58 「生きた人形と呼ばれる皇女」⑤
水の庇護者たる神の御使いヴェシの降臨。ルピナスは祈りの姿勢のまま更に深く頭を下げる。
「我らが創世神様の御使い、水の庇護者ヴェシ様。矮小なる人の子の声を聞き届けて下さり感謝申し上げます」
『よい。面を上げよ、ニルヴァーグの子孫よ』
「はい」
『ゾルダの地でも感じていたが、その目をよくぞここまで残したな』
記録の残らぬ三代目の皇帝ニルヴァーグ。四代目に至っては創世神に名を捧げた為に誰にも呼ばれることもなくなったが、仮初の名としてヴェリトンを与えられた。
アンザス帝国を千年残す為に。その血を引き継ぎ、ゾルダの王族と重ね合わせ、この世界に魔法を返還させる為に。
それを知ったのは、ルピナスの姉がその地へ赴いたからだ。
帝国に残っていたアナベルとルピナスは帰国した皇帝とカルミアから話を聞いて、何て壮大にして途方も無い年月の計画なのだろうと感嘆するほどであった。
『其方らは吾等の力をあまり求めようとはせぬ性質だが、何を求める』
「お力を、お借りしたく」
『話してみよ』
「この地を治める王が、正しく王の血を持つか否かを知りたいのです。王の血を裏切っているか否か」
『それだけで良いのか?』
「はい。この願いがそもそも過ぎたるものだとわかっていますので」
『ふむ。吾が主程とは言わねど、吾も神の一柱。そのような事は瑣末事。しかし、無闇に求めぬ有り様は認めよう』
無表情ながら柔らかくなった口調にルピナスはほっと息を小さく吐いた。直接神の御使いに相対するのは初めてのことだけれど、無意識に強ばっていた体が動きを鈍くしていた。
『そこの男と子供はこの国の正統な王の血だな』
ヴェシが視線をすっと流し、ダーレン大公ヴォルグとその息子ジェレミーを一瞥しただけでそう断定した。
『他は血が薄い。そして、今の王に王の血は流れていない』
ヒュッ、と息を飲んだのは誰か。同席を望んだ神官長とその取り巻きか。
彼らから迂闊に情報が漏れるのは少しまずいな、と、ルピナスが思案したところでヴェシは彼等に告げた。
敬虔なる創世神の信望者。
創世神の片翼たる御使いが視線を向けただけで彼等は手を組み跪く。
『今の言葉は他に漏らしてはならぬ。時を待て。良いな』
天上におわす神々にとって人間とはあまりにも小さい存在だと神の信望者達は知っている。そんな中で個を認識して声を直接掛けられた、それだけで彼等は歓喜に身を震わせ、本能的に涙を流しながら床に身を投げた。
「もちろん、もちろんにございます」
え、あそこまでしなきゃいけなかったの?
ほんの少しだけ信者達の行動に引いていたルピナスだったが、ヴェシが小声で『あそこまではしなくてよい』と言ったので、これからもルピナスは今までの通りにしようと決意した。
『皇女。其方にはこれを授けよう』
ヴェシの掌に水が集まり、それはとても美しく愛らしい青空のような色の小鳥に変じた。
本物の鳥のように羽ばたいた後、ルピナスの肩へと当然のように止まった小鳥は、可愛らしい鳴き声を放っていた。
『其れがあれば何処でも吾に声が届く。水の塊故、斬られても死なぬ』
「とても、可愛らしいです」
『其方と其れを繋げた。好きに使え』
最後の言葉だけはルピナスにだけ伝えられたようだ。誰にどんな言葉を与えるのかを決められるようで。脳に直接届く言葉は落ち着いていた。その安心感は水に身を委ねるが如く、天も地もなく右も左も関係無く、揺蕩うような心地であった。
『吾等にとって人の子の諍いは良くは分からぬ。しかし、ニルヴァーグが繋げた国が今も残るように、血には意味があるのだろう』
天上の世界では創世神が唯一である。死という終わりがない神にとって、人間の生み出した規則などは理解が出来ない。
それでも、千年の約束を果たしたという帝国の皇族の、ニルヴァーグとヴェリトンの執念が、大切な親友達を再び目覚めさせる為に、血を絶やす事を許さなかった。
意味はあるのだろう。ヴェシには分からなくても、人の子には大切なのだろう。
故に、ヴェシは水の記憶を辿った。末端とまでは行かなくとも上級神には及べない、しかし中級神よりは力のあるトゥリとヴェシ、それに後二柱を主は伝令という役割と共にそれぞれに地上に必要な属性の庇護者にしてくれた。
創世神は千年を超えて眠りから覚めたあの世界線を超えた二人を友としたし、トゥリは共に旅をしていた。
ヴェシや他の伝令は初めこそ不満もあったが、小さきものの懸命に生きる姿や、喪われた命を悼みながらも立ち上がる変化を間近に見て少しだけ、主やトゥリの気持ちがわかった。
ニルヴァーグはあの二人の人の子の親しき友だった。彼等が眠りについた理由をよく知っていた。
見せるつもりはなかったのだろうが、ただ一度だけ、泣きに泣いていたのを見た。大切な友の名を泣き叫び、そして立ち上がった。
その子孫がここにいる。
今の王はニルヴァーグによく似ている。そして六人の子供は皆がみんな似ていないのに、軸がよく似ている。
ゾルダの地にはリーチとサーヤがいる以上、主が目を掛けているだろう。
ヴェシがほんの少し、この小さき人の子を構っても良いだろう。それに、この人の子に与えられた加護は『速読』と『暗記』の他にもうひとつある。
本人も誰も理解していないようだけれど。
『叡智』が基礎であり根底となっているその上に二つの加護が現れている。そしてその『叡智』はヴェシの権能に関わる。
『千年の約定を果たしたニルヴァーグの血を繋ぐ者。皇女ルピナス。吾を遠慮なく呼べ。其方がこの地を生きる場所とするのならば、吾を使え。其方にならば許そう』
「何故……ですか」
ルピナスはわけがわからずに動揺する。ただ、イゾルデの裏切りを確定する為に一言が欲しかっただけなのに。
ヴェシはルピナスの困惑と動揺を見て、初めて少しだけ表情を変えた。
『トゥリは千年前に人の子に紛れ、遊び呆けましたが楽しそうだった。吾も、一度は経験してみても良いのではと思ったのだ』
ただそれだけの話。
否が応でもこの国は混乱し大騒動が起きる。
王の血を正しく戻す、そこにルピナスは巻き込まれる。
否、ルピナスは火種として来たのだ。
ヴェシは、それを特等席で観覧しようという気紛れを起こしたのだ。
呆気にとられた顔をしたルピナス。ヴェリトンの妻にどことなく似ているな、と思い出した。夫の名を呼べなくなったと号泣しながらヴェリトンを殴りつけたあの妻は、顔だけはたいそう可愛らしかったが、中身は違っていた。
ヴェシが口角を上げて笑みを浮かべると、ルピナスはゆっくりと頭を下げた。
「創世神の御使い様、水の庇護者ヴェシ様。地上をどうぞご堪能下さいませ」
つまりは、当分どんな手段を使ってかは分からないが、ヴェシが地上に滞在する事になった、という事だ。




