act.7
闇夜。荒い呼吸音に喉が焼け付く。不規則に響く足音は二人分。けれどそれは誰のだ。自分のか。それとも自分の後ろを走るディアドラのものか。
分からない。けれどそれは分かる必要があることなのか。
「っ……」
ジンはもう何度目か分からない唾を飲み込んだ。息が、乱れる。それでも握りしめたディアドラの手を離さず、必死に夜の帳の降りた森を駆け抜けた。
月が投げかけるのは相変わらずの冷たい銀の光だ。けれど、木々に幾重も茂った葉に対してはあまりにも無力だった。夜に慣れた目で、かろうじて足元が見えるくらい。先は見えず、向かう先など知る由もない。この道が正しいのか。森から出ることが出来るのか。いずれは体力が尽きてしまうのではないか。何も見通せない暗闇は不安ばかりを生み出して、嫌な想像にますます息が上がる。
それでも、立ち止まることは許されなかった。
「きゃっ……!」
「ディアドラ殿!」
不意に掴んでいた手が離れる。短い悲鳴。それに慌ててジンが振り返ると、枝に足を取られたのか、ディアドラが地面にしゃがみこんでいる。
「ひっ――……!」
そうして肩で大きく息をしながら、ディアドラが引き攣った声を上げた。彼女たちの後ろ。逃げてきた闇夜を見つめて目を見開いて。
暗闇の中で数えきれないほど蠢く不穏な赤の瞳を見て。
「い、いやあああっ!?」
「っ、頭を下げろっ……!」
キシャアアアアアアア――!
蠢く暗闇が甲高い鳴き声を上げる。それに悲鳴を上げるディアドラへ叫んだジンは、走りながら咄嗟に腰にさしていた己の剣を抜いた。
「は……っ……!」
気合と共に鞘のまま横薙ぎに振るう。ブン、という鈍い音を立てて空気が揺れた。それと共に柄を握る手に伝わる軽い手応えと鼓膜を揺らす不満気な鳴き声。ばたばたと、当たった『何か』が地面の上でもがいている。
鼠のような胴体に鳥とは違う、薄い膜を張った骨ばった一対の羽。ジンの掌ほどもありそうな全身を真っ黒な毛で覆われ、血のごとく淀んだ赤の瞳だけが爛々と輝いている。
「魔物……っ……」
チラリと視界の片隅でそれを確認したジンは顔をしかめて呟く。低級の魔物だ。同じようなものを旅先で見たこともある。そうしてそれを追い払ったことも。
だが、この数は……。唇を噛み締めたジンは、再び鞘に入ったままのコールブラントを構えながら心の中で呻いた。見つめる先には視界いっぱいを覆い尽くす魔物の群れ。十や二十の騒ぎではない。とてもじゃないが、追い払うのは無理だ。ましてこのままディアドラと二人で逃げ切ることなど……そう思いながら後ろをそっと顧みて、ジンは覚悟を決める。
「……っ、先に逃げろ、ディアドラ殿」
柄を握り締める掌に力を込めながら静かに告げると、ディアドラが驚いたように小さな声を上げた。
「な、なんですって……っ」
「先に逃げるんだ。私がここで足止めする」
「そんな……! 無理に決まってるじゃない! こんなにたくさんいるのに……!」
無理。ほとんど悲鳴に近いディアドラの言葉は、それでも真実だった。ジンの瞳が曇る。握りしめたコールブラントが僅かに震える。
じわり、と胸の内に苦いものが広がった。必死に目を背けてきた事実が。構えた己の剣を決して鞘から抜くことは出来ない。そんな現実が。
「っ……それでも……」
それでもその事実に呑まれてしまうのが嫌で。また、何も出来ないままで終わるのが悔しくて。痛いくらいに柄を握りしめながら、無理矢理震えそうになる呼吸を整える。そうして言葉を続ける。
ディアドラに言い聞かせるように。
そうして何より、己自身を鼓舞するために。
それでも私は、と。
「無理をしてでもやらねばならんのだ……!」
そんな悲痛なジンの叫び声が合図だった。
一際耳障りな鳴き声を上げて魔物が殺到する。ディアドラの悲鳴が鳴き声にかき消される。甲高い音の洪水に頭が割れそうになる。けれどそう思ったのも一瞬だ。
睨みつける。集中する。たくさんの色で頭がいっぱいになる。蠢く黒。幾つも灯った赤。ただそれだけを追う。それだけに埋め尽くされていく。思考さえも塗りつぶされていく。
濁った黒に。
禍々しいほどの赤に。
そして、それらを裂いて閃く金――
「っ、え……!?」
飛び込んできた目の覚めるような色にジンが思わず声を上げた瞬間だ。
――ウォォォォォォン……!
「っ!?」
鳴き声の洪水の中にあってなお、ビリビリと鼓膜を震わせる音にジンは堪らず目を閉じた。空気が揺れる。息が詰まる。音ばかりの世界だ。ただただ低い音だけが、己が存在を誇るかのように鳴り響いている。
それは、唸り声だ。獣特有の獰猛さを孕んだ。
けれど、清冽な声だ。邪を決して寄せ付けぬ。
そうして、声の主は。
「な……!?」
目を開けたジンが言葉を失う中、魔物とジンの間に立ちはだかるようにして立っていた少女はくるりとジンの方を振り返った。
ふわり、と服の裾と金の髪を揺らして。
音の波に呑まれて気絶した魔物に足元を囲まれて。
「り、リュー……」
呆然とジンが名前を呟く。そうすればリューは僅かに小首を傾げた後、にげて、と小さく口を動かした。
「え……?」
「森は、危険。早く出なきゃいけない」
だからにげて。リューが言葉少なに繰り返すのは確かにもっともな理由だ。けれど混乱したジンの思考はそれどころではない。
今の声はなんだったのか。どうしてこんなところにリューがいるのか。魔物達に一体何をしたのか。考えれば考える程に分からなくて。
「ま、待ってくれ……! その前に説明を、」
「そんなの後回しに決まってるだろ!」
食い下がるジンの声を遮ったのは、ひどく苛々した声だった。驚いてジンが振り返れば、木陰からひどく険しい顔をした少年が姿を現す。
「そ、ソラ……」
「まったく……! なんでこんなところに寄り道してるんだ!」
「!? す、すまな、」
「謝るくらいなら体を動かして!」
一喝されて、ジンは慌ててコールブラントを戻した。その間にソラが素早く辺りを見回す。
先ほどとはうってかわって静かだ。風で葉が揺れる音がする。これが本来の森の静けさなんだろうか……いや、そうあって欲しい。座り込んでいるディアドラに手を貸しながら、幾分冷静さを取り戻したジンがそう思うものの、ソラの表情はけして芳しくならなかった。
「……リュー」
「あい」
「聞こえる?」
淡々としたソラの問いかけに、リューが小さく頷いて森の奥を指さす。
「あっち」
「数は?」
ソラの質問にリューがそっと目を閉じた。一つ。二つ。ジンが呼吸する間、風で揺れる葉の音しか聞こえない。それでもリューは何か確信を得たように再び目を開ける。
「……さっきより多い」
「……分かった」
ソラが暗い顔で頷いてくるりと踵を返す。説明も何もない。ただ、行くよ、とだけジン達に告げて、リューが指差したのとは正反対の方向に歩き始めた。
「ちょ、ちょっと……!」
慌ててジンはディアドラの手を引きながらソラの背を追いかけた。
「どういうことなのだ……?」
「どうもこうもないよ。向こうからさっきの魔物の群れが来てるんだ。なら逃げるしかないだろ」
「なに……?」
ソラのぶっきらぼうな声にジンは歩きながら後ろを振り返る。しかし、見えるのは静かな森の闇ばかりで、とてもあの群れが来るとは思えない……そこまで考えた所で、一番後ろを歩いていたリューと目があって、小首を傾げられる。
そういえば、彼女は先ほど何かを聴くような素振りをしていた。まさか、群れの音を聴いたのか? 僅かの間に驚きをもってジンが至った結論はひどく突拍子もないものだ。それでも確かに納得のいく結論でもある。
例えば、リューの耳が異常にいいのだとしたら。
その耳で自分たちの物音を聴きとって、駆けつけてくれたのだとしたら。
「…………」
なんとなく薄ら寒くなる想像。けれどそれをゆっくり吟味している暇など、ジンにはなかった。とにかく、と口早に告げたソラが足取りを速めたからだ。
「早くここから出るよ。村の人間がわざわざ僕の家のところまで来て待ってるんだ……あんたのとこのおじさんもね」
「……パパが?」
ソラの言葉を聞いたディアドラが、はっとしたように声を震わせた。それに何故かソラが軽く鼻を鳴らす。
「そうだよ……ほんと、こんな夜中に来るなんて失礼この上ないよね」
ひどく迷惑そうな物言いだ。まぁ確かに、夜になってから自分たちを探しにやらされたソラからすれば面倒事以外のなにものでもないのかもしれないが……それにしたって言いすぎなんじゃないか。
「その言い方はないだろう。トム殿はディアドラ殿を心配して来て下さったのだろう? 子を心配する気持ちは、親ならば誰しも持つものだ」
「…………」
顔をしかめてジンが諌める。それにしかし、何故か誰も返事をしなかった。
真っ暗闇の中、一行が進む度に踏みしめる地面の枝の音だけが響くだけ。
茂る葉の合間を縫って、地上に届く細い銀の月明かりが僅かに影るだけ。
そうして。
「……あんたは何も知らないからそんなことが言えるんだ」
苦々しげにソラがぽつりと呟いた。それは奇しくも魔物に襲われる直前にディアドラが漏らした言葉と同じで、ジンの胸の内に僅かな影がさす。
自分は何も知らないのだと、二人は言う。じゃあ一体、何を知らないんだ? 自問に応じるように脳裏に響いたのは、ディアドラが言いかけて、ジンが聞きそびれたあの言葉だ。
『あいつは――!』
「ソラ!」
そこで注意を促すかのような鋭いリューの声が響いた。反射的に立ち止まった一向に緊張が走る中、静寂を裂いて響き渡るのはあの音だ。
例の、魔物の甲高い耳障りな音。
魔物がいないとソラが判断した方向から。
「そんな……っ!?」
「……っ、リューがやる!」
驚きに声を震わせるソラの前に、叫んだリューが躍り出た。同時に、バキバキっという激しい音を立てて周囲の木々がいっぺんになぎ倒される。
「……!?」
息を呑んだジンは、体をすくませた。
再び現れた先ほどの魔物に。その数に。前の比じゃない。何倍……何十倍もの赤と黒が、視界を覆い尽くしている。
そうして……それとは根本的に違う、この何か別の刺すような気配、は……。嫌な予感にジンの思考が鈍る間に、すぅ、と息を大きく吸い込んだリューが口をいっぱいに開けて息を吐き出す。
――オォォォォォォン……!
大気を震わせる不思議な声。邪を祓う澄んだ衝撃。それを浴びながらも、今度はかろうじて目を開けていたジンには、確かにリューの声でバタバタと落ちていく魔物達の姿が見えて。
やったか!? と思う、その期待はしかし、次々と落ちていく魔物の後ろで揺らめくそれに容易く裏切られた。
影……巨大な影が渦巻いている。肌を刺す嫌な気配が勢いを増す。空気がひどく淀んだものに変わっていく。そんな!? とディアドラが絶望したように声を上げた。そしてそれはジンもだ。
「な……!?」
影、じゃない。渦巻くのはあの甲高い鳴き声を上げる魔物。そうして渦巻いたそれが、一瞬にして凝縮する。形を成す。大人の身の丈ほどもあろうかと思われるほどの大きさで。奇妙な獣の形に。
木の幹ほどもある太い尻尾。蜥蜴のような体躯。長く伸びた首。その先の顔には奇妙に捩れた二対の黒い角が生え、口からは黄ばんだ牙が飛び出している。
全身を覆うのは淀んだ黒の鱗。そうして鋭い瞳の色は血のごとき赤色で――
ガアァァァァァァァッ――……!
「っ、危ない……っ!」
その獣が、不意に狂ったような叫び声を上げて腕を振りかざした。向かう先は驚いたように目を丸くして立ち尽くすリューだ。咄嗟にジンが叫ぶ。それにリューが我に返ったように体を震わせる。
けれどどうすることもできないで――
ひゅっと音を立てて、無情にも振り下ろされた獣の腕。それに爆音と共に砂埃が舞い上がる。
「リュー……っ!」
淀んだ黒と共に砂埃がもうもうと舞いあがった。空気を裂いて幾つも飛んでくる砂の粒や木の枝。それに腕をかざして顔を守りながら、ジンは青ざめる。
「そんな……っ」
信じられない。そんな思いで緩く首を振りながら必死で砂埃へと目を凝らす。けれどジンには何も見えなかった……何一つ。ただの一つとして。それに目の前が真っ暗になっていく気がする。
体が、震えた。今見ている光景に。そうして脳裏をよぎるかつての光景に。
何もできなかった自分。
現実を見ようとしなかった日々。
壊れてしまった確かな絆。
それもこれも全部。
全部、自分が――
そう、思う。思ったジンが頭を項垂れ目をぎゅっと閉じかけた時だった。
りんっ、と一際高らかに。
響いた涼やかな鈴の音が彼女の思考を引き上げる。
「……え……?」
ジンは瞼をのろのろと上げた。なんだろう……今の音は。頭を動かしながらぼんやりと思っていると、頬を冷たい風が撫でる。撫でて、駆け抜けて行く。
淀んだ黒を、祓う風が。
そうして新たに黒を運ぶ風が。
獣の纏う淀んだそれとは違う、澄み渡ってなお深い。黒を、運んで……。
「――闇よ」
厳かで、けれどどこか軽やかな透明な声。それと共に音を立てて澄んだ闇が吹き抜ける。一気に視界が晴れる。
狼狽したように唸る、片腕を切り取られた獣が見えた。
その前で地面にへたり込み、驚いたように顔を上げるリューが見えた。
そうして、闇を従えて立ち尽くす影が一つ。
「――よく護った。幼き者よ……ここからは我が引き受けよう」
白銀の髪を闇になびかせ、不思議な響きをもって告げた彼がリューの方を振り返る。そうして垣間見えたその瞳に、ジンは呼ぶはずだった彼の名前を飲みこんだ。
それは……違ったからだ。姿も声も、どこかに彼らしさを残しているというのに。ただその一点だけ。
瞳だけ。
ジンの知る彼の……ソラの、瞳の色ではない。
蒼ではない、夜空を映しとったかのような闇色。
「……ヨル……」
悔しそうに瞳を細め、リューがぽつりと呟いた。
2013/06/16 改稿
2013/08/13 改稿




