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人が死ぬ表現があります。
「な、ななんなんっ!?」
足元が揺れ、僕は立っていられなくなった。その場に尻餅をついた僕が見上げたのは——ラルクの背中だった。
彼女の顔が見えなかった。
それがたまらなく不安だったけれど、それどころじゃなかった。今まで経験したこともない尋常じゃない地響きに周囲は大パニックに陥った。
誰かが叫び、誰かが地面にうずくまり、誰かが神の名を呼んだ。
「落ち着けっ、お前たちこれは——」
鉱山長の静止の声は無意味だった。
「あ」
僕は呆けた声を上げた。顔を空へと向けていたからわかったんだ。空洞の抜ける青い空——壁面部分が崩れて落ちてくる。ここはダンジョンの外。破壊もできるし崩落もする。
危ない、とか、逃げて、とか言う余裕もなかった。巨大な岩が降り注いで人々の悲鳴があちこちから上がった。
そして、僕は見てしまったんだ。
「いったいなんなのだ、これは……ぐぇっ」
一段高いところで、頭を抱えてうずくまっていた公爵の頭に、その頭よりも大きな岩がぶつかったところを。台すらを砕いて公爵はでんぐり返しで地面に落ちて大の字に広がったところを。首から上がなくなった公爵の身体がぴくんぴくんと動いたところを。
その直後、僕は身体に異変を感じた。
突如体内に暴風が吹き荒れたような異変だ。
「あ……あ、あ、あ」
凍える冬。
納屋で、布団もなくたったひとりで過ごした夜。
寂しい。つらい。悲しい。苦しい。どうして。僕だけ。こんな目に。痛い。止めて。つらい。寒い。ひとりはイヤだ。寂しい。痛い。寒い。どうして。なんで。僕だけ。みんなは。僕だけ。つらい。こんな目に。イヤだ。イヤだ。イヤだ。イヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤ————————————。
「あああああああああああああ!!!!!!!!」
大嫌いだった。家族なんて。僕をひとりのけものにして、石を投げ、兄弟は僕からご飯を取り上げた。父も母も僕を見て見ぬフリをした。「そうしないと黒髪黒目のお前の仲間だと思われる」だって? 僕は知っている。何度となく僕を殺そうとした父を。「他の兄弟を守るためなの」だって? 僕は知っている。僕が浮気によって生まれた子ではないかと夫婦ゲンカになって、父は母を拳で殴り、それなら私がこの手で殺すからと媚びるように言った母を。
僕はなんとか殺されずに済んだ。夜には納屋に逃げたからだ。だけれど昼に受けた傷が痛くて、苦しくて、泣きたくて、でもそれ以上につらかったのが空腹で。
そうして行商人が村に訪れたとき、僕は立候補したのだ。自らを売りたいと。そうしなければいつしか親に殺されるだろうから。
「おうぇええええええっ」
僕は嘔吐していた。先ほど食べたものをすべて吐き出していた。胃液まみれのそこにあったのは腐った肉を無理に煮込んだスープだ。ジャガイモもニンジンも変色していて本来なら食べられたものではない。パンだって、粗悪な麦を雑に挽いて焼いただけの代物だ。焼きすぎた、黒々とした塊が胃液の中に転がっていた。
今の今まで、まやかしにかかっていたのだ。僕は、あんな家畜のエサ未満のものを「腹ごしらえ」だなんて言って食べていた。
そうか、そうだったんだ。
それはすべて、
「契約魔術のまやかし、だったんだ……」
いきなりよみがえった苦しい記憶、さらには気づかされた劣悪な食事で、僕は両目から涙をこぼしていた。だけれど滲む視界でもその青さははっきりわかる——ガリガリの白い腕に、バングルのような入れ墨が一本入っている。
すべては、契約魔術によってなされたものだった。
奴隷が反抗的にならないように。特に犯罪奴隷が妙な気を起こさないように。奴隷同士がトラブルを起こさないように。まるで催眠術をかけて人を羊の群れに変えてしまうように——彼らは僕らに契約魔術を掛けた。
だけれどその魔術は解けた。
なぜか——決まっている。僕らの奴隷の「持ち主」であり、契約魔術の「主」に当たる公爵が死んだからだ。
ワァッ——。
喚声が上がって僕はハッとした。
僕のようにうずくまって嘔吐している奴隷が半分くらいいたけれど、残りの半分はすでに行動を起こしていた。彼らの腕にある入れ墨は2本。犯罪奴隷たちだ。
手の早い奴隷は鉱山兵を殴り倒すと、剣を奪ってためらわずに喉笛を掻き切った。
「ぎゃっはははははは! これで俺は自由だぞ!」
ああ、あの人は、僕が食堂で並んでいると後ろから頭をなでて「坊主は小せえなあ。もっと食ってでかくなれ」と笑っていた人じゃないか……。
それにあそこで鉱山兵を張り飛ばしているのは、坑道で重い荷物を持ってふらふらしていた僕を助けてくれた人……。
あそこで吐いている奴隷を蹴飛ばして道を作っているのは、坑道でモンスターに遭遇したときにどうしたらいいか教えてくれた人……。
一斉に、契約魔術が解けたんだ。
そうして彼らの心にも多くの記憶と、感情とがよみがえったに違いない。そんな彼らを縛るものはもうなにひとつないのだ。
もちろん奴隷になるタイミングで、彼らの主要なスキルは外されているのだろう。スキルを着脱できるスキルがあるってヒンガ老人も言っていたし。それでも奴隷たちは、特に犯罪奴隷たちは強かった。訓練されているにしても練度が低い鉱山兵よりも、ずっと。
「鉱山兵、奴隷どもを鎮圧しろ! 早くしろ! 手の空いている冒険者を投入してもいい!」
鉱山長が叫んでいる。その顔を見て、僕は目を疑った。
この人は——こんなにも目を血走らせて、欲にまみれた醜悪な顔だったんだ——。
奴隷として従順にさせるために、つらいことや苦しいことのすべてにフタをされていたらしい。それだけでなく悪感情を催すあらゆるものがシャットアウトされていた。
「うわっ!? お、おい、お前! それは——」
「——これは元々、あたしのだ!!」
よく知った声が聞こえて、僕はそちらを見た。
僕が「姉」だと思い、彼女もまた「弟」だと呼んでくれたその人は、今、手に虹色に輝く天賦珠玉を持っていた。
(あれは……よくない光だ)
肌が粟立つのを感じた。ラルクが手にしていた天賦珠玉は確かに虹色だったのだけれど、さっきまで感じていた純粋な美しさよりも、今はどこか、未知なるなにかににらまれているかのような不気味さを覚えたのだ。
「ラルク、ダメっ——」
僕の声は、届かなかった。
天に届けとばかりに細い右手を伸ばしたラルク。虹色の天賦珠玉はひときわ大きく輝くと、彼女の身体に吸い込まれていったのだ。
「これが、【影王魔剣術★★★★★★】……! これが、星6つの力……!!」
楽しさに、こらえきれないとばかりに唇が震え、笑い声が漏れるラルク。
だけれど彼女を放っておくほど鉱山長ものんびりとはしていなかった。
「こいつを捕らえろ! いや、腕と足を切っても構わん、無力化するんだ! だが殺すなよ!? さもないと天賦珠玉を抜き出せなくなる!!」
ワァッ、と声を上げて鉱山兵たちがラルクへと殺到する。そこにもはや手加減はない。剣を抜き、小さな盾を構えて突進する。
「来い、あたしの魔剣」
彼女が手をかざすと、そこから三日月のような黒いなにかが宙を滑って飛んでいく。
それは鉱山兵数人を巻き込むと、彼らの身体を——胴体を真っ二つにして、盾すらも破壊して、消えた。
「わああああああっ!?」
見ていた鉱山長は恐れおののき、ラルクに背を向けて走り出した。彼はラルクから、あまりにも近いところにいた。
鉱山長だけではない。ラルクを攻撃するよう命令された鉱山兵たちもまた逃げ出していた。
「逃げてんじゃねーよ」
上から下へと振り下ろされた手。ほとばしった黒い影は鉱山長を縦真っ二つにした。鉱山長は右と左に身体が分かれ、内臓と血をまき散らして絶命する。
うぶっ……僕もまた強烈な嘔吐感に襲われたけれど、先ほど全部吐いてしまった後だったのでもはやなにも出なかった。
「…………」
地べたに座り込む僕を、ラルクが見下ろしていた。
近くの鉱山兵が落とした松明が、ラルクの紫色の瞳に映じている。
「弟くん」
僕がこのとき感じたのは恐怖だった。
痩せた彼女の顔はそれでも整っていた。人を殺したせいか、あるいは別の感情か、わからないけれど彼女の瞳には憂いがよぎっていた。
タスケテ。
そんな声が聞こえたような気がした。いや、ただの幻聴だ。現にラルクは口を開いていないじゃないか?
「立てるか」
差し伸べられた手に、チリッ、と黒い影が見えた。
「ひっ」
反射的に後じさってしまった僕を見て、ラルクはハッとして手を引っ込める。
「…………」
ラルクは僕の目を見ていた。僕もラルクの顔を見たかった。でも、見られなかった。
ラルクはやがてふいっと顔を背け、
「……道は切り開く。お前も上手く逃げるんだ」
言葉を残して小走りに去っていった。
「あ……」
僕は——その背中に言うべき言葉があるのを知っていた。言うべき言葉は1つじゃなく、10や100もあったに違いない。
だというのになにも言えなかった。差し伸べられた彼女の手を拒否した後ろめたさから? 人殺しの彼女の手なんて取れない? 自分もまた殺されるかと思った?
「さよなら、弟くん——」
僕は、バカだ。彼女の手を取らなかった。
このことをずっと後悔し続けるに違いないとわかっているのに、それでもなお、声が出なかったんだ。