月夜ばかり
魔法を使わない、いや、使えない地球人、的は放課後一人残って、特別講習を受けていた。クピルはチョークで黒板に丸い円をさくさくっとふたつ描いた。
「小さく赤い方がルヴィニ。紫の方がアメティス。ふたつは兄弟という関係にあるわ」
教科書の石板を的は見つめていた。最初は、くねくねと踊っているような古代文字だったが、不思議なことに簡単に読めるようになった。まるで、魔法。
「イリョスがエガタにいるため、この世界は太陽がないのよ」
的は窓の外に浮かぶふたつの月を見上げて、
「神話か……」
天文学を専攻する的にとって、少し退屈な話だった。そんな生徒の態度を見て取ったクピルは、
「的くん、ここは重要よ」
彼の注意をこちらへ向けた。窓からクピルへ視線を置いた的は、本腰を入れた。壁にかけられたランタンの灯りが増したようで、クピルの目鼻立ちがはっきりと浮かび上がった。そして、彼女は静かに口を開いた。
「悪魔が出るのよ」
「……?」
映画やアニメみたいなことを真顔で言うので、的は言葉を失った。クピルは言い聞かせるように、
「悪魔が出るの」
「……悪魔?」
的はあまりにも非科学的な言葉に、笑いそうになったが、クピルの本気の瞳を前にして、笑うのをなんとか踏みとどまった。そんな彼に気づかず、クピルは話を進める。
「今から、六年前、ここから南へ三百キロほど行ったところの、オクト村に悪魔が突然現れて、たくさんの人が亡くなったのよ」
「悪魔はどこから来るの?」
クピルはため息をついて、頭が痛いという仕草をした。
「さっき、神話で説明されてたわよ」
言われて、的はさっきの話を思い返した。
『スコタディの会いたいという強い想いが、悪魔を生み出した』
的は納得の声を上げた。
「あぁ、エガタっていうところか」
「そういうこと」
「どこかでつながってるの?」
「えぇ、遺跡の奥に道があるのよ」
「ふーん」
話半分で聞いていた的は、窓の外を眺めた。美しい月明かりの幻想的な風景に、楽しげに話している生徒たちを見ている限り、悪魔なんて、全く関係がないように思えた。
クピルは窓に近づき、月影を浴びながら、
「新月と満月の日は悪魔が出やすいから、早めに帰るのよ」
「……あぁ、うん」
とりあえず、うなずいた的の背後には、満月のルヴィニとアメティスがあった。
★ ★ ★
だいぶ通い慣れた道を、的はマイペースで歩いていた。ふとそよ風が、優しく髪をなでていく。彼は途中にある遺跡に目をやった。綺麗な月に誘われるように、そちらへふらふらと歩いていった。
彼は非科学的な話ばかりの放課後に飽き飽きしていた。大好きな星空を眺めようとして、草原の上に大の字に寝転がった。小さな光が散りばめられた、美しい空が視界いっぱい広がった。クピルから教わった、この世界の歴史を思い返して、
「そんなことあるのか……?」
的は一人苦笑したが、
『オクト村に悪魔が突然現れて、たくさんの人が亡くなったのよ』
クピルのこの言葉に、的は顔を曇らせた。セフィスの人は全員、何らかの魔法が使える。能力の差はもちろんある。悪魔退治の魔法使いを育成するため、マディス学園は出来たそうだ。
的はころっと横向きになると、今度は草原が目の前に広がった。なぜ、自分が今、ここにいるのか? その疑問の答えは見つからず、他の重要なことに気づいた。
「あ……満月」
今日は悪魔が出やす日だった。的は上半身をのんびり起こして、彼はくすっと笑った。まさか、悪魔が本当に出るとは思っていない彼の、視界の端に何かが映った。的はぎくりと固まり、油差しの切れた人形のように、首がぎぎぎーっとそっちへ向いた。遠くの信号のように、赤く光る目ふたつ。黒いフード付きのローブを風にばたつかせて、こちらにすうっと近づいてきた。
「悪魔!?!?!?!?」
的は飛び上がった。本当に出た! 口から心臓が飛び出そうになり、一目散に逃げ出した。家まで走れば、なんとかなる。クピルの言葉がよみがえる。
『魔力の弱い人は、各家に護符を貼って、身を守ってるのよ。的くんの家にもあるわ』
護符!! 的はそれだけを頼りに、全速力で走り出した。だが、左足に激痛が駆けめぐった。バランスを崩しそうになるが、なんとか体勢を立て直し、月明かりの中ひたすら走り続ける。息が上がる。ドキドキと心臓がうるさい。攻撃された。またされるかも。そう思うと、痛みなど気にしていられなかった。命の危機なのだ。
あともう少し。家の玄関が見えた。不思議と気配がなく、的はもう追ってきていないのかも知れないと思い、振り返ると、すぐ背後にいたーー!! まずい!!
玄関のドアノブに手がかかるかからないかで、すぱっと開け、中へするりと入った。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
息がはずんでいる。その時だ。ぴかーんと乾いた音がし、青白い閃光が飾窓から入ってきた。
「え……?」
的は何が起きたのかわからず、ドキドキしながら様子をうかがっていた。
しばらく、耳をすましていたが、悪魔がドアをぶち壊すでもなく、窓から入ってくるでもなく、呪いをかけられるわけでもなく、何も起こらなかった。
的はそうっと立ち上がり、キッチンの窓から、外をうかがい見ると、悪魔はあきらめたのか、通りの方へすうっと遠のいていった。
ほっとしたら、足が急にすくみ、的は壁に背中をずるずると預け、へたり込んでしまった。緊張が取れ、彼の左足の痛みが急によみがえった。
「痛っ!!」
彼は思わず、傷口に手を触れた。ぬるっとした、生温かい感触が。即座に血だと判断して、
「うわぁー!!」
家の外まで聞こえるような悲鳴を上げて、的は気絶した。
★ ★ ★
的は左足の激痛で目が覚めたが、家ではなかった。広い天井が広がり、誰かが顔をのぞかせた。
「……先生?」
かすれた声で、的は言った。クピルは安堵の息を漏らす。
「よかった〜」
「何で?」
意味がよくのみこめていない的は、目を瞬かせた。
「また来ないから、どうしたのかと思って、家に行ったら、怪我をして倒れてるんだもの」
「…………」
的の視線の先には、窓辺にたたずむ革のバッグが現れ、次いで、壁にかけられたランタンがちらつき、黒板を見つけた。的は気を失っているうちに、学園へ運び込まれたらしいと知った。
何も答えない的の足を、クピルはじーっと観察していた。縦に焼け焦げたような跡が残っていた。彼女は深刻な表情で、静かに口を開いた。
「悪魔にやられたのね……」
「…………」
真一文字に結ばれた的の口は、肯定を意味していた。まさか、本当に悪魔が出てくるとは思わなかった。非現実的なことが、ここでは現実なのだ。肯定することなど簡単にしたくなかったが、認めざるを得なかった。
「今、治すわ」
クピルはそう言って、傷口に両手をかざした。
「デオス プロセフホメ アナクフィシー」
呪文を唱えると、的の傷はあっという間に治った。
「…………」
左足を伸ばしたり曲げたりしてみたが、傷跡も痛みもなかった。今までに感じたことのない不思議な感覚だった。そして、聞き慣れない言葉が気にかかった。
「何語、それ?」
クピルは含み笑いをしながら、
「古代語よ」
「ふーん」
的はリアクションが薄かった。彼はとても驚いていても、いつもこんな感じだ。クピルは黒板によって行き、チョークを手に取った。
「デオスは神、プロセフホメは祈る、アナクフィシーは救う、になるの」
黒板に書かれた文字を見ていた的は、質問をぶつけた。
「先生は、治癒魔法が専門なの?」
攻撃魔法科の先生なのに、治癒が専門とは不思議なこともあるもんだと、的は思った。だが、クピルの答えは、彼の予想を大きく上回った。
「私は補助魔法が専門よ」
「補助魔法?」
どんな魔法かわからず、的はいぶかしげに聞き返した。クピルは教えるにはいい機会だと思い、俄然力が入った。教壇に両手をどんとついて、新米生徒を見据える。
「まだ、話してなかったわね。マディス学園は、初等部、中等部、高等部、専門部に分かれているの。的くんは専門部にいるわ」
どうやら、専門部は大学と同じところのようだ。クピルは黒板にそれぞれの部を書き終えて、
「専門部は攻撃、防御、治癒、召喚があるの。そして、もうひとつ……」
そこまで言って、一旦言葉を止めた。振り返って、黒板に少し大きめの字で書き、
「補助科がある。すべての補助を行うの。力や効力を増すための魔法よ。そのため、すべての魔法を学んでからの習得になるの。だから、五、六年生にならないと、補助魔法は使ってはいけないのよ」
「ふーん」
的はどこを見ているのかわからない目をしていた。悪魔は存在する。またいつ、襲われるかわからない。ならば、自分で対処しなければ。そこまで考えて、
「呪文、教えて」
「え……?」
突然言われたので、クピルは戸惑った顔をした。的は少し怒ったように、
「呪文、練習したいから」
クピルはやる気を持った生徒を誇らしく思い、微笑みながら、
「わかったわ」
彼女は教壇の前へ出て、的によく見えるように説明し始めた。
「まずは、この世界に、自分が存在できることの感謝を神に捧げる。次に出したい武器が手から出てくるイメージを強く持つ。次に、武器にしたいものの名前を古代語で言う。マスティギオ……」
クピルの手に光るムチが突然現れた。
「はぁー」
的は思わず吐息を漏らした。見事だった。クピルは真剣にまだ話を続けている。
「消す時は、意識を拡散させるだけ」
すると、クピルの手のうちから、ムチは光の粒子となって消えてしまった。的が何か言おうとすると、チャイムが鳴り始めた。
「次は実技の授業だから、やってみて」
クピルは石板を一枚渡した。そこには、様々な武器の古代語が載っていた。
「うん」
的は石板をぎゅっと握りしめた。
前回と同じ、練習場に立っていた。だが、的は一人隅っこの方で、基礎からの練習。石板を黙って見つめる。武器と言ったら……!! そこで、彼は違和感を持った。
「感謝? どういうことだろう?」
完全に止まってしまった。彼は今まで、そんな感謝をしたことがなかった。しばらく考えてみたが、うまくイメージできなかった。他の生徒たちが、次々と魔法を成功させ、強力な武器を出しているのを横目で見つつ、どうするか考えてみた。
「そうだ」
仕方ないので、そこの部分はなんとかごまかして、呪文を唱えてみることにした。
「スパスィ!」
思わず閉じていた目を、そうっと開けてみたが、手のひらには何もなかった。的はがっくり肩を落とした。人生そんなに甘くないのだ。空を見上げ、ふたつの月を仰ぎ見た。自分の存在する意味とは、それに対する感謝とは何なのか、的は思い悩む日々を送ることとなった。