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臆病な新入生の歌声に恋をした

(……この状況は、一体どうすれば正解なんだ?)

 そこに立っていたのは、小柄な新入生の女の子だった。

 だけど、ドアを開けて俺と目が合った瞬間、彼女の身体が文字通りガタガタと震え出した。

 見た目が怖い、近寄りがたい。そんなことは昔から嫌というほど言われてきたし、自覚もある。だけど、ここまで、まるで凶悪犯にでも遭遇したかのように怯えられたのは初めてだった。

「あ、あの、にゅ、入会、し、したく、て……」

 消え入りそうな声で、今にも泣き出しそうな彼女。

 一歩近づいて安心させようとしたが、身体が完全に硬直した。今、俺が少しでも動いたら、あるいは声をかけただけで、この威圧感で本当に泣き出してしまうんじゃないか。

 動けない。どうすればいい。呼吸をすることすら躊躇われるほどのパニックの渦中、

「ちょっと怜司! 新入生を睨みつけないの!」

 奥からものすごい勢いで飛び出してきた彩花が、俺の背中をバシッと叩いた。

「もー、見た目が怖いんだから引っ込んでろっていつも言ってるでしょ!」

 俺を強引に部屋の隅へと追いやる。

(……助かった!)

 心底、救われた思いだった。あのまま彩花が来なかったら、俺は新入生を恐怖で気絶させていたかもしれない。「……別に睨んでいない」と小さくボソッと呟きながら、俺は楽譜の束に目を落とした。

 部屋の隅からそっと様子を窺う。

 彩花から手渡された入会届を書き終えた彼女は、小さく頭を下げて名乗った。

「――桜井みう、と言います」

 桜井。

 その名字が耳に飛び込んできた瞬間、俺の胸の奥がドクンと跳ねた。


 脳裏に、俺がこのサークルに入会した時の古い記憶が蘇る。

 当時の会長――桜井先輩。

 いつもお気に入りの扇子をパタパタと仰ぎながら部室を歩き回り、サークルの誰もが親しみを込めて「殿」と呼んでいた、とにかく気さくで器の大きい人だった。

 当時の俺は、今以上に筋金入りの陰キャだった。おまけにこの、ヤクザの若頭か何かと勘違いされそうな風貌だ。同期からも先輩からも近寄りがたい奴だと距離を置かれ、サークルの中で孤立しかけていた。

 あの人がいなければ、たぶん俺は途中で辞めていた。

 そんな俺の隣に、あの扇子をパッと広げながら真っ先に座ってきたのが、桜井先輩だった。

「おう怜司、いい声してんな! 次の曲、俺とハモろうぜ」

 強引に、でも誰よりも温かく、俺の凍りついた心を溶かしてサークルの輪の中に引っ張り上げてくれた恩人。


(……あぁ、そうか。だからか)

 目の前で、まだ緊張に肩を震わせている桜井みう。

 その姿に、かつて部室の隅で「自分はここにいていいのだろうか」と怯えていた、あの頃の自分の影が、信じられないくらい完璧に重なって見えた。

 先輩が俺に居場所をくれたように。

 俺は彼女を、かつての自分のようにしてあげられるだろうか。あの時の恩を、今度は会長として、この小さな後輩に返してあげられるだろうか。

「よろしくね、みうちゃん! 私、副会長の高橋彩花。あっちは会長の藤堂ね」

 彩花がいきなり下の名前で呼び、笑いかけている。

 出会って数分で「みうちゃん」か。本当に、この恐ろしいまでの距離の詰め方の早さは彩花らしいなと、少しだけ緊張が和らぐのを感じた。

 嫌われてもいい。怖がられてもいい。

 だけど、桜井先輩が俺を救ってくれたように、俺も絶対に、あの子を独りぼっちにはさせない。このサークルに入って良かったと、いつかあの綺麗な瞳で笑ってもらえる日まで、全力で守り通してみせる。

 不器用な会長の、静かな、だけど絶対に譲れない決意の始まりだった。


 最初の新歓であれだけ怯えさせてしまったから、もう二度とサークルに来なくなってしまうんじゃないかと、俺はヒヤヒヤして胃を痛めていた。桜井先輩と同じ名字を持つあの小さな女の子を、俺のこの凶悪な面構えのせいで、合唱の世界から追い出すようなことだけは絶対にしたくなかった。

 だが、そんな俺の心配は、良い意味で裏切られることになる。

 桜井は、それからの定期練習に一度も欠かすことなく部室へやってきた。

 会長として、そしてかつての自分と同じように殻に閉じこもってしまいそうな後輩を救いたいという「義務感」から、俺はなるべく彼女の様子を見るようにしていた。

 驚いたのは、彼女の驚異的なひたむきさだった。

 初心者の彼女にとって、うちのサークルの練習スピードは決して楽なものじゃなかったはずだ。それでも、桜井は必死に楽譜に食らいつき、周りの先輩たちの声についてこようとしていた。一回の練習で上手くいかなかった箇所があっても、次の練習の時には必ず、見えないところで猛練習してきたのだろう、完璧に直して歌えるようになっていた。

(がんばれ。お前のその努力は、ちゃんとみんなに見えてるぞ)

 部室の隅から見守りながら、俺は心の中で何度もエールを送っていた。

 そんなある日のこと。休憩時間に楽譜を整理している俺のところに、トコトコと小さな足音が近づいてきた。

「あの……藤堂先輩」

 ハッとして振り返ると、そこには桜井が立っていた。

 以前のように身体をガタガタと震わせることもなく、涙目になることもない。少しだけ緊張はしているようだが、真っ直ぐに俺の目を見て、自分から声をかけてきてくれたのだ。

「こ、ここの音程なんですけど、どうしても上手く取れなくて……少し、教えていただけませんか?」

「……あ、あぁ。もちろん、構わない」

 いつもの低い地声が、嬉しさのあまり少し裏返りそうになったのを必死に抑え込む。

 あの新歓のフリーズ状態から思えば、彼女が自分から俺に質問しに来てくれるなんて、信じられないほどの進歩だった。ただ、かつての自分に重ねて「助けてあげたい」という会長としての義務感が報われただけ。……そう、ただそれだけのはずだった。

 俺が不器用ながらも、ホワイトボードに音階を書きながら丁寧に教えると、桜井は「なるほど……!」と何度も深く頷いた。

 そして、その通りに綺麗な高音を響かせ、見事に音程を掴んでみせた。

「あ、できました……! ありがとうございます、藤堂先輩!」

 ふわりと、桜井が控えめに、でも心からの嬉しそうな笑顔を俺に向けた。

 夕暮れの音楽室の光を浴びて、小さく細い肩をすくめながら、はにかむように笑った彼女の顔。

 ドクン……!

 その瞬間、俺の胸の奥で、心臓が防戦一方の音を立てて激しく跳ね上がった。

(……なんだ、これ。どうした、俺)

 視界がいきなり熱を持ったようにぼやけ、顔が急激に熱くなっていくのが分かった。慌てて首の後ろをポリポリと掻きながら、「……おう、よく出来たな」と、引きつった鉄仮面を維持するのが精一杯だった。

 何かが、決定的に変わってしまった。

 これまでは、サークルの会長として、かつての自分を救うために「意識的に、義務として見ていた」存在だった。

 なのに、今のあの笑顔を見てからは違う。

 練習中、会員たちと談笑している時も、他のパートの声を一生懸命聴いている時も、気づけば俺の目は、磁石に吸い寄せられるようにして、部室のどこにいても彼女の姿を「勝手に、無意識に追いかけてしまう」存在へと、グラデーションのように塗り替えられていた。


「――見せてあげよう、この広い世界♫」

 かつて、この同じ音楽室で、当時の会長・桜井先輩が厳しい顔を作って歌ってみせた姿が、鮮烈に脳裏に蘇る。

 あの人は普段、お調子者の「殿」だったが、こと合唱に関しては一切の妥協を許さない男だった。その先輩が、俺を目の前にして朗々とテノールを響かせたとき、俺は内心「……魔王かよ」と震え上がったものだ。新しい世界どころか、人類が滅びゆく終末の世界でも見せられているような圧倒的な威圧感。

 歌い終えた先輩は、いつもの飄々とした笑顔に戻って、俺の肩をポンと叩いた。

「怜司。これがお前の、今の歌い方だからな」

 返す言葉がなかった。生真面目すぎて硬くなる表現は、歌にそのまま「威圧感」として出てしまうのだ。


 そして今。定期練習の締めくくりに歌う『ホール・ニュー・ワールド』。

 俺は絶対にそんな暴力的な歌にならないよう、細心の注意を払って声を乗せていた。

 新入生たちに、そして何より桜井みうに、俺は心地いい「新しい世界」を見せてあげられているだろうか。

 ……だが、恐怖を恐れるあまり、俺の歌は少し慎重になりすぎて、縮こまっていたのかもしれない。

「――おおぞら、目がくらむけれど♫」

 続くジャスミンのソロ。重なってきた彩花の歌声を聴いた瞬間、俺は心の中で「おい!」と突っ込んだ。

 事前の打ち合わせと全然違うじゃないか。

 あいつの歌声には、連れ出してもらえるお姫様に甘んじる気なんて微塵もなかった。むしろ「私一人でどこまでも飛んでいくから」と言わんばかりの、強烈な意思の乗ったハイトーン。

『――ビビってるのは、あんたの方じゃないの?』

 歌声を通して、彩花にそう煽られた気がした。

 続く輪唱カノン。俺は腹を括り、声を張って彩花のトーンを追いかける。

(おい、お前どこに行く気だよ!)

 歌声の対話の中で、彩花が不敵に答える。

『新世界だよ。昔の、大好きな先輩たちがいた頃のサークルじゃない。私たちが、あんたが新しく作る新世界!』

 二人のパートが入れ替わる。彩花がするりと俺の背後に回り込み、そのハモりで俺の背中を力強く押し上げてくれた。

『あんたならできるよ。だって、先輩たちが選んで、このサークルを託した人なんだから――』

 二人の声が完璧な和音となって音楽室を満たし、ラストの合唱へと繋がっていく。

 曲が終わり、美しい余韻が静かに消えていく中、部員たちから湧き上がるような拍手が送られた。

 俺は小さく息を吐きながら、隣の相棒に視線を向け、心の中でそっと呟いた。

(……ありがとう、彩花)

 あいつのおかげで、俺はまた一つ、会長としての殻を破らせてもらった気がする。

 ホッとして、一番に見せたかった相手――桜井の方へと目を向けた。

 曲の途中までは、彼女が満面の笑顔で、顔を輝かせながら聴いてくれていたのを確かにこの目で見ていた。今も、誰よりも一生懸命に拍手喝采をしてくれている。

 なのに。

 拍手をしながら、彼女はなぜか、なんだかしょんぼりと肩を落として、寂しそうな目をしていた。

(……どうしたのだろう?)

 俺の歌のどこかが、やっぱり少し怖かったのだろうか――。

 新世界への一歩を踏み出した高揚感の裏で、俺の心は、彼女のその小さなしょんぼりした横顔に、早くも引きずられ始めていた。


 サークルの飲み会。レストランはサークル全体の熱気で早くも出来上がっていた。

 俺はワイングラスを片手に、各テーブルを回っていた。新入生が孤立していないか、お酒の強要はないか、サークル長としての『巡回』だ。……ああ、そうだ。あくまで会長としての仕事だ。

 だけど、あちこちの席で語り掛け、グラスを傾けながらも、俺の視線は無意識にある一点を追いかけていた。

 壁際の席にいる、桜井みう。

 今日の練習の最後、あんなにしょんぼりした顔をしていたから、やっぱり来なくなってしまうんじゃないかと、俺は今日の飲み会が始まるまでずっと胃を痛めて心配していたのだ。

 それが今では、同じ1年生の席で楽しそうにワイワイやっている。ノンアルコールのグラスを両手で持って、美味しそうにピザを頬張る姿を見て、心底ホッとした。よかった、本当に……。

 そう思った次の瞬間だった。

 桜井の隣に座っている同じ1年生の男子部員が、彼女に親しげに話しかけた。桜井がそれに応えて、顔を少し赤くしながら、すごく ―― 本当に楽しそうな笑顔を彼に向けた。

 ドクン、と胸の奥が妙な音を立てた。

 胃のあたりが、ギリ、と焼けるように熱くなる。なんだ、この不快なモヤモヤは。なぜか無性にムッとしている自分がいた。かつての自分に重ねて見守るなんて、そんな綺麗事じゃ片付かない、どす黒い感情が頭をもたげる。

 気づけば、俺の足はまっすぐに彼女のテーブルへと向かっていた。

(……違う。これは巡回だ。偏りなく全員に声をかける義務が俺にはある。別に、同級生の男と楽しそうに話しているところに割って入ろうとしたわけじゃない)

 心の中で必死に言い訳を並べ立てながら、彼女の隣の空席に腰を下ろす。

「――桜井。楽しんでるか?」

「あ、藤堂先輩! はい、すごく楽しいです!」

 俺の姿を見て、桜井はいつも通りの、少し緊張の混じった、でも綺麗な瞳で俺を見上げてくれた。

 お前がこういう所に来たことないって言んでたから気になってたんだ、とか、大学の授業はどうだ、とか、自分でも驚くくらい言葉が次々と出てきた。普段の練習中よりも距離が近くて、彼女の甘い香りがして、俺の心臓はさっきのモヤモヤとは違う意味でバクバクと暴れ始める。

 もっと、話していたい。もっと、お前の声を聴いていたい。

 そう期待した、その時だった。

「……あ、あの、藤堂先輩……?」

「……ん?」

 ふと気がつくと、会話が途切れていた。

 俺が何か気の利いた冗談でも言えれば良かったのだが、あいにくそんなスキルは持ち合わせていない。じっと桜井の顔を見つめてしまったせいで、彼女は顔を真っ赤にして俯き、居心地悪そうに手元のアイスティーをストローでかき混ぜている。

(……しまった。また怖がらせているのか? それとも、俺と話すのが退屈なのか?)

 急激に焦りが襲ってくる。

 沈黙の時間が、何倍にも長く感じられた。さっきまでの温かい空気はどこへやら、今度はチクチクとした居心地の悪さが席を支配していく。

「よし、じゃあ……俺はあっちの1年生の席にも顔を出してくる」

 限界を迎えた俺は、逃げるように席を立ち上がった。

「あ……」と、桜井が小さな声を漏らした気がしたけれど、振り返る勇気はなかった。

 何が『巡回』だ。

 男と話している彼女に嫉妬して、強引に割り込んでおいて、会話が持たなくなったら勝手に気まずくなって逃げ出すなんて。

(……俺、めちゃくちゃカッコ悪いな)

 グラスの氷をカランと鳴らしながら、遠くの席でまた小さく俯いてしまった彼女の姿を見つめる。

 みんなの会長として振る舞いながらも、俺の心は、ただ一人の女の子の笑顔に、みっともないくらい振り回されていた。


「――ねえ、怜司」

 不意に背後から声をかけられ、俺はびくりと肩を揺らした。

 振り返ると、いつの間にか横に移動してきていた彩花が、悪戯っぽく目を細めて俺を見上げていた。

「みうちゃんのことなんだけどさ」

「っ……!」

 心臓が跳ねた。

 さっきまで彼女の席で醜態を晒していたのを見られていたのだろうか。平静を装いながら、「……桜井がどうした」と、努めて低い声で返す。

「今年の新入生の中で、一番……」

 彩花が言葉を区切り、ニヤニヤと俺の顔を覗き込んでくる。

 まさか、こいつ――。

(可愛い、とか続ける気じゃないだろうな……!?)

 俺の内心の動揺を察しているかのような、たちの悪い笑み。

 俺の焦りを楽しんだ後、彩花はフッといつもの真面目な先輩の顔に戻って、言葉を続けた。

「――伸びるよね、あの子」

「……、……ああ。そっちか」

 小さく息を吐き出し、胸をなでおろす。心底ホッとした。

「何よ、そっちかって。……でも、怜司もそう思うでしょ?」

「……ああ。本当に、そう思う」

 それだけは確信だった。

 桜井はいつも、誰よりも早く部室に来て楽譜を読み込んでいる。お世辞にも器用なタイプじゃないし、声だってまだ小さくて震えているけれど、ひたむきに音楽と向き合おうとしている。あの真っ直ぐな姿勢を見ていると、絶対に上手くなってほしい、報われてほしいと、心の底から応援したくなる。

けれど、同時に歯痒さもあった。

「ただ……あの子、まだ自分の殻を破れてないんだよな」

「うん、そうだね」

「何かに、怯えてるみたいに見える。……俺のせい、かもしれないけど」

 俺が言うと、彩花は呆れたように小さく首を振った。

「最初の新歓のときはそうだったかもしれないけど、今は違うよ。みうちゃんはね、自分自身に自信がないの。傷つくのが怖くて、一歩踏出すのを怖がってるだけ」

 彩花の言葉を聴きながら、遠くの席で、先輩たちに勧められたデザートを遠慮がちに受け取っている桜井を見つめる。

 いつもビクビクして、周りの顔色を窺って、自分の声を出すのを躊躇っている小さな背中。

 いつか、気づいてくれればいいと思う。

 このサークルも、大学も、世界はそんなにあいつが怯えるほど怖い場所じゃないんだって。お前のありのままの声を受け入れてくれる仲間が、こんなにたくさんいるんだってことに。

(もし、あの子が本当の自分の声を響かせることができたら……きっと、すごく綺麗な歌になるはずだ)

そう、願わずにはいられない。

「――で、それを教えてあげられるの、アンタだよ。強面の会長さん?」

「……なっ」

 彩花が俺の肩を肘で小突いて、またニカッと笑った。

「あの子に『世界は怖くないよ』って教えてあげるの。サークルの中で一番怖がられてる会長が優しく手を引いてあげたら、みうちゃん、一発で世界が変わると思わない?」

「お前……何を勝手なことを」

 すべてを見透かしたような相棒の言葉に反論しようとしたけれど、彩花は「はいはい、巡回お疲れ様!」と言って、軽快な足取りで別の席へと去っていった。

 残された俺は、手元のグラスを見つめ、それからもう一度、桜井の方を見た。

 世界は怖くないと、教えてあげる。

 俺みたいな、あの子を一番最初に恐怖のどん底に突き落とした男に、そんな大役ができるのだろうか。


 2次会は、駅前のカラオケボックスに流れ込んだ。

 部屋に入るなり、みんなのテンションは最高潮。俺がリモコンを持って選曲を送信した瞬間、モニターに映し出されたタイトルを見て、部屋中に爆笑が巻き起こった。

「ぶふっ! 嘘でしょ」

「会長、ギャップ萌え狙いですか!?」

 画面に躍り出た文字は――『ポニーテールとシュシュ』。

 あの国民的女性アイドルの、超有名夏ソングだ。

(……よし、大ウケした。ドン引きされなくて本当に良かった……)

 マイクを握り締めながら、俺は内心で安堵の息を吐いていた。

 昔、まだ俺がこのサークルのただの一年生だった頃、あの桜井先輩にカラオケの席で注意されたことがある。

「怜司、お前なぁ。自分の好きな洋楽とかマニアックな曲ばかり悦に入って歌ってんじゃねえ。周りの奴らがどうすれば一番盛り上がるか、場を楽しませる歌を覚えろ」

 その教えを、俺は忠実に守っている。サークルの新入生歓迎のために、自宅の部屋で一人、誰も見ていないところでこっそりこの曲を練習し、仕込んでおいたのだ。すべては、先輩から受け継いだ「会長としての役割」を果たすため。

 ……その、純粋な目的だけ、だったはずなのに。

 イントロが終わり、歌い出した瞬間に、俺は己の選択を激しく後悔することになった。

 歌いながらふと部屋の隅へと視線を向けたとき、俺の思考は完全にフリーズした。

 ――桜井が、そこにいた。

 居酒屋が暑かったからだろうか、彼女は飲み会の途中で髪を結び直していた。

 頭の後ろで揺れる、すっきりとした――ポニーテール。

(ま、待て。違う、本当に違うんだ……!)

 俺は別に、彼女がその髪型をしているからこの曲を選んだわけじゃない。本当に偶然なんだ。だけど、そう自覚した瞬間から、これまでただの盛り上げソングとしてしか捉えていなかった歌詞の意味が、急激に熱を持って脳内に直接流れ込んできた。

 この曲は――男の片思いの歌だった。

(やめろ。そんなつもりじゃ……頼むから歌詞、進まないでくれ……っ!)

 俺の焦りなど露知らず、画面の文字は非情にもサビのフレーズをなぞっていく。

 必死に視線を泳がせようとした。だけど、磁石に引き寄せられるように、どうしても俺の目は、部屋の隅で小さくなっている彼女の姿を捉えてしまう。

「――ポニーテール、切なくなる片思い、目と目合えば今はただの友達♫」

 最悪のタイミングだった。

 言葉と、メロディと、俺の視線が、完璧に一致して桜井に向かって放たれる。

 その瞬間、桜井がハッと顔を上げ、俺と真っ直ぐに目が合った。

(っ――――!!!)

 一瞬。ほんの一瞬だった。

 だけど、確実に目が合ってしまった。桜井はまるで、雷にでも打たれたかのように顔を真っ赤にして、慌てて手元のウーロン茶のグラスへと視線を逸らした。

 心臓が、本当に死ぬかと思うくらい激しく跳ね上がった。

 どうしよう。今の、「俺があいつに片思いしてて、髪型に合わせてこの曲を歌った」っていう、最高に気持ち悪いストーカーまがいのメッセージだと誤解されたんじゃないか……!?

 頭の中が真っ白になり、裏声が裏返りそうになるのを必死に喉で抑え込む。

 手瞬に汗がにじみ、マイクが滑りそうだ。

「――恋の尻尾は捕まえられない、触れたら、消えてく、幻♫」

 続く歌詞が、パニックを起こしている俺の胸にグサグサと突き刺さる。

 もし今の視線で、彼女に気味悪がられてしまったら。せっかく少しずつ縮まってきた彼女との距離が、本当に幻みたいに消えてしまうかもしれない。

 部屋中が手拍子で盛り上がる中、俺一人だけが、額に変な汗を大量にかきながら、限界寸前の心臓のバクバクと戦い続けていた。


「次はみうちゃんの番!」

 同期の連中の容赦ない声が響き、案の定、桜井は「ええっ!?」と完全にパニックになってマイクを握らされていた。

 桜井が震える手でリモコンを操作し、曲が決定する。

 画面に表示されたタイトルを見て、俺は思わず目を見張った。

『サインはB』

 アニメの劇中歌、それも本物のアイドルソングだ。

 もしかして、初心者ゆえの怖いもの知らずで選んでしまったのだろうか。

 だとしたら、完全にトラップに飛び込んだようなものだ。うちのサークルは合唱団だが、中身はただの歌好きの集まり。アニソンやゲーソンなんてお手の物だ。

 案の定、イントロの1秒目から、部屋のボルテージが爆発した。

「「「うりゃおい! うりゃおい! うりゃおい! うりゃおい!」」」

 周りの奴らが激しくタンバリンを打ち鳴らし、完璧なコールを入れ始める。桜井は「な、なんでぇぇぇ!?」と顔を真っ青にして絶望していた。

 だが、問題はそこじゃない。この曲はとにかくアップテンポだ。初心者がこのテンポについていけず、途中で心が折れて歌えなくなってしまうんじゃないかと心配がよぎる。

 だが、彼女は逃げなかった。

「――緊張なんかしてる場合じゃない、

   一分一秒無駄になんてできない♫」

 マイクを両手でぎゅっと握りしめ、必死に画面に食らいつく桜井。

 たどたどしいけれど、持ち前のひたむきさで、一音も遅れまいと一生懸命に声を紡いでいく。その姿を見ていたら、胸の奥が熱くなった。これは、応援したくなるに決まっている。

 気づけば、俺も周りの連中と一緒に、大きく手拍子を叩いてエールを送っていた。

 そして、曲が2番に入ったとき、俺は言葉を失った。

(……あ、直してやがる)

 1番でテンポが遅れて少しズレてしまったフレーズや、高音が届ききらなかった部分。彼女は2番の同じメロディが来た瞬間、見事にそこを修正して歌いこなしてみせたのだ。

 この一瞬のぶっつけ本番の中で。

 脳裏に、上手くいかなかった譜面を何度も何度も見直していた彼女の姿が浮かぶ。

 これはただの「まぐれ」じゃない。彼女がこれまで影で地道に積み重ねてきた努力の成果が、花開いているんだ。

 みんなの熱気と、彼女自身の努力が、桜井の背中を完全に押し上げた。

 曲の終盤、彼女の歌声が、明らかに変わった。

「――見てよ、見てよ、何か始まる、君との物語が、

   嗚呼なんて素晴らしい景色だ♫」

 ハッとして、息を呑む。

 いつも俺の前でビクビクと縮こまっていた桜井の口から、今まで聴いたこともないような、真っ直ぐで、どこまでも伸びやかな高音こえが飛び出してきた。

(……すごいな、お前)

 彩花が言っていた通りだ。お前は、本当に伸びる。

 音楽を、歌うことを心から楽しんでいる、最高の笑顔。あの子の殻を破ってやりたい、世界は怖くないと教えてやりたいと願っていたけれど、彼女は今、自分の力でその殻を内側からぶち破ってみせたんだ。本当に、目が離せないくらいに綺麗だった。

 ジャカジャン!と曲が終わった瞬間、俺は我を忘れて、誰よりも力強く、思いっきりの拍手を送っていた。

 部屋中が大歓声に包まれる中、全力疾走した後のように肩を上下させている桜井が、みんなに褒められて、本当に嬉しそうな、晴れやかな笑顔を咲かせている。

 その弾けるような笑顔を見た瞬間。

 愛おしさと、本当によく頑張ったなという愛着が、胸の奥から一溢れ出して――。

(……あ、頭、撫でてやりたいな)

 無意識に、自分の右手が数センチ、彼女の方へと動きかけていた。

 よく頑張ったな、お前の歌、本当に凄かったぞって、優しく撫でて褒めてやりたい。そんな強い衝動が走って、俺は慌てて自分の右手をポケットに突っ込んだ。

 危ない。さすがにそれは、まだ会長の領分を越えすぎている。

 だけど、はにかみながら俺の拍手に応えてくれる彼女を見つめながら、俺は確信していた。

 桜井先輩、俺、あの子の引き揚げ方を間違えなかった。いや、これからもっと、特別な意味であの子を支えていきたいんだ。


 2次会のカラオケが終わり、俺たちは駅前のファミレスへとなだれ込んでいた。

 冷めたウーロン茶をすすりながら、あとは終電までぬるい時間を過ごせば、今日という長い一日は終わりだ、そう安心していた。

 ところが。

 いつもなら泥酔して引きずってでも連れて帰りゃなきゃいけないような連中が、やけにあっさりと席を立っている。何が起きた? このサークルがこんなに「聞き分けが良い」集団だったはずがない。

 そしてスマホが震え続けている。一度席を外した。

 画面を確認して、俺は凍りついた。

『チキンしたらみんなで吊し上げるからな』

『男のけじめつけろよ』

『俺んちで4次会やってる。ダメだったら来ていいぞw』

 ……何の話だ?

 そして、彩花からの最後の一通。

『みうちゃんを泣かせたら、絶対に許さないからな』

(……やられた!!)

 俺が桜井に惹かれていることを、あいつらは全員共有し、そしてあえて二人きりになるように舞台を整えたのだ。俺がこのチャンスを逃げ出したら、それこそ男の恥だと、背中を押しつつ脅しをかけてきている。

「クソッ……!」

 あわてて席へと戻った。

 予想通り、テーブルには桜井みうが一人、ポツンと取り残されていた。

「あ……藤堂先輩……?」

 俺が息を切らして駆け寄ると、彼女はおろおろと、今にも泣き出しそうな瞳で俺を見上げてくる。

 ドリンクバーのグラスを両手で包み込み、みんなが消えた理由も分からず、ただ俺を待っていたのか。その健気で不安げな姿を見ていたら、逃げ場がなくなった気がした。

 いや。実際にはいくらでも逃げられる。今ならまだ適当に話して、終電だからと言って、送って帰って、それで終わりだ。

 そうするべきだ。

 そう思う。

 思うのに、なぜか席に着いたまま動けない。

 二人だけ。

 ファミレスの喧騒が妙に遠かった。


 桜井の家へと向かう、街灯だけが照らす静かな夜道。

 横を歩く桜井との間には、会話らしい会話がまるでなかった。ただ、二人の靴音が不自然に重なって響くだけ。

(……情けない。本当に、情けなさすぎるだろ、俺は)

 何か気の利いた話題を……と考えれば考えるほど、喉がぎゅっと締まって言葉が出てこない。

 サークルの「会長」なんて呼ばれて、みんなを引っ張っているような気になって調子に乗っていた。だが、その実態はどうだ。

 新歓では新入生を恐怖で硬直させ、飲み会での「巡回」なんてのはただの嘘っぱち。本当は、みんなの輪に上手く入れなくてウロウロしていただけだ。混ぜてもらったあげくに、自分から気まずくなって逃げ出すような、器の小さい、ただの情けない男。それが藤堂怜司という人間の正体だ。

 彼女を家まで送り届けたら、今日のこの奇妙な夜は終わりだ。

 だが、歩調を合わせて歩きながら、胸の奥のざわつきがどうしても収まらない。

 いくら恋愛に鈍感な俺にだって、さすがに分かっていた。

(桜井は……俺に、好意を抱いてくれている……?)

 いや、自惚れるな。今日のみんなのお祭り騒ぎの空気に、ただ当てられただけかもしれない。勘違いして踏み込んで、またあの子に怯えられたら、今度こそ取り返しがつかない。

 その一方で、俺の頭の中に、今まで飼ったこともないような「野獣」が鎌首をもたげた。

 ――本当に、このまま大人しく帰してしまっていいのか?

 ――こんな好機、二度とないぞ。

 ――このまま連れて帰って、そして…。

(――っ、何を考えてるんだ、俺は……っ!!!)

 自分の脳裏をよぎった最悪な、最低な思考に、心底ゾッとして血の気が引いた。

 いつからそんな卑劣な男になった。彼女のひたむきさに惹かれ、世界は怖くないって教えてやりたいと思ったはずなのに、なんて浅ましいことを考えているんだ。

 やっぱり、俺みたいな男はダメだ。今日はこのまま、何事もなく別れるべきだ。そうして一人になって、冷たい水でも浴びて、この狂った頭を冷やそう。

「じゃあ、桜井。ここで――」

 別れの言葉を口にしようと足を止めた、その瞬間だった。

 ぎゅ、と、俺のコートの袖が、小さな手に掴まれた。

「……帰りたくないです」

 蚊の鳴くような、でも、静かな夜の空気の中に、はっきりと、真っ直ぐに、その言葉が落ちた。

「え――」

 ドゴォン!!! と、脳内で何かが大爆発を起こした。

 嘘だろ。お前、今、なんて言った……?

 脳みそが沸騰して、一瞬で思考回路が消し飛んだ。耳の奥で、心臓が警報のように早鐘を打っている。掴まれた袖の、彼女の指先が触れている部分から、全身に電気のような熱が駆け巡る。

(帰りたくない、って……おい、桜井……っ!!)

 俺は聖人君子なんかじゃない。さっきまで、お前に対して最低な妄想を膨らしませていた、見た目通りの獰猛な男なんだぞ。そんな顔で、そんなセリフを、俺にぶつけて無事でいられると思っているのか。

 顔を真っ赤にして、涙目で俺の袖を握りしめている彼女を前に、俺の理性の防波堤は、今にも決壊しようとしていた。


 まずは彼女を落ち着かせよう。……いや、違う。落ち着かなきゃいけないのは、さっきから脳みそが沸騰しっぱなしの俺の方だ。あの最低な妄想を抱いた野獣が、今にも檻を壊して飛び出してきそうだった。

「……少し、あそこで休もう」

 俺は掠れた声をなんとか絞り出し、小さな公園へと彼女を誘導した。

 深夜の公園。ぽつんと佇む街灯と、並んだ二つのベンチ。

 脳内の冷静な部分が『おいおい、恋愛ドラマのクライマックスじゃあるまいし、舞台装置を整えてどうするんだ』と突っ込みを入れてきたが、もう手遅れだ。

 二人で並んでベンチに腰掛ける。少しだけ空けたはずの距離が、やけに近く感じられて落ち着かない。彼女のポニーテールが、夜風に揺れてかすかに甘い香りを運んでくる。

 沈黙を破ったのは、桜井だった。

「……私、藤堂先輩のことが、好きです……っ!」

 心臓が、今日一番の衝撃でドクンと跳ね上がった。

 それは、あの新歓の日に俺の前でガタガタと震えていた、あの臆病な彼女が、一生分の勇気を振り絞って、身体を震わせながら絞り出した真っ直ぐな告白だった。

(……あぁ、クソ。俺は何をやっているんだ)

 嬉しさと同時に、猛烈な自己嫌悪が襲ってきた。

 世界は怖くないって教えてやりたい、かつての自分を救ってくれた桜井先輩のように、今度は俺がこの子の居場所になってやりたい――そう偉そうに心の中で誓っていたはずなのに。結局、ギリギリまで自分の保身や醜い本能と格闘して、こんな大勝負をあの子に先にさせてしまった。

 一度口から出た言葉は、もう取り戻せない。だけど、格好悪い男のままで終わるわけにはいかなかった。

 俺は意を決して、横を向いた。

「……桜井。先に言わせてしまって、本当にすまない。情けない先輩で格好つかないけど……それでも、俺から言わせてほしい」

 緊張で喉がカラカラだった。でも、真っ直ぐに彼女の綺麗な瞳を見つめる。

「俺も、お前が好きだ。サークルの後輩としてじゃなくて、一人の女の子として……ずっと、勝手にお前を目で追いかけてた。だから、俺と、付き合ってくれませんか。むしろ、こちらからお願いしたい」

 全部、言った。嘘偽りのない、俺の本音だ。

 これでようやく、お互いの気持ちが通じ合って、少女漫画のように甘い時間が――。

「――う、うぅ……ひっく……あ、うああん……!」

「……えっ!?」

 次の瞬間、桜井がいきなり顔を手で覆い、ものすごい勢いでギャン泣きを始めた。

 激しいしゃくり上げと、静かな公園に響き渡る涙の声。

 その想定外すぎる大号泣に、俺の頭は完全にフリーズした。

(な、なんでだ!? なんで泣くんだ……!?)

 脳内パニックメーターが、一瞬でレッドゾーンを叩き出す。

 付き合ってくれと言っただけなのに。もしかして、俺の言い方が強面すぎて脅迫みたいに聞こえたのか? それとも、彼女の「好き」というのはただの先輩としての尊敬の意味で、俺が勘違いして告白したからドン引きされたのか?

「さ、桜井!? 悪かった、俺、何か変なこと言ったか……っ!?」

 いきなり嫌われた? 俺は今、告白した瞬間にフラれたのか……!?

 さっきまで「男のけじめを」なんて息巻いていた理性の防波堤はどこへやら、俺は深夜の公園で、ただただオロオロと取り乱すだけの、哀れな巨大生物と化していた。


「……あの、さ、桜井」

 ベンチの横でようやく泣き止み、鼻を赤くして涙を拭っている彼女に、俺は意を決して、ずっと胸に引っかかっていたことを切り出した。

「これからは、その……みう、って呼んでもいいか?」

「え……?」

 みうは、まだ涙の残る睫毛を揺らしながら、不思議そうに小首を傾げた。

「……あの、他の先輩や同期からは、最初から『みうちゃん』って呼ばれてたので、藤堂先輩にだけ頑なに名字で呼ばれるの、実はちょっとドキドキしてたんです」

 みうが少し照れくさそうに言う。

 俺はあわてて視線を逸らし、首の後ろをボリボリと掻いた。

 そういえば、サークルの中で彼女を頑なに「桜井」と名字で呼び続けていたのは、俺くらいのものだった。みんなが最初から「みうちゃん」と親しげに呼ぶ中、俺は女の子を下の名前で呼ぶのがどうしても恥ずかしくて、どうしてもできなかったのだ。

「みんな、桜井は、どうしてもあの人のイメージが強かったんだろうな」

「あの人……ですか?」

「ああ。俺が一年生だった頃の会長……桜井先輩だよ」

 夜風が二人の間を通り抜けていく。俺は、ずっと自分の中にあった、サークルと、そして彼女への想いの原点を語り出した。

「いつも扇子をパタパタ仰いでて、不真面目そうに見えるんだけど、合唱のことになると魔王みたいに凄みがあってさ。孤立しかけてた俺を、強引に輪の中に引っ張り上げてくれた恩人なんだ。お前が新歓に来たとき……俺はあの先輩みたいに、お前の居場所を作ってやれるだろうかって、ずっと思ってた」

 俺がぽつりぽつりと不器用に語る言葉を、みうは静かに、でも真剣な目で聴いてくれていた。

 ふと、みうが何かを思い出したようにポンと手を叩いた。

「あ、もしかして……彩花先輩の、彼氏さん、って……」

「……あ。ああ、その通りだ。よく知ってるな」

 俺は苦笑しながら頷いた。

「あの女傑をつかまえて、今でも尻に敷かれずに仲良くやってるってだけでも、あの先輩の凄さがわかるだろ」

「へぇ……。いつか、お会いしてみたいです」

 みうが、夜空を見上げながら、憧れるように小さく呟いた。

 ドクン、と胸の奥がまた妙な音を立てた。

 ……なんだ、これ。

 尊敬する大先輩で、しかも彩花の彼氏だ。それなのに、みうの口から他の男の名前が出て、その人に「会ってみたい」なんて言われただけで、俺の心の中に醜い嫉妬の炎がメラメラと燃え上がる。俺は本当に、器の小さい男だ。

 そんな俺の、引きつった鉄仮面の裏の動揺を、みうは敏感に察知したらしい。

 彼女は慌てて俺の方を向き、小さな両手を振った。

「あ、でも……! 桜井先輩がどれだけ凄い人でも、私にとっての会長は、藤堂先輩だけです」

「っ――――」

 顔面から火を噴くかと思った。

 耳の奥まで一気に熱が逆流していく。自分が今、どんな殺傷能力の高いセリフを吐いたのか、あの子は分かっているのだろうか。

「……っ、そ、そうか。ありがとう」

 これ以上この話題を続けたら、本当に理性が消し飛ぶ。

 俺は真っ赤になった顔を隠すように、強引に話題を切り替えた。

「で、ですが、呼び方はどうしよう……? 藤堂先輩、のままでいいんですか?」

 みうが上目遣いで、じっと俺を見つめてくる。

 俺はゴクリと唾を飲み込み、喉の震えを必死に抑えながら答えた。

「……付き合うんだから、先輩、は無しだ。名前で、呼んでほしい」

「名前……。じゃあ、怜司、さん……?」

 その、初めて呼ばれた俺の名前が、深夜の公園に甘く響いた。

「……ああ。よろしくな、みう」

 俺が初めてその下の名前を口にすると、みうは、はにかみながら、本当に嬉しそうに、世界で一番綺麗な笑顔を咲かせた。

 かつて、桜井先輩が俺に新しい世界を見せてくれたように。

 今度は俺が、この手で、この不器用な歌声で、みうと一緒に新しい世界を作っていく。

 夜風はまだ少し冷たかったけれど、ベンチに並んだ二人の距離は、もう言葉なんていらないくらいに、温かく重なり合っていた。


「……みう。本当に、このまま入るのか?」

「はい! もう、隠すようなことじゃないですし……っ」

 翌日の放課後、音楽室のドアの前。

 俺は自分の右手を包み込む、小さくて温かい左手の感触に、心臓をばくつかせながら立ち尽くしていた。

 呼び方も、関係も、昨日とは全部違う。今日の俺たちには、部員全員への『報告』という、心臓が口から飛び出しそうな一大ミッションが残されている。

 正直、俺の方が真っ赤になって足がすくんでいた。そんな俺を、昨日一生分の勇気で「帰りたくない」と言ってくれた彼女が、今度はぐいぐいと引っ張るようにしてドアを開けた。

「「「あ、おつかれさまで――」」」

 中に入った瞬間、部員たちの動きがピタッと止まり、全員の目が漫画みたいに丸くなった。

 そりゃそうだ。あの強面の会長が、新入生のみうと手を繋いで現れたのだから。

「藤堂先輩……じゃなくて、怜司さんと、お付き合いすることになりました……! ご報告です!」

 みうが真っ赤になりながらも、凛とした声でそう告げた瞬間、音楽室がひっくり返るかと思うほどの大歓声が沸き起こった。「うおおおお!」「やったじゃん会長!」と、誰もが自分のことのように飛び跳ねて喜んでくれている。

 柄にもなく胸が熱くなって、俺は繋いだ手に少しだけ力を込めた。

 そんなお祭り騒ぎの中、同期の男子連中がニヤニヤしながら俺の肩を叩いてきた。

「それにしても、美女と野獣とはまさにこのことだな! みうちゃんが可愛すぎるから、会長の指名手配犯感が際立つわー」

「……うるさい。別に狙ってこうなったわけじゃない」

 ここで俺が気にしている強面をネタにしやがって、と俺はあからさまに身体を丸めて拗ねてみせた。内心の照れ隠しだ。

 すると、輪の中心にのっしのっしと歩み出てきた彩花が、俺の前にビシッと人差し指を突きつけた。

「ちょっと怜司。みんなに祝福されて浮かれるのはいいけどさ、これだけは釘を刺しておくわよ?」

「……なんだよ」

 彩花はニヤリと、すべてを見透かしたような不敵な笑みを浮かべると、音楽室全体に響き渡るような声でこう言い放った。

「いい? いくら美女と野獣だからって、ホントに『野獣』になるには、まだ早いからね!!」

「――ッ!?!?!?」

 その瞬間、俺の背筋に冷たい戦慄が走った。

 周りの男子どもが「ぶっ、あはははは!」と大爆死している中、俺は冷や汗が止まらなかった。

 見透かされてる。完全に、あいつには全部バレてる――!

 あの夜道で一瞬でも最低な妄想を抱いてしまったこと。

 公園での告白の後、このまま自分のアパートへ連れて帰ってしまいたいという野生の衝動を、理性を総動員して必死に抑え込んだこと。

 なんなら、今もみうをどこかに連れ込みたいとすら思っていること。

「彩花ァァァッ!!! お前、新入生の前で何を……っ!!」

 過去最高に顔を真っ赤にした俺は、怒髪天を突く勢いで怒鳴り声を上げた。

 普段なら、サークル内外で「絶対に怒らせてはいけない男」と恐れられている俺の、本気の怒声だ。

 だが。

「あははは! 会長マジギレじゃん!」

「図星だー! みうちゃん気をつけて!」

 音楽室に響いたのは、さらなる大爆笑と温かい拍手だった。

 そこには、俺の顔や声を怖がって震える奴なんて、もう一人もいなかった。隣を見れば、みうだけが湯気が出そうなほど真っ赤になってカチコチに凍りついている。

(……あぁ、本当に)

 俺は心の中で、降参するように息を吐いた。

 俺を信頼して背中を押してくれた仲間たちがいて、俺の本当の姿を見て「藤堂先輩だけです」と言ってくれた愛しい彼女が隣にいる。

 世界は、俺が思っていたよりも、ずっとずっと優しくて温かい。


「「「デュエット! デュエット! デュエット!」」」

 報告を終えたその日の練習。案の定というか、お決まりというか、サークルの連中からの容赦ないイジりが始まった。

「付き合いたてホヤホヤの二人のハモりが聴きたい!」と、ニヤニヤした同期や後輩たちに囲まれる。

そこへ、ニカニカと底意地の悪い笑みを浮かべた彩花が、一枚の譜面を俺たちの前に差し出してきた。

「はい、これ! 今日の主役にぴったりの曲、ちゃんと用意しといたから!」

 譜面のタイトルを見た瞬間、俺とみうは揃って凍りついた。

 ディズニー映画『美女と野獣』の主題歌――『ビューティー・アンド・ザ・ビースト』のデュエット版。

(……おい、正気か!?)

 あんな、酸いも甘いも噛み分けた大人が、お互いを心の底から信頼しきって歌い上げるような、ロマンチックの極みみたいな曲。手を繋ぐだけで心臓が爆発しそうな俺たちに歌えるわけがない。

 隣を見れば、みうも顔を真っ赤にして「あわわわ……っ」と漫画みたいにアワアワと取り乱している。

「彩花、お前さすがにそれはハードルが高す――」

 俺が苦情を申し立てようとした、その時だった。

「まぁまぁ、さすがにそれはまだ初々しい二人には酷だって。これならどう?」

 そう言って、四年生の先輩がクスクスと笑いながら、別の譜面を俺たちの手元にスッと滑らせてくれた。

 楽譜のタイトルには、――『W-Infinity』と書かれていた。

(ダブル、インフィニティ……?)

 俺もみうも、それどころか全員が知らない歌だった。

「あ……」

 その譜面をしばらく眺める。

 みうの瞳がパッと輝いた。

「これなら……怜司さん、私、いけそうです……!」

 みうが真っ直ぐに俺を見上げて、はにかむように微笑んだ。

「……あぁ。よし、やろう」

 俺は不器用な鉄仮面を少しだけ緩め、彼女に頷き返した。

 部員たちが温かい目で見守る中、俺たちは並んで息を吸い込んだ。

 最初はぎこちなかった。

 当然だ。付き合い始めたばかり。

 歌は不思議だった。

 声を重ねる。相手を聴く。呼吸を合わせる。

 それを繰り返すうちに。少しずつ緊張が消えていく。

 みうの声が聞こえる。

 俺はその声を支えるように歌う。

 すると今度は、みうが俺の声を受け止める。

 気づけば自然に重なっていた。

 まるで、未来へ向かう一本道を二人で走っているみたいだった。

「――2つの心ぶつけて生まれるパワーで、突き抜けよう彼方へ〜♫」

(――あぁ、これだ)

 かつて、恐怖で俺の前で震えていた女の子は、もうどこにもいない。

 俺の声を信頼し、俺の隣で、誰よりも堂々と歌っている。

 二人の声が重なり、綺麗にハモった瞬間、音楽室の壁を突き抜けて、まだ見ぬ遠い空へと突き抜けていくような全能感に包まれた。過去のトラウマも、情けない自責の念も、すべてを置き去りにして、俺たちの声が、二人で紡ぐ未来へ向かって真っ直ぐに走り出していく。


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