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伯爵が目覚めたというので、遅めの朝食を取っているところへ僕は出向いた。お嬢様はまだ眠っているので僕は自由時間みたいなところがある。
今朝焼いたばかりのパンはバターの香りが立っていて美味しそうだ。伯爵はコケモモのジャムを塗って食べている。頭を使う人は糖分を欲するのだろうか、伯爵は朝のお茶にも多めのハチミツを入れて飲む。
結構糖分を摂取しているはずなのに、伯爵はまったく太る気配がない。
「——レイジさん、いたのですか」
食堂に入ってきた僕に、伯爵は驚いたようだった。
「いますよ。正午に、聖王宮に行くのでしょう?」
僕が答えると、伯爵は目を見開き、それから横にいる執事長に目配せした。執事長もある程度事情を知っているってことかな。
「伯爵こそ、体調はいかがですか」
「万全からはほど遠いですが、今、ベッドで眠っていられるほどの状況ではありませんので」
伯爵は食事をさっさと終わらせると身だしなみを整えた。正午まであと1時間という時間になって出発の準備が整う。
「レイジ!」
僕と伯爵がお屋敷の玄関で合流すると、吹き抜けの2階廊下からお嬢様が現れた。お嬢様も寝起きのようだけれど、服は着替えて髪は簡単に櫛を通している。パジャマで出てくるわけにはいかないのが貴族なんだよね。
「お嬢様、お目覚めでしたか」
「レイジ、どこに行くの?」
階段から降りてきたお嬢様の瞳が不安そうに揺れる。
「伯爵とともに聖王宮に向かいます。昨日の始末に関する報告を行います」
「あ……」
「僕は、あのあと巨大蛇とも戦いましたから、その話をしなければいけません」
お嬢様の「鼓舞の魔瞳」とルイ少年のことではない、という意味を込めて先んじてすべて話してしまうと、お嬢様は小さくうなずいた。
「そう、ね……それはとても重要なことなのだわ」
「はい。ですのでお嬢様、本日はお屋敷にいらしてください」
「ええ……」
「エヴァ。君が心配することはなにもないよ。私は貴族としての務めを、レイジさんは護衛としての務めを果たすだけだから」
「……はい、わかりましたわ」
「いい子だ」
伯爵はお嬢様の頭を軽くなでると、
「行きましょう」
「はい」
僕とともに屋敷を出た。
ちらりと振り返ると、玄関でお嬢様がいつまでもこちらを見送っていた。
「……娘に好かれたものですね、レイジさん」
馬車に乗り込むとそんなことを言われた。横に執事長がいるので話しにくい話題は止めてください、伯爵。
僕らを乗せた馬車が第1聖区に入ると、急に雰囲気が物々しくなった。
「スィリーズ閣下、どちらまで?」
入ってすぐのところで聖王騎士団に止められた。馬車が通れないよう、柵によるバリケードまで組まれている。
スィリーズ伯爵ならばほとんど顔パスで通れるはずなのに——毎日登庁して仕事をしているのだから当然だけれど——今日はこうして行き先をたずねられるのだ。
「聖王宮まで。陛下に呼ばれています」
「……少々お待ちを」
聖王騎士団がなにか確認を始めている。
開かれた馬車の窓から外を見ると、あちこちに騎士団がおり、ふだんならば仕事のためにやってきているはずの官吏の姿は見えなかった。
「確認が取れました。聖王宮での御用事が済みましたら再度こちらにお越しください」
許可が出て、馬車は進んでいく。
「……伯爵。これってリビエレ公爵家のことが影響しているんですか?」
「はい。リビエレ家当主を始め、全員が第2聖区にあるお屋敷での待機を命じられていますが、リビエレ家と縁のある家々が手勢を集めているようです。表向きは『自衛のため』と言っていますがね」
「そんなこと、自ら怪しいと言っているようなものじゃないですか。というか、兵力を集めることが許されているんですか?」
「『自衛』と言われてしまえば仕方ないですね。さらにリビエレ家は公爵家ですから……幸いなことにリビエレ家の領地は聖王都からかなり遠いので、ここにはほとんど兵力がないということでしょう。つながりのある貴族たちも多くが捕縛されましたし」
「え?」
「——ああ、レイジさんには言っていませんでしたか。リビエレ家の派閥が、『一天祭壇』の天賦珠玉横流しに関わっていたんですよ」
それはスィリーズ伯爵が「冷血卿」だなんて呼ばれることにもなったきっかけだ。伯爵は「一天祭壇」から出現する天賦珠玉が、貴族によって秘密裏に抜き取られ、横流しされているのではないか……と疑い、調査し、多くの貴族を処刑台に送り込んだ。
(リビエレ家の派閥がそれに関わっていた……? さらに、リビエレ家はクルヴシュラト様の暗殺を計画した……?)
僕はなんだか、もやもやするのを感じた。なんだろう。僕はなにかを見落としているような……。
「聖王宮に入りますよ」
伯爵の言葉にハッとする。
第1聖区での取り調べを思えばあっけないほど簡単に聖王宮へと入る。こちらは、そもそも訪ねてくる人が少ないので伯爵、というか僕の来訪はみんな知っていたんだろう。
馬車から降りると、僕と伯爵の2人だけが解放感のある入口から宮殿内部へと入る。
石造りの宮殿は、ところどころに水路があって静かな水音が常に聞こえている。日本の古い建築のように襖のような木戸が各部屋への入口になっていて、その木戸は淡い水色——聖水色に塗られていた。
殺風景ともいえるほどのがらんとした部屋の中央に、大きなテーブルとイスが置かれてあった。
「質素な部屋でしょう」
「そ、そうですね」
「聖王家は古い生活様式をそのまま引き継いでいるんです」
「なるほど……不便そうですね」
「不便極まりないでしょうね」
王として生まれても、贅沢ができるわけではないんだな……。
座って待つこと数分、聖王が1人の神官と特級祭司のエルさんを連れて現れた。
「来ないかと思ったぞ——ああ、いい。座ってくれ」
僕と伯爵が席を立って礼を取ると、聖王はそう言いながらさっさとイスに座ってしまう。僕もイスに座りながら向こうの様子をうかがった。
聖王は、この1日で何年も年を取ってしまったのではないかと思うほどにやつれていた。ぶっきらぼうな物言いや、王としての威厳は相変わらずあるけれど、どこか空元気のようにも感じられる。
ウサギのエルさんと神官は後ろに控えている。ウサギの顔色は正直よくわからない。
「さて、まずはスィリーズ家の護衛、レイジと言ったな」
「はい」
「ありがとう。お前の働きに感謝する」
率直な言葉だった。だけど、
「いえ、僕はスィリーズ家との契約に従って行動したまでです」
この人のために働いたのではない。
「……あくまでも伯爵のために動いたのだと、そう言うのだな?」
「正確にはお嬢様のためです。こちら、お返しします」
僕は胸ポケットに忍ばせていたナイフを差し出した。そう言えばここに至るまでボディーチェックとかなかったのだけれど、セキュリティとか大丈夫なんだろうか? それほどまでに伯爵への信頼が厚いということか?
「……そうか。おい、これを保管庫に戻せ」
神官のひとりがうなずくと、ナイフを持って部屋を出て行った。
「お前の行動が伯爵家のためであったとしても、内容は国家のためとなった。これからお前に対する褒賞の話をしたい」
「はい」
「まず昨日の勇気ある行動を讃え、聖金貨1枚を贈呈する」
聖金貨1枚。およそ500万円ぶんくらいの価値だ。そんなもんかな、と思う気持ちと、僕の年俸が聖金貨3枚だと考えると少ないのかなと思う気持ちとがある。
「……なんだ、『少ない』って顔してるな?」
「い、いえ、そんなことは……」
「それほどまでに高い給金を出してるのか、ヴィクトル」
「優秀な人材には高い報酬を出すのが当然ですよ、陛下」
「チッ。だから俺はもっと高くしろって言ったんだ。だが、出納係が渋くてな……聖金貨1枚でも過去を見れば大盤振る舞いなんだと」
「過去にこれほどの大事件が聖王都で起きたことはありませんからな。戦争で活躍したとなれば話はまた変わりますが」
伯爵がそんなことを言って返すと聖王はますます苦い顔をした。
いや、ね? 僕だって「そんなもんかな」とも思ってるんですよ? なんか僕が強欲みたいになってませんか?
「とりあえず褒賞は褒賞だ、受け取ってくれ」
「もちろんです」
お金があって困ることはない。
「それと、俺はこれから別の会議に出る。後の話はエルに任せる」
「……そうなのですか?」
伯爵がたずねると、聖王は苦い顔のままでうなずいた。
「リビエレ家のことを話さなきゃならんだろうが。ウチの子どもらや王族、他の公爵家も集めている。ヴィクトル、お前は俺といっしょに来い」
「しかし——」
「来い」
「……はっ。レイジさん、すみませんがこういうことなので、帰りは問題ないと思いますが」
「大丈夫です」
聖王相手にあれこれ話すのより、エルさん相手のほうがいくらか気が楽だ。
というか聖王としては、僕についてはあまり警戒心を持っていないのだろうか? それともスィリーズ伯爵がいるうちは僕は味方だと考えている?
ちらりと見ると伯爵は複雑そうな顔だった。これは、自分の読みが外れたことによる焦りみたいなものがある。僕のことをそこまで正確に、聖王に伝えていなかったってことだろう。
「ああ、レイジとやら。一応な」
立ち上がりながら聖王は言った。
「この話については契約魔術を結ばせてもらう。なに、守秘義務みたいなものだと思ってくれ」
来た、と思った。やはり契約魔術だ。




