44.『デッドロック館』秘話 ブリッジミアの嵐 2
メアリー様は伯爵邸の玄関ホールで倒れられた後、屋敷の喧騒が聞こえない奥のお部屋で看病を受けられました。そしてその時にお腹に赤ちゃんがいることが分かりました。
メアリー様は半日お眠りになり、時々うわ言でルイ・オルフェのことを呼んでいました。一度だけ目を覚まされて、お腹の赤ちゃんがご無事だとお知りになると、さめざめと涙を流されて、安心したのかそのまま、今度はうなされることなく2日間眠られました。
メアリー様が倒れられてから2時間ほど後にルイ・オルフェが血相を変えて、メアリー様を探しに伯爵邸に来ましたが、フェリシアが屋敷に箝口令を敷き、彼を応接室に通してお1人で対応し、暫くしてルイ・オルフェはひどく落ち込んだ様子で帰っていきました。
私はフェリシアにルイ・オルフェもあれだけ心配しているのだから教えてあげればいいのにと申し上げましたが、メアリーがせっかく伯爵家を信用して頼ってくれたのに裏切ったら気の毒だわと言われたので、彼女に従うしかありませんでした。
モンタギュー伯爵オズワルド様は最初から妹は夫の所に戻った方が良いとのお考えで、伯爵邸に来られたメアリー様に執事伝にそうお伝えしましたが、ご自分のそのお言葉のせいで妹が倒れられて、あやうく流産する所だったとフェリシアに言われて、深く反省されたのか、この件に関して全てをフェリシアに任せることに同意されました。そして妹様を心配されながらも、翌日予定通り、領地の方に出かけられました。
ルイ・オルフェはやはり納得しなかったのか、翌日から3日ほど伯爵家に来ました。執事がメアリー様はいらっしゃらないと言っても、来ないはずがない、なぜ隠すんだと、怒りの様子で居座るので、結局フェリシアが彼と話し、毎回大喧嘩をして帰っていきました。
ルイ・オルフェは元々フェリシア以外の人の前では感情を表に出さなかったので、数日の彼の行動はとても珍しいことでした。
メアリー様が奥のお部屋で眠られていて、何も知らずにおられたのが幸いでした。もちろん彼女にこの騒動については何も申し上げませんでした。
アデル・グレイ著 『デッドロック館』より
* * * * * * *
ドルトンのオクタヴィアの屋敷。
居間に温かいお茶を用意した所に、着替えたルイ・オルフェが入ってきた。
「すっかりお世話になり申し訳ありません」
お茶を運んできたメイドのヴァネッサはまだ新婚なのに、これまで見たこともない美しい青年を見て真っ赤になった。
メアリー・オクタヴィアはさすがに顔には出さなかったが、絶世の美貌というのはこういう人のことを言うのねと感心した。
「甥の服のサイズが合っていてよかったわ」
ルイ・オルフェの方が年下ということもあっていつの間にか敬語ではなくなっていた。
服はほぼ彼に合っていたが、パンツの方は少しだけルイ・オルフェには短い気がした。甥のダニエルはスタイルが良く、かなりの足長なので、更に足が長いということか。
「ホーソン子爵はどんな方ですか?」
ルイ・オルフェは会ったこともないダニエルになぜか拘っている気がした。
「4年前に前にモンタギュー一族で撮った写真があるわ。見てみる?」
オクタヴィアはピアノの上に置いた写真立てを渡した。
写真はまだとても珍しかった。4年前なら尚更だが、伯爵家は新しいものが好きだったのだろう。
ルイ・オルフェも一度だけ写真を撮ったことがあった。セレーナベリの小さな教会でメアリーと結婚式をあげた時の結婚写真だった。村の若者の1人がドルトンで写真技術を学んだとのことで撮ってもらった。
ルイ・オルフェは写真のなかにすぐに12歳の頃のメアリーを見つけた。フェリシアと一緒にモンタギュー家に忍び込んだ時に、ピアノを弾いていた天使のような美しい少女。
下男に押さえつけられ伯爵家の人びとを睨みつけたルイ・オルフェを見て、メアリーは怯えた表情で父親の伯爵の腕にぎゅっと縋りながら言った。
「この子、こわいわ!お父さま。早く地下室へ閉じ込めてちょうだい。この子前に村に来ていた旅芸人のロマの占い師の子みたい!私のお財布を盗もうとした」
最悪な出会いだったな。
今思えばあの少女に密かに好意を抱いただけに、プライドが酷く傷ついた。泥だらけの不法侵入者なのだから当然だが、犬をけしかけ、自分を捕まえた伯爵家の下男たちより、もっと少女が憎らしかった。
写真では4人の子どもたちは前の方に固まっていた。少女1人に少年3人、少年は3人、少年の1人はオズワルドだ。17歳のダニエルもすぐに分かった。7、8歳の幼い少年とメアリーの肩に親し気に手をかけていた。白黒写真なので髪や瞳の色は分からないが、1歳違いのオズワルドよりずっと背が高く、メアリーに似た上品そうなとても美しい少年だった。
ダニエルに肩に手をかけられたメアリーはルイ・オルフェに向けた恐怖の表情とは打って変わって、優しく微笑んでいた。
気に入らないな。
そしてフェリシアの言葉が蘇った。
「メアリーにはとても仲の良い従兄がいるそうよ。身分は子爵で5つ年上のすばらしい美青年。2人ともピアノが上手で、よく一緒に弾いていたって。小さな子どもの頃から結婚の約束もしていたんですって。彼は今は外国にいるそうだけど、彼女のデビュタントに合わせて戻ってくるはずだったって。まさか出会って2ヶ月程度の人と駆け落ちするとは誰も思わないわよね」
2日前のことだが、思い出すと腹が立ってきた。
「どういう意味だ?フェリス、遠回しも嫌味もやめろよ。俺はメアリーと離婚する気は全くない。そもそも誰のせいで拗れたと思ってるんだ?彼女はいるのかいないのか?いるならすぐに連れ帰るから会わせろよ」
「いない」
フェリシアは腕組みをして、ルイ・オルフェを睨みつけた。
「いないわ。置手紙には遠くに行くって書いてあったんでしょ。その従兄に会いに行ったのかもね!とても優しいそうだから」
「彼女に外国に行く金などない」
「まあ!子爵夫人なのになんてかわいそうなの!ドケチ!」
フェリシアとはこんな調子だ。まあ死にそうな顔で会いに来た時よりも元気になっただけいいのか。
メアリーが残した手紙を思い出す。
「あなたが愛しているのはフェリシアだけ。本当は気付いていましたが、ずっと気付かないようにしていました」
出て行った一番の原因はフェリシアのことだろう。
フェリシアに尋ねた。
「メアリーに何か言ったのか?」
「メアリーが何か言ったの?」
逆にフェリシアに聞き返された。
「俺の昔の部屋で、子どもの頃に日記代わりにしていた本を見つけたらしい。あの頃の俺の世界はデッドロック館と荒野だけで、君のことばかり書いていたから、今も君だけを想っていると誤解したようだ。でも勝手に人の部屋に入って、人のものを弄るような人じゃないからへんだと思った。誰かから聞いたんじゃないかと」
「知らないわよ」
フェリシアはそっぽを向いた。
「あまりに腹が立ったから暖炉に放り込んだよ」
「何ですって?あの本を?何てことするのよ!」
フェリシアはルイ・オルフェに掴みかかった。
「あんなきれいな、素敵な日記だったのに。ひどいわ」
「へえ…。君も読んだんだ。俺の部屋に入って」
鎌をかけたのだが、簡単すぎる。
「あなたが行ってしまってから見つけて何度も読んだわ。すごく後悔したのよ。たくさんたくさん。昔を思い返していっぱい泣いたわ」
そう言われるとさすがにフェリシアを憎み切れなくなる。
「まだ燃やしていない。でもいずれそうするつもりだ」
ルイ・オルフェは静かに言った。
メアリーの前で燃やして、昔との決別を見せるつもりだった。
「燃やすんならあたしにちょうだいよ。お墓に入れるから」
フェリシアは目に涙を浮かべて言った。
17歳で自分の葬式のことを考えているのか。
「まだ…死にたいのか?」
「ずっと死にたいわ」
ルイ・オルフェは溜息をついた。
「君がメアリーはいないと言い張るからノースブリッジミア村に行って彼女を見かけなかったか聞いて回ったよ。村では俺と君のことがものすごく噂になっていた」
一度だけ行った理髪店の美人店主マージョリー・ルコントが、たいへんなことになってるわよと教えてくれた。意外にも姉御肌らしい。
「あら、そう?」
「わざとだろ?」
「え?」
「わざと人目につくように、俺に抱きついたり、キスしたんだろ」
「だったら?」
やはりそうだったか…。
「子どもができたんだ」
ルイ・オルフェはそう言いながらフェリシアの目をまっすぐに見た。
フェリシアも怯むことなく見つめ返す。
「少し前にメアリーは村の医者の所に子守のノラの服を借りて行った。医者はかなり渋ったけど教えてくれた。粗末な服で顔を隠すようにしても言葉や所作からいい家の出身だと分かったと。今はもう5ヶ月近くにもなるそうだ。悪阻が軽くて本人も体調が悪いだけだと気付かなかったらしい」
「へえ…」
そう言いながらフェリシアは少しも驚いていない。
「彼女は子どもがいることは何も言わずに出ていった」
しばらく沈黙が支配した。
「フェリス」
ルイ・オルフェは何も言わないフェリシアに語りかける。
「俺に血の繋がった家族がようやくできるんだよ」
「あなたは…」
ようやくフェリシアは口を開いた。
「いつか古びたあたしのお墓の前で言うのよ。子どもや孫たちを引き連れてね。妹の墓だよ。大好きで仲良しだった。死んだ時は本当に悲しかった。でも今は母さんやお前たちがいるからとても幸せだよ。自分にとってお前たちが一番大切なんだって」
フェリシアは泣いていた。
「もう一度言うわ。メアリーはいないわ。帰ってよ!」
そう言うとルイ・オルフェを伯爵家の応接室から追い出した。
デッドロック館の元メイドのナンシーは窓を磨きながら、ルイ・オルフェが玄関から出て行くのを見た。
今日も来たのね。メアリー様はご体調が少しよくなって、以前の自分のお部屋に戻られるそうだけどまだ会わせてもらえないのかしら?とナンシーが思っていると、ドアがばたんと開く音がして、フェリシアが外へ飛び出してきた。
「オルフェ!」
大きな声でフェリシアが呼ぶ声が窓越しにも聞こえた。
フェリシアは走って、門の近くにいたルイ・オルフェに抱きつくとキスをした。
ルイ・オルフェは首を横に振り何かを言っていたが、それはナンシーには聞こえなかった。そしてフェリシアは言葉を遮るように、もう一度彼にキスをした。
困った2人だこと。あたし以外に見ている人がいなければいいけどと、ナンシーは思った。
ルイ・オルフェが応接室から出て行った後、フェリシアはメイドを呼び、お茶を片付けるように言ってから部屋を出ると、メアリーがスーザンと話しながら階段を上っていくのを見かけた。
危ない所だった。もう少しでメアリーとルイ・オルフェが鉢合わせをする所だった。
メアリーが自分の部屋に入っていくのを見かけ、フェリシアはふと思いついた。
もしかしたらメアリーは気付かないかもしれない。
それに彼はもう帰ってしまったかもしれない。
フェリシアは急いで玄関ホールを駆け抜け、ドアを開けると大きな声で呼びかけた。
「オルフェ!」
ルイ・オルフェは門の所で門番の男と話しをしていた。メアリーが出入りをしていなかったか聞いていたのだ。
ルイ・オルフェはフェリシアが自分の方に駆けてくるのを見ると、メアリーは来ていないと言い張る門番に「もういい」と言って、フェリシアの方に歩いていった。
フェリシアはルイ・オルフェが他の誰かと話していようと、平気で自分に声をかけてくるだろうから。
門番は外を見張るふりをしながら、2人を見ていた。退屈な勤務が今日はおもしろくなりそうだ。
そしてフェリシアはルイ・オルフェに抱きつき、キスをした。
ルイ・オルフェはフェリシアの唇が離れると、首に回された手をそっと放し、フェリシアの両手を握り、首を横に振って言った。
「フェリス、メアリーのことは絶対に傷つけるな。頼むから」
「俺は彼女を…」
フェリシアは素早くルイ・オルフェの手を振り払い、両手で彼の顔を挟むと、もう一度キスをした。
* * * * * * *
ホーソン子爵様、悪い予感ほど当たってしまうものですね?
フェリシアとルイ・オルフェの口づけをよりによってメアリー様が見てしまわれたのですよ。戻られたばかりのご自分のお部屋から。
アデル・グレイ著 『デッドロック館』より
最初と最後の『デッドロック館』部分は、19世紀文学の、改行なしで長々書いてある文章を意識し、古い翻訳小説風に書いてみました。読みづらくてすみません。
「ブリッジミアの嵐」は次回まで続きます。