act.5
大きな大きなお屋敷で、たくさんの使用人に囲まれて暮らすのが夢なの! そんな明るい声が昼の酒場に響いた。
夜は毎日のように村人達が集まり賑わう酒場だが、昼の間は滅多に客などやってこない。日が落ちれば閉じられる窓も今は開け放たれていて、とても酒場とは思えないような清々しい空気と陽光を運んでくる。10の丸テーブルと1つのテーブルにつき5個ずつ備え付けられた丸椅子。そのどれもが整然と並んでいて、店の奥の棚に並べられた酒瓶の数々がなければ、とても酒場とは思えないだろう。
「ふかふかのベッドに毎日世界中から届けられた食材を使った料理を食べるのよ」
そんな中、真っ白な麻布の山を抱えた少女が歌うように夢を口にする。まるで踊りでも踊っているかのような軽やかな足取りだ。くるくると彼女が動く度、背中まで届くくすんだ茶色の髪がゆらめき、スカートがふわりと空気をはらむ。
「それから勿論ドレスね! とーっても綺麗で可愛いドレスに頭にはティアラをつけるの! いいでしょう?」
「うむ」
そうだな、とそんな彼女の声に頷きながら、ジンはテーブルへ再び目を落とした。油や手垢でずいぶん薄汚れたそれを丁寧に拭くのがジンの昼間の仕事の一つだ。今日も今日とてその仕事。握ったふきんで心を込めて拭きあげていく。夜には汚れるけれど、不満はない。汚れてしまえばまた拭けばいいのだ。これこそまさに修行にふさわしい。
そんな、ジンがいかにもジンらしい思考でテーブルを拭いていこうとも、少女は気にしていないようだった。
ただ、店の真ん中で立ち止まる。
そうしてうっとりと瞳を閉じ、ため息をつくのだ。
「そう……だからね、そんな素敵な生活を手に入れるために、森に行かなくちゃいけないの」
「森?」
疑問に思ったジンの手が止まる。思わず呟いた途端、しーっと小声で諌められた。
「声が大きい!」
「む!? それはすまな、」
「あぁもうだからって頭を机にぶつけなくていいから目立つから!」
背筋を伸ばして直角に勢い良く曲げる。その先は今しがたジンが拭いていたばかりのテーブルだが、響くはずだったごつん、という痛ましげな音は慌てて差し出された麻のタオルの山で防がれた。
「むぐ」
取り込んだばかりの布特有の日差しの香りと仄かな暖かさ。それを顔いっぱいに感じながら頓狂な声を上げるジンの真上から、はぁ、と悩ましげな声が降ってくる。
「……やっぱりジンさんに訊くのは間違いかしら……」
「なんだ、私に質問か?」
ならば幾らでも答えるが。言いながらさっとジンが顔を上げた先には、タオルを差し出したばかりの少女が眉をひそめて立っていた。
少しばかり汚れた麻のブラウスと赤茶色のロングスカートに身を包んだ小柄な少女だ。背まで届く髪は花の刺繍の入った布でまとめられ、前髪から覗く瞳の色は髪と同じ色。
口元のほくろはこの店の主譲りで、勝気な瞳は母親譲り。そんなこの酒場の看板娘のディアドラは、ジンの言葉を聴いてここぞとばかりに瞳を光らせた。
「質問というか、お告げよ」
「お告げ?」
「そう! 森に行ってある植物の葉を取って来なさいって、占いをしたらお告げが出たの!」
占い……その言葉に、そういえば昨日ディアドラと数人の少女たちが酒場の隅で何やら話し込んでいたな、とジンは思わず頬を緩めた。
何も珍しいことではない。この村に来るまでにも、ジンは色々な場所へ旅してきたが、どこへ行っても少女たちが大人の目を盗んで様々な占いに一喜一憂している場面があった。勿論、信憑性はないし、ただの遊び程度のものだろう。それでも、今のディアドラのように、一途に信じてしまうところがジンにとってはなんだか微笑ましい。
「なんと。それならそうと早く言ってくればよかったのに」
ジンがこの酒場で働き始めて一ヶ月、何を隠そう、一番何かと世話を焼いてくれたのがディアドラなのだ。そのことを思い出して、ジンはうんうん、と一人腕を組み頷く。
「新参者の私をここまで鍛えあげてくれたのはディアドラ殿なのだからな」
今では懐かしい思い出だ。だがディアドラにとってはそうではないらしい。ほんの少し呆れたような目をされて、おまけに何故かため息をつかれてしまった。
「……そりゃあナイフでまな板を真っ二つにしようとしたり、床磨きながら壁に突進して穴開けようとしてたら誰でも止めるわよ……」
「うむ……今にして思えば私も未熟者だったものだ……」
「未熟というか不器用すぎるだけだと思うんだけどね……」
ディアドラがなんとも形容しがたい顔をする。けれど勿論ジンがそれに気付くはずもなく、とにかくだ! と明るい声でぐっと指を立ててみせる。
「まさに恩人とも呼ぶべきディアドラ殿の頼みとあらば、不肖ながらこのジンが全力で叶えさせてもらうぞ?」
「……うーん、なんかまた不安になってきたんだけど……」
まぁ、いいか。まだ少し微妙な顔のまま、それでもディアドラは話を続けることに決めたようだ。何故か警戒するようにさっと辺りを見回して、それから内緒話でもするかのようにジンの方へ身をかがめる。
「というか、まず約束して欲しいんだけど……このこと、誰にも言わないで欲しいの。あとジンさんは声が大きいんだから、もっと小さい声で喋ること」
「ふ、ふむ? それがディアドラ殿の頼みか?」
「馬鹿。そんな訳ないでしょ」
緊張した面持ちで言われたとおりにジンが声を落として尋ねるが、最早その程度で動じるディアドラではなかった。軽く鼻を鳴らして諌めただけ。そうしてジンの耳元に手を当てる。
「さっきも言ったように私の頼みはね……」
ひそひそと、声を潜めて。真面目な顔で。
本当に秘密にしたいのだと、言わんばかりの態度で。
「……一緒に森に行って……それで、……」
「任された!」
「だから声が大きいって言ってるでしょ!?」
ジンの一も二もない返事に、ディアドラが今度こそ、その頭を思いっきり叩いた。
***
「……と、言う訳なのだ」
そう説明し終えたジンは、わかってもらえただろうか、と背の低い彼女を見つめた。
森の、中だ。ちちち、とどこからともなく小鳥のさえずり声が聞こえてくる。頬を撫でて木々の葉を揺らしていく風は村のそれとは違ういきいきとした香りをはらんでいて、家の中にいるのが勿体無いくらいのいい天気だ。
だというのに、ジンの見つめる先、木造の色あせたドアを半分だけ開けて顔を覗かせるリューが出てくる気配は全くない。どころかきゅっとドアを握る手に力をこめて、じいっとジンを眺め……そうしてジンもまた、そんな彼女の品定めするかのような視線を、不快に思うでもなく受け止める。
「…………」
「…………」
お互い、何も言わない。そうしている間に風が吹いて木の葉を揺らした。さわさわと鼓膜を震わせる音。飛び立つ鳥の鳴き声。それらを聴いてなお間をおいてから、やっと思い出したようにリューが口を開く。
「…………そう」
「そうなのだ!」
消えてしまいそうなリューの小さな声に、すかさずジンが深く頷くと、ってそれだけ!? とジンのすぐ後ろから戸惑ったような声が上がった。
「む? それだけ、とは……」
どういうことなのだろう。疑問に素直に従って首を捻れば、声の主にこれ幸いとばかりに全力で引っ張られた。
何を隠そう、ディアドラだ。森へ行こうと言った張本人。だというのに、森に入ってからは急に静かになり、何故かジンの影に隠れて押し黙っていた彼女。
そのディアドラに、ジンはひそひそと……けれどものすごい勢いでまくしたてられる。
「いやいやいや、もっとあるはずでしょう!?
「もっと……?」
「なんで普通に会話してるのよ返事遅いでしょうがこの子! そこにつっこむべきでしょう!?」
「しかし返事はしてくれたぞ?」
「そういう問題じゃないの! っていうかなんかすっごく無遠慮に見られてるのよ!? その辺自覚ないの!?」
「! そ、そうだっ、」
「ていうかまず! この子誰!?」
もう耐え切れないと言わんばかりにディアドラが声を張り上げてものすごい勢いでリューを指さす。それにリューも驚いたのか瞳を瞬かせ……けれどやはり、すぐに返事をするはずもなく。眦を上げたディアドラに問い詰めるかのような視線を送られ気圧されたジンが代わりに口を開いていた。
「……か、彼女の名前はリュー、だが……」
「リュー。ふうん、そう……それで? なんでこんな森の中に住んでるわけ?」
「……?」
質問の意図が分からない、と言わんばかりにリューがこてんと小首をかしげる。だが、それはジンとて同じ気持ちだった。
「失礼ながらディアドラ殿、どうしてそのような質問を……? 別にどこに住もうとも問題ないと思うのだが……」
「馬鹿ね。大アリよ!」
ジンの殊勝な質問に、けれどディアドラは鼻を鳴らすばかりだ。
「森にはね、誰も住んでないはずなの。だって魔物も凶暴な動物も出るかもしれないのよ? そんな危険な場所に誰が好き好んで家を建てるっていうのかしら」
「だが現にリュー達は暮らしている訳だし……」
「だから怪しいのよ」
じろり、と。先ほどのリューの視線に負けないくらい不躾な視線をディアドラは注ぐ。
「危険な森の中に立派な家……そこにこんな小さな子が一人で住んでるなんて……怪しい……怪しすぎるわ……」
「一人じゃない」
そこでずっと黙っていたリューが静かに声を上げて、ディアドラが眉根を寄せた。ほとんど睨みつけるも同然の視線だ。けれどそんなディアドラにリューが臆することもなく。
「……リューは、一人じゃない」
リューが真っ直ぐ瞳を見つめて繰り返す。
「へ、え……? じゃあ誰と一緒に住んでるってのかしら」
「…………」
リューが唇をきゅっと引き結んだ。それに苛立つようにディアドラの眦が上がり……流石のジンも急いで助け舟を出す。
「リューはソラと暮らしているんだ」
「ソラ?」
新しい名前に不審の色を混じらせたディアドラに、安心させるようにジンは頷いた。
「あぁ……この森で倒れていたところを助けてくれたのがこの二人でな。いわば、命の恩人ともいうべき二人なのだ」
「命の恩人……」
「そもそもここに来たのも、森に入る前に二人に話を聞きたいと、」
「森は、だめ」
「……リュー?」
やけにきっぱりとした声だ。それにジンが言葉を止めてリューの方を見やれば、丸い瞳と目があった。やっぱり、何を考えているのかよく分からない金の瞳。それでも頭を小さく振りながら、リューは口を開く。
「だめ」
「駄目?」
「……森は、よくない、から……ジンは入っちゃだめ」
「よくない……? というのは……?」
ジンの純粋な疑問。それに何故か、リューが丸い瞳をほんの少し翳らせる。
「……それは、」
「――なに、してるの」
「!」
そこで不意に硬い声が響いた。聞き覚えのある声。けれどひどく人を寄せつけない、冷たい温度をはらんだ声だ。
誰だ? ただならぬものを感じ取って、ジンは僅かに身を固くする。その声を知っているはずなのに、だ。それでも何故か警戒を解くことが出来ないジンの耳に、小さなリューの声が届く。
「ソラ」
やっとどこかほっとしたような感情を滲ませて、リューが小さな足音を立ててジンの横をすり抜けていった。ふわりと淡い金髪を揺らした彼女の駆け寄る先。一拍遅れてジンが振り返ってみれば、なるほど、たしかに彼がいる。
薬草の入った籠を小脇に抱えて。
ソラが。
「……なんだ、驚いたぞ?」
ジンはほっと胸を撫で下ろしながらようやく全身の力を緩めた。一体今のはなんだったのか。胸の内だけで数刻前までの自分の考えの愚かさに笑ってしまった。
そうだ。ソラの声を聞き間違えるはずもない。命を救ってくれた恩人だというのに。そんな人をどうして疑う必要があるだろう。どうして疑ってしまったというのだろう。
――この、人のことを。
「……あんた……こんなとこに住んでたのね……」
そこで、ひどく震えた声がした。
「どうしたのだ?」
不思議に思って傍らのディアドラを見る。そうすれば張り詰めた顔をしている彼女に、ぐっと手首を掴まれて、ジンは目を丸くした。
ディアドラ殿? 思わずそう名前を呼んでしまう。が、呼ばれたディアドラの方は返事をする余裕さえないようだった。
ジンの方を見ることさえない。
ただただソラを見つめて……睨みつけて、唇を震わせる。
「なんで……なんでこんなとこにあんたが住んでるのよ!?」
ディアドラの怒りと恐怖に満ちた声。それにソラはすい、と目を細めた。
「……別に僕がどこに住もうと僕の勝手だろ」
「勝手なんかじゃないわ! 村のはずれって、聞いてたけど、まさかこんな近くに住んでるなんて……! あんたみたいな、」
そこまでディアドラが言いかけたところで、リューが威嚇するように小さく唸った。燃えるように輝く金の瞳は、それまでと比べ物にならないくらい鋭く、強い。
ディアドラがそれに怯えたように体を震わせた。
けれど次の瞬間には、怯えたことそのものを悔しむかのように顔を真っ赤にし、ジンの手首を握る拳に力を込める。
「っ……! 行くわよ……っ!」
「え!? あ、ちょっと……!」
たんっと、ディアドラが足音高く駆け出した。それに為す術もなくジンも引っ張られ。
ソラの横をすり抜けるその瞬間。憂いを帯びた彼の瞳が逸らされるのを、見た。
***
「っ、はぁ……っ、はぁっ……はぁ……っ!」
「でぃ、ディアドラ殿……? 大丈夫か……?」
「っ、大丈夫じゃないに決まってるでしょ……っ!」
ぜいぜい、と肩で息をしながらディアドラが呻いた。
「ていうか……っ! なんでジンさんはそんなに平気そうなのよ……っ!」
「う、うむ……? すまな、」
「あぁもう謝らなくていいから!」
乱暴に言い切ってディアドラが大きく息を吸って呼吸を整える。それを待ちながら、弱り切ったジンは辺りを見回した。
相変わらず森の中だ。けれどここはどこだろう。幾ら首を巡らせても見えるのは木々ばかりで、道らしい道がどこにもない。折しも、少しずつ陽が陰り始めていた。夜の森は決して一筋縄でいかない相手だ。酒場を出る前にコールブラントは持ってきたものの、抜けない剣がどこまで役に立つものか。
ジンの瞳が曇る。そろそろ帰った方がいいんじゃないか。そう思って口にすれば、ばっと顔を上げたディアドラが、冗談じゃない、と首を横に振った。
「折角ここまで来たのよ! 引き返すわけにはいかないわ!」
「だ、だが……リューも森は危険だと言っていただろう?」
「あいつの仲間の言うことなんて信じられるはずないでしょ!」
ディアドラの言葉はどこまでも厳しい。それに流石のジンも眉根を寄せた。
「どういうことなんだ、さっきから……リューは警告してくれたのだぞ? それにソラだって何もしてないはずだ。なのに、その言い方はあんまりだと思うが?」
「……ジンさんは何も知らないから、そんなことが言えるのよ」
「知らない?」
訝しむジンの言葉にディアドラが険しい顔をして瞳を細めた。ぎゅっとスカートの裾を握りこむ。怯えるように体を震わせる。
「あいつは――!」
風が、木の葉を揺らしていった。まるでディアドラの心の内を代弁するかのようだ。ひどく暗い葉音が世界に響く。
そうして闇が、蠢いた。
2013/06/16 改稿
2013/08/13 誤字脱字訂正




