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朝に3話更新しています。
力を手にしたラルクの気持ちがわかる気がしたけれど、彼女のように強い欲求は感じず、僕はただ淡々としていた。
……鉱山兵が増員されている。寝ていた冒険者たちも起こされて鉱山兵側に組み込まれている。僕ら奴隷は無地の服を着ているからすぐにわかってしまう。このままでは鎮圧されるのも時間の問題だ。
「だけど、僕なら逃げられる」
大空洞にいる人数が手に取るようにわかった。この隙を突けばいくらでも逃げる方法があるのだ。
僕は倉庫から飛び出した。そして向かった——「壁面住居」に。
僕とラルクが3年もの間寝起きしていた、絶壁にへばりつくように建てられていた木造住宅はひどいことになっていた。あちこちで崩落があり、家ごと落ちて潰れていた。幸いにもこの「壁面住居」は鉱山奴隷のために用意されたものだから、ほとんどの人間は朝会のために無人であったということだろう。
「ああっ……」
だけれど、ごく少数残っていた奴隷もいる。昨晩飲み過ぎて寝過ごした者、病気で寝込んでいる者。
僕が見たのは家に押しつぶされ、すでに動かない誰かの腕がはみ出しているところだった。
「くそっ」
なんだったんだ、あの地響きは。地震なのか? だけれどこの世界で地震の話はとんと聞いたことがない。そういう単語があるかすら怪しい。みんな、この揺れのことを「地響き」だなんて言っていたし。
僕は走った。探しているのはヒンガ老人だ。老人の家はすでに壁面にはないので、地面に落ちているらしいことはわかる。
「ヒンガ老人!」
僕は、老人の家が他の家を押しつぶしてナナメに立っているのを見つけた。ドアは仰角45度の方向に開いている。
その下、がれきに腰を下ろしている老人の姿を僕は見つけた。
「……なんじゃ、坊主。あの崩落を生き延びたのか」
駈けつけた僕に、いつものように少しだけ突き放すような口調で老人は言った。
ああ——そうか。
この人は、そうなんだ。
僕は契約魔術が解けて初めて気がついた。ヒンガ老人の腕には入れ墨がない。彼は元々鉱山奴隷ではないのだ。それなのにどうしてこの鉱山に、奴隷たちと同じ住居に寝起きしているのかはわからなかったけれども、それでも老人の意志はわかった。
ヒンガ老人は、底抜けに優しいのだと。
この世界で「知識」を得るのはとんでもなく難しい。高等教育機関——いわゆる「大学」どころか「高校」すらごくごく限られた特権階級の人間しか通うことができない。
だというのに、この老人は多くの知識を持ち、それを望む者——僕のことだ——に無償で振る舞った。いや、食事は運んでいたけれど、そんな労働なんて対価になり得ないほど多くのことを老人は教えてくれた。
鉱山のこと。天賦珠玉のこと。奴隷と魔術のこと。毒と薬草のこと。この世界で生きる術。
だけれどけっしてヒンガ老人は僕に優しく振る舞おうとはしなかった。
それは、
「ヒンガ老人……あなたは、僕らがなんの未練もなく鉱山を出て行けるよう、わざと突き放して接したんですね」
気づいたのは僕にスキルがあるからじゃない。この人のたたずまいがすべてを物語っていた。
ただ者ではないと思っていたけれど、今ここに座るヒンガ老人は完全に賢者の風格だった。
「! ……そうか、お前は、そうか……契約魔術が切れたんじゃな。アッヘンバッハの小倅が死んだか」
「公爵のことをご存じなんですか」
「ヤツ本人はほとんど知らんが、ヤツの父はよう知っておる。それこそ酒を飲みすぎて働いた失態の尻拭いを、ワシが何度してやったことか」
この老人は僕が思っている以上に偉い人なのかもしれない。それは、社会的な意味で。
「ヒンガ老人。今、ここは大混乱に陥っています。いっしょに出ませんか」
「……それはできぬ」
「どうして」
「ワシが、もとよりここで朽ちるつもりで住んでいたことが1つ。そしてもう1つは——これじゃ」
「!」
僕はヒンガ老人の話で頭がいっぱいで気づかなかった。老人の左の腹から出血していることを。
「落ちたときに……?」
「それもあるが、古傷が開いたというのも大きい。どのみち先も短い命じゃった。大人しくここで死ぬさ」
僕はなにも言えず、ただ歯噛みした。
老人の口からつぅと血が垂れて、老人はそれを手の甲でぬぐう。忌々しそうに顔をしかめる。
「……最後にお天道様くらいは拝んでおきたかったがの……真昼まではまだまだ遠い。ここは正午のほんの30分程度しか日が差さん」
「老人」
僕はすでに、決心していた。
「昼までは遠いけど鉱山の出口までは、そこまで遠くありません。僕が肩を貸します」
「……心遣いだけもらっておくとするかの。いくらここの鉱山兵がボンクラばかりでも、さすがに老人と坊主ふたりを通すことはあるまい」
「——レイジ、です」
「む?」
「僕の名前、レイジです。坊主じゃない」
前世での人生は終わった。だけれど今世では名前を与えられなかった。
だから僕はレイジの名前を続けようと思う。
ただ——。
「レイジのレイはゼロの零。レイジのジは2の二」
「……お前さん、この短い時間でなにがあった?」
ヒンガ老人はわからない、と言うように顔をしかめた。この世界には、僕の知る限り漢字はないから。
僕はこの世界で再出発する。「ゼロ」からのスタート。そして——姉がいるのだから、弟として「2番」を名乗る。
「行きます。さあ、手を」
「……本気なんじゃな」
「もちろんです」
老人は僕の手をつかみ、よろめきながら立ち上がる。傷口の反対側から僕は老人を支える——のだけれどまるで抱きついているみたいな格好になった。
この人からは、垢じみたようなニオイがしないのに気がついた。つんとしたハッカのようなニオイがした。
「っく……」
枯れ木のような老人とは言え、僕は全力を発揮しなければヒンガ老人を支えることができなかった。
「行きますっ……!」
この人をこんな場所で死なせたくないという思いだけで歩き出した。一歩ずつ、着実に。のろのろとした亀のような歩みであったとしても、僕らは着実に鉱山の外へと向かった。僕がこの人を連れ出すのだという一念だけが僕を動かしていた。
だってこの人は、僕が前世で望んでいた「勉強」をさせてくれた人だから。
誰かに「使われ」、「感謝もされない」だけの僕に、無償でなにかをしてくれた人だから。
この世界でも奪われるだけだった僕に、「与えて」くれたふたりめの人だから。
そして——僕に最初に「与えて」くれたラルクとのつながりを知る人だから。