と当主が手を挙げると、庭に潜んでいた二桁の黒装束が立ち上がり、音もなく消えていった。当主の護衛ではなく、聖王宮の衛兵でももちろんない、暗殺に特化した者たちだ。
「え、確証はありませんでした」
「…………」
口元はうっすらと笑っているのに、このハーフリングの瞳は恐ろしいほどに冷たかった。
エルはエルで、レイジが元は黒髪だったのだろうと思っている。調停者もまた「災厄の子」について口走っていた。「災厄の子」は殺すべし。それは国の上層部では当然の常識だった。
だけれど、エルは、そうはしなかった。
久しぶりにヒンガ博士の話ができて楽しかった? エベーニュ家当主に言ったとおり、邪気を感じなかった?
(……いえ、我らを救うのに命を懸けた少年を、どうして傷つけられましょうや)
エルはそう考えている。だけれどそれは口にしない。貴族家の当主にそんな話をしたら鼻で笑われ、「ならばこちらで始末をしておきます」と言われるだけだろうから。
いや——そんな「きれい事」だけではない。
(調停者と戦ったあの力は、「理」の「外」にあるもの。あの力が聖王国に向いたとしたら……)
かつての文献には「災厄の子」がやがて本物の「災厄」となって多くの人々を殺したという歴史的事実が数多く記されている。その脅威は、「盟約」によってそれなりにコントロールされている「裏の世界」と比べ、はるかに恐ろしいものだ。
でも、それでも——とエルは思う。
(子どものうちに殺された「災厄の子」はほんとうに「災厄」だったのでしょうか? え、大切に育てれば、この世界に貢献できたのでは?)
その仮定は、もちろん「意味のない仮定」だ。口に出せばエルの首が危うくなるような危険思想でもある。
つまるところ、ヒンガ博士の論文がその発想に近い。過去に起きた悲惨な事実があったとしても、人の可能性を見誤ってはならないと——子どものうちに殺してしまえば「災厄」にならないのなら、さっさと殺すに限る、と考える貴族とは真逆のそれだった。
「え、かの少年は、問題ありません」
「……まあ、そのように聖王陛下にはお伝えしましょう」
ぱち、ぱち、と目を瞬かせるウサギに、動揺は見られない。
「それよりも当主。リビエレ家の問題はよろしいのですか?」
「問題ないでしょう。すでに物証があがっており、聖王陛下もすでに動いておられる。なにより『冷血卿』がついている。よかったですね、エル様。あなたが大事に大事にしている『一天祭壇』を穢した大罪人がついに裁かれますよ」
「……え、そのようですね」
エルが返事をすると、エベーニュ家当主は立ち上がった。彼が部屋を出て行くと、急に圧力から解放されたような気がしてエルは小さく息を吐いた。




