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新章、始めました。
子どもひとりが身体をひねり、ごつごつする岩肌に服をこすりつけながらなんとか通れる坑道があって、これを鉱山夫たちは「狸穴」と呼んでいた。
僕はふとそんなことを思い出した。
狸穴は枝のように分かれているのだから、逆に言えば太い道を選んでいくと最後は根っこ——鉱山の入口にたどり着くという寸法だ。
——では、もしも逆に、根っこから上へと上っていくとしたら? こっちが本流にいて、支流に行ったらどうなる?
僕はふとそんなことを考えた。
——いや、最後はすべてが支流になり、源流へとたどり着く。それなら迷う必要はない。
すべては同じ枝の先、葉のひとひらなのだ——。
★
目が覚めたのは、強烈な悪寒と吐き気に襲われたからだ。
次に頭の中が、刺すように痛んで頭を抱える。
「うっ、ぐ、ぐぐっ……!?」
目の前が赤い。いや、黒い。いや、青い。いや、なんだこれは……モザイク状になった多くの色がちかちかと瞬き、またも悪寒と吐き気に襲われる。
すると——僕の背中をさする手を感じた。
一所懸命にさする手のひらの温かさが、僕の正気をつなぎ止める。カンダタが蜘蛛の糸を伝うように意識が浮上していく。
「——っはっ、はあっ、はっ、はぁっ……」
目の前にあったのは、
「————」
精巧な作り物よりも整っているとすら感じられる、アナスタシア殿下の美貌だった。だけれど髪は乱れ、前髪は額に張りつき、頬には汚れがあった——それが人間味を感じさせ、より魅力的にすら見えるのだから不思議だった。
殿下はくしゃりと顔をゆがめると目尻に涙を浮かべ、僕の首に抱きついた。ふるふると震え、ふつうならば声を放って泣くような勢いだというのに彼女は声を殺している。
(ああ……そうだった。殿下は、声を出すと【火魔法】が発動してしまうんだっけ)
感極まっても「声を出さない」という枷に行動を縛られている殿下に、僕は強い同情心を感じる。でも今は——状況の把握が先だ。
「殿下、ありがとうございます。もう大丈夫です」
その身体を引き剥がしながら——「もうしばらくは抱きしめられていてもいいんじゃない?」という誘惑には抗いがたかったけれど——僕は周囲を見回す。
「……ここは?」
雲が空を覆っていて、薄暗い。
どうやら僕らは森にいるようだったけれど、木々の生育は悪く下草もほとんど生えていなかった。
痩せこけた木々を見透かしてかなり遠くまで見えるけれど、羽虫が飛んでいるきりで他に生命反応は感じられなかった。
『私は魔法を使ったところまで覚えていますが』
殿下が指で——爪が磨かれた美しい指で地面に文字を書き出したので、僕はそれを留める。
「殿下、声を出しましょう」
でも、という顔をする。
「大丈夫です。【魔力操作】の天賦珠玉で、殿下はかなり魔力コントロールが上手になりました。毎日慣らしていけばふつうに話せるようになりますよ——もし火が多めに出ても、僕が【水魔法】で消せますから」
にこりと笑ってみせ、手のひらに水球を浮かべる。
「……あの」
ちりっ、と火花が散ったが、それだけだった。
その先をどうぞ、と僕は力強くうなずきかける。
「でっ、『殿下』ではなく、アナスタシアと呼んでくださいませ!」
ぼぼぼぼっ、と火球が飛んだので僕はあわてて水を放った。じゅわ〜、と消える。
「……あの、殿下?」
「アナスタシア、ですっ」
ぼぼっ。じゅわっ。
「いえ、しかしですね」
「し、親しい者にはアーシャと呼んでもらいたいと、ずっと思っていたんですっ!」
ずぼぼぼぼぼじゅわわわわわわわ。
やばい、なんかすごい火勢で僕の前髪がちょっと焼けたんだが。
「殿下、殿下、落ち着いて——」
「で、でも止まらないんです!」
「アーシャ!」
「!」
火が、止まった。
だけど殿下の顔はゆでだこのように真っ赤になって——僕の放った【水魔法】の蒸気ではなく彼女の頭頂部から湯気が立つと、
「あっ!?」
殿下は後ろにぶっ倒れた。
「目が覚めましたか?」
「!?」
起き上がった殿下はハッとして周囲を見回すけれど、そりゃあ、驚くよね。もう夜だし。
あれから殿下はぐっすりとお休みになって、この時間に至る。
「あ、そのままで。お茶を出しますから」
起き上がった殿下にはそこに座っていていただいて、僕は焚き火の上で舞っていた茶葉を集めて竹筒に入れた。【風魔法】を慣らしていくとこういうことができる。
殿下が眠っている間に、この竹や茶葉を僕は集めてきた。正確には「竹っぽい植物」と「茶葉っぽい葉っぱ」である。【森羅万象】で食用可能であることを確認できなければさすがにこんな危ないことはしないけどね。
【水魔法】や【生活魔法】があるので水には困らないけれど、どうせ飲むならお茶のほうがいい。
僕が手渡した竹筒からは香ばしい薫りが立ち上る。
「熱いので気をつけて……どうですか?」
「…………」
口を付けてゆっくりと飲んだ殿下は、うんうんとうなずいた——僕は苦笑して、
「言葉を、話しましょう。さっきはちょっと暴走しましたけれど、どのみち避けては通れないことです」
「……とても、美味しいです」
小さな炎がちらり。水を使って消すまでもない。
「殿下のお口に合ったようでよかった」
「…………」
おっとぉ、にらまれたぞ?
だけどとんでもない美少女ににらまれるというのもこれはこれで……と、僕の背筋に「これ以上踏み込んではいけない」という快感が走りそうになったところで正気に戻る。
「わかりました……では、アーシャと」
「…………」
今度は顔を真っ赤にしてうつむいて、両手で竹筒をぎゅうと握りしめる。威厳を保とうとしているのに口元がニヤついてしょうがない——みたいな感じで。
(そんな可愛らしいことされたら僕の【火魔法】が暴走しそうなんだが)
とか思う次第です。
「で、でも、口調はこれで勘弁してください。敬語で話すのがクセになっていますから」
「わ、わかりましたわ」
ぼぼっ、と火の玉が現れたので、殿下——アーシャはあわてて口を閉じた。
「……レイジさん。ところでここはどこなのでしょう」
落ち着いたところで、そう言った。
「僕が覚えている限りをお話しします」
それから僕は、アーシャが気を失った後のことを話した。
空に現れた巨大なモンスター。
強力な魔力干渉と「九情の迷宮」の反応。
そして吸い込まれる僕らと飛行船。
僕は「狸穴」のことを思い出していたけれど、あれは空の赤に吸い込まれたときに見ていた世界だったのかもしれない。
不思議なことに殿下は——気がついたらここで目が覚め、すぐ隣に僕が倒れていたのだという。
その間のことはなにも覚えていないということだった。
僕は【森羅万象】のせいで忘れることができず、そのせいで気分が悪くなったのかもしれない。
「察するに、僕らは——」
見上げた木々の切れ間から夜空が見える。
変わらない星座がそこにはあった——そう、まったく変わらない星空なのだ。
「——『裏の世界』に来たようです」
 




