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大きな湯船に身体をつけると、ずぶぶぶと溶け出してしまいそうだ。
まさか温泉が湧き出ていて、領都ではどの宿でも提供しているなんて……。異世界小説にありがちな「風呂に入りてぇ! なにぃ、風呂なんて王侯貴族しか入らねぇだとぉ!?」問題を僕はあっけなくクリアした。
湯気がもうもうと立ちこめて端から端まで見渡せないほどに大きな浴場は、僕以外には誰もいない。宿のロビーで会った人は数人いたけれど、みんな商人らしい。商人、とわかるのはミミノさんから「この宿は冒険者や旅人でなく、商人向けだからな」と聞いていたのと、あとは切った張ったの戦いに向いている肉体ではなかったからだ。
ヒト種族でなくとも平等に接してくれるのは商人で、次に一般市民、次に冒険者、次に貴族、次に農民……ということらしい。いちばん農民が激しい差別意識をもっているそうで、というのも彼らは閉鎖的な村に住んでいるのでヨソ者をことのほか嫌うからだった。
聞けば、納得ではある。
とはいえ「一般市民」というくくりも大きいし、実際には商人でも偏見まみれの人がいるから気をつけるように……と釘を刺された。
「ふー……ひとりだと落ち着くなぁ」
【森羅万象】によると、これは源泉掛け流しというヤツで、紛れもなく地中から湧き出た温泉だった。皮膚病には効くけれど石化には効かないみたいだ。
石造りの大浴場は、建物の半地下にある。
上のほうに換気用の通気窓があった。
明かりは乏しいので僕以外に誰かがいてもわからないけれど、夜も遅いのでここにはいなさそうだ。
ちなみにライキラさんは「獣人が風呂になんか入るわけねーだろ」と言い(毛がいっぱい抜けるので嫌がられるそうだ)、ダンテスさんも「俺は止しておこう」と寂しそうに言った。石化が伝染するとか思う人に気を遣っているらしかった。
なので、僕はお風呂を独り占めできているというわけだ。ぶくぶくぶく……あー、極楽じゃよ……。
ガラガラッ。
とか思っていると引き戸の開く音が聞こえた。独り占めの時間は終了だ。まあ、ひとりっきりというのも寂しいし、いいか。ただ僕の黒髪を怖がられると困るけど。
「レイジくんいるか?」
「ぶほっ」
水面で息を吐いてあぶくを作っていた僕は思いっきり噴き出した。
そりゃ噴き出しますよ!? な、なんでここに——。
「なんで!? なんでミミノさん!?」
「そりゃだって、この時間は女の時間だものな」
「私もいますよ〜」
引き戸から入ってきたのは、ミミノさん、そしてノンさんだった。もうもうとしている湯気のおかげで見えないのが残念——じゃない! 見てる場合じゃないよ!?
「この時間は女性!? 僕に行ってきなさいって言いましたよね!?」
「うん。だけどレイジくん出てくるの遅いから女の時間になったんだべな。レイジくんは10歳だし、見た目ももっと小さいから全然平気よ」
僕が平気じゃないですぅ! 近寄らないで! 近い近い近い近い! すぐ後ろで話しかけないで!
「で、で、でも——僕出ます!」
「こぉら、話すときは人の顔を見るだな」
「!?」
両手でがっしと顔をつかまれ、そっちを振り向かされた。
そこには、薄明かりの中に立っているミミノさんとノンさんのふたりがいた——。
ミミノさんはともかく(失礼)、ノンさんの破壊力(なにとは言わない)は、すごかったです。
「……おお、戻ってきたか」
僕が部屋に戻ると、イスに座っていたダンテスさんが言った。ライキラさんはすでに寝ているようで、ベッドに横になっていた。僕はどさりとダンテスさんの向かい、イスに腰を下ろす。
「どうした? レイジ」
「……いえ、あの、いえ、なんでも、ないです……」
「? そうか」
一応女性ふたりは隣の部屋なので、なにが起きたのかダンテスさんは知らないのだろう。もしもノンさんとお風呂に入ったことがバレてしまったら「ウチの娘になにしてくれるんじゃァァ」と鬼の形相で迫ってくるかもしれない……ふだん優しいダンテスさんが! 確実にちびる。
「それにしても、いいんですか? こんなにいい部屋に泊めてもらって……」
「ああ。俺たちはふだんは森を進むだろう? だから旅費はほとんど掛かっていない。レイジも食べられる野草を見つけてくれているし食費も圧縮できている。街にいる間はいい宿に泊まってしっかり疲れを取る。それが俺たちのやり方……なんだ」
俺たちの、と言ったときにダンテスさんは一瞬寂しそうな顔をした。ひょっとしたらそのやり方、ポリシーは、前のパーティーのものなのかもしれない。
「ふうむ、しかしレイジは賢そうな顔をしているな」
「え、ええっ!?」
「元々賢いとは思っていたが、汚れを落とすとさらにそう見えるぞ」
「あ、ありがとうございます……?」
今はこっちの世界で生きてきたキツイ記憶よりも、男子高校生だったころの記憶を思い出すようにしている。キツイことなんて思い出したってつらいだけだしさ……。
そのせいで平和ボケしたように見えるのだろうか?
「さぞ、いい教育を受けたのだろう——あ、いや、これは忘れてくれ」
「いえ構いませんよ。僕は確かに、それなりの教育を受けたのだと思います」
こっちの世界は子どものころから親の仕事の手伝いだもんね。職業が決まれば丁稚奉公みたいに親方に弟子入りして、天賦珠玉をもらって仕事をする。
木こりなら木材関連の、漁業なら漁業の関連ギルドがあって、そこから天賦珠玉が安く回ってくるらしい。この世界はすべて天賦珠玉だ。
「ダンテスさんも優しさがにじみ出ていますよ」
「……俺が、か?」
「はい。特にノンさんを見ているときは」
「…………」
ダンテスさんは難しそうな顔をした。僕はなにか変なことを言っただろうか——ハッ。ま、まさか、大浴場でなにがあったのかを知っているとか!? すすすみません! 悪気があったわけじゃなくて!
「……俺は、な」
ぽつりとダンテスさんは言った。
「たぶん、石化を治すことができずに死ぬんだ」
「……え?」
「相当に難しい呪いらしくてな。光天騎士王国に行っても治せる確率は低い、とはもう何度も聞いたんだ。各町の回復魔法使いからはな」
僕は——知らなかった。
この人は、もう、死を覚悟しているのだということに。残された最後の時間を娘のノンさんと過ごすことに使おうと決めていたのだ……。
「だから俺は、ノンはもちろん、こんな旅に付き合ってくれたミミノにもできる限り尽くしたい。なにかの縁だからライキラやお前にも惜しみなく知識を与えるし、なにかあれば命を懸けても守ってやりたいと思う。……もしそうなっても気にしないで欲しい。それは、俺のワガママなんだ。生きているうちになにか、爪痕を残したいと……そう思っているだけだからな」
「…………」
「すまん、湿った話をしてしまったな」
はははは、と笑うダンテスさんはいつものダンテスさんだった。
ミミノさんが言うには、前のパーティーでも仲間を守る立ち回りをしていたらしい。
この人は、どれほど人のために尽くそうというのだろう……。
「ダンテスさん」
僕は、僕に「与えて」くれる人をけっして裏切らない。裏切りたくない。
「なんだ?」
「もし、もしもですよ、僕がワガママを言って『お金を貸して欲しい』と言ったら快く貸して欲しいんです。なにを買ったのか後で必ず言いますし、いや、まあ、まだ買うと決まったわけではないんですけど……」
「なんだなんだ。欲しいものでもあるのか」
「はい」
僕は真っ直ぐにダンテスさんを見つめていた。
——紅葉のような葉っぱで先っぽがさらに5つに分かれている。
——すごく深みのある銀色の金属。
——ミミズのようなうねうねしている生き物。
そのイメージは、ダンテスさんの石化部分を見つめていると今でも浮かんでくる。
売っていたら絶対に買う。森の中で見つけたら絶対に確保する。
今はまだ、言えないけれど……ぬか喜びをさせたくないし。
ただ僕は決めた。ダンテスさんの石化を治すために僕もできる限りをしようと。
「……そうか。構わんぞ。男の子は欲しいものをねだるくらいじゃなきゃな。ノンは全然おねだりをしなかったし、お前も出来がよすぎて困るんだ」
ダンテスさんは立ち上がり、まだちょっと濡れている僕の頭をなでた。
「さあ、そろそろ寝なさい。明日は旅の途中で見つけたあれこれを売りに冒険者ギルドに行くぞ」
「……はい」
僕は促され、ベッドに入った。目を閉じるとすぐに眠気はやってきて、次に目を開けたときには朝だった。
つまり夢は見なかったということで、さらに僕は気づいてしまったのだけれど、この世界に来て初めてベッドで寝たのでは……?
そろそろ毎日3話がちょっと厳しいので、朝夕の2話にさせてください……すまねえ、すまねえ……!
もはやストーリーのストックなんてゼロなんや!(唐突すぎる告白)




