北の王弟 シエル
「俺が欲しいのは奇跡じゃない――ただの、君だ」
病に伏せる兄に代わり、極寒の北の国を一人背負う王弟シエル。
豊穣の恩寵を持つがゆえに、神殿の奥深くに囚われる聖女リリア。
北の大地を襲った未曾有の冷害が、出会うはずのなかったふたりの運命を引き寄せた。
偽りの関係から始まった出会いは、やがて神の定めすら打ち破る、命がけの愛へと変わっていく。
北の国は、果てのない白に閉ざされていた。
空から舞い降りる雪は、白鳥の羽のごとく柔らかく、重なり合う城郭の屋根も、遠く連なる森の深緑も、息絶えた川の面も、すべてを等しく無垢な純白へと塗りこめていく。一見すれば息をのむほどに美しく、神聖な静寂に満ちた銀世界。
けれど、その白さはやさしい絹布のように大地を包み込みながら、土の下で息づくはずだった命の芽を、ひとつ残らず冷酷に凍てつかせていた。
風が吹けば、氷の刃で撫でられたように頬がうすく切れ、かじかんだ指先は次第に感覚を失っていく。夜が深まれば、極寒に耐えかねた大樹が悲鳴のような音を立てて爆ぜ、戸口まで雪に埋もれた小さな家屋では、人々が身を寄せ合いながら最後のかけらとなった薪を凝視していた。
吐き出す息は、ことごとく白い花となって空気にほどけて消える。民の命もまた、その儚い吐息と同じように小さく、脆かった。
王城の執務室で、王弟シエルは積み上げられた羊皮紙を前に、アイスブルーの瞳を深く細めていた。
窓から差し込む青白い雪明かりに透けるのは、やわらかな白銀の髪。背をわずかに机へ傾けた横顔には、目尻の少し下がったどこか甘さのある面差しが残る。だが、その瞳だけは冬の湖底のように冷たく澄み渡り、並ぶ数字のわずかな齟齬すら逃さない理知を宿していた。
数年前から、冬は少しずつその領土を広げていた。
春の訪れは遅れ、夏は瞬く間に去り、秋の実りは年を追うごとに痩せていく。
病床に伏した兄――国王ユリウスを支えると決めたあの日から、シエルは幾重もの海を渡り、異国の王や商人たちと対峙してきた。自らの足で稼いだ「信頼」を武器に輸入のパイプを繋ぎ、寒冷地用の作物へ切り替えさせ、食料倉庫を増設する。国を支える内政と外交の双輪を、彼はたった一人で回し続けてきたのだ。
――それでも。今年の冬は、彼が積み上げてきたあらゆる抗いを、嘲笑うかのように飲み込んでいった。
大地は鉄のごとく硬く凍てつき、秋に蒔いた種は芽吹くことなく暗闇のなかで朽ちた。川は底まで氷結して船を拒み、街の煙突から立ちのぼる煙は、日ごとに細く頼りなくなっていく。
「……輸入船の状況は」
「予定通りであれば、三日後に港へ入ります」
静まり返る執務室で、側仕えの臣下が絞り出すように答える。
「それで、何日持つ」
返ってくる言葉はなかった。落ちる羽虫の音すら聞こえそうな沈黙こそが、過酷な現実を物語っていた。
打てる手はすべて打った。街道を切り開き、外交のカードを切り尽くした。けれど、届くはずの食料の量よりも、飢えと寒さに身を寄せる民の数のほうが、遥かに多い。
『南部領地――配給量をさらに三割削減』
『東部領地――家畜の大量処分を開始』
『西部領地――来春の種籾を食料へ転用』
種籾に手を付けるということは、まだ見ぬ未来の命を切り崩して食べていることに他ならない。
最後の一信を静かに伏せ、シエルはゆっくりと瞼を閉じた。
(……くそ……っ)
膝の上の拳に力が入ると、皮手袋の隙間から青白い冷気が静かに立ちのぼった。
シエルの体には、王家に稀に顕現する強大な氷の魔力が宿っている。指先ひとつで万物を氷の結晶へと変え、刃となして敵を打ち払う苛烈な力。
だが――白銀の地獄と化したこの国において、氷を操る異能など何の意味もなさなかった。
どれほど強大な魔力を誇ろうとも、凍えた子を温める火にはなれず、死んだ大地にひと粒の麦を芽吹かせることもできない。国を守るはずの力が、いまや何よりも空しく、己の無力を突きつけてくる。
そのとき、重厚な扉が静かに開いた。侍従が緊張に満ちた面持ちで、一通の封書を捧げて入ってくる。
「……南の王国からの返書でございます」
シエルは指先の凍気をすっと消し去り、顔を上げた。
南の王国へ送った親書。そこには北の悲痛な現状と、どうしても断ち切れなかったたった一つの「祈り」を託していた。
――どうか、聖女を北の地へ派遣していただけないだろうか。
神に愛されし聖女の祈りを、この死に瀕した大地に届けてほしい。手腕を尽くし、現実の限界にぶつかった北の国が差し出した、最初で最後のすがりつくような望み。
銀のペーパーナイフで赤い封蝋を断ち、便箋を開く。
そこには南王直筆の署名と、北の窮状に対する苦渋、そしてシエルという男への深い敬意が記されていた。けれど、その後に続く一文の冷徹さが、鋭い氷柱のように胸へ突き刺さる。
『――聖女を、聖域の外へ出すことは絶対に叶わない』
明確な理由は記されていない。聖女は南の至宝であり、神話の時代より聖域に留め置くのが掟である、と。文末にはただ『北の苛酷なる運命を案じている。どうか理解されたい』と添えられているだけだった。
便箋を机へ戻す。
「……そうか」
怒りは湧かなかった。どこかで予感していた答えでもあったからだ。諸国を巡る中で、南の聖女がどれほど厳重に、外界から隔離されるように祀られているかを彼は知っている。
なぜそこまでして閉じ込めるのか。語られない境界の向こう側――神殿という深い秘匿の闇の中に、聖女はいる。
窓の外では、吹雪が夜の闇を純白に染め上げていた。
「……落ち込んでいる暇はないな」
ぽつりと呟いた声に、諦念はなかった。
一つの選択肢が潰えたなら、次の途を探すだけだ。それが、民の命を背負う者の矜持だった。
「殿下……」
「輸入ルートの再編成を急がせろ。途上で途絶えた船があれば、予備の陸路から引き入れる」
「は……っ!」
「備蓄の再配分も予定通り行う。最も被害の深刻な北部領地へ優先して回せ」
途切れることのない的確な指示。変わらない冷静さと、寸分の狂いもない判断力。何年もの間、こうしてこの国を崩壊の淵で繋ぎ止めてきたように。
臣下が去り、再び訪れた静寂のなかで、シエルは机の上の返書へもう一度だけ視線を落とした。
――聖女を、聖域の外へ出すことは絶対に叶わない。
不自然なまでに拒まれたその言葉が、なぜか氷の針のように、彼の胸の奥へ刺さって抜けない。
「……聖女、か」
その呟きは、打ちつける吹雪の響きにかき消され、誰の耳にも届かない。
窓の外、凍てつく闇のなかで、雪はなおも舞い続けていた。
はじめましてです。




