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第四話「椿様の飼い主にして莉於の天敵――大鳥エリカ様の襲来です」

 メイド日記、富士宮悠観察記録第九六章四の節――

 小学生という人種について言わせていただきます。

 彼らはこの世でもっとも恵まれたサディストです。

 何が恵まれているのか――それはもちろん無自覚であることを許されていることでしょう。

 いじめっ子は言います。「いじめてるつもりなんてありませんでした」――と。

 つまり彼らは自分の行いの善悪が判断できない。

 無自覚気ままに無用なトラウマを他者に植え付け、身体を害し続ける。

 それでいてタチが悪いことに、その行いのツケが自分には来ない。

 全ての責任は自らが負うところにはなく――そんな立場が許されることにあります。

 故に恵まれている。

 故にサディスト。

 豊葦原小学校の生徒たちもまた、無自覚無用な嗜虐嗜好の持ち主でありました。


「うわ、何だよ富士宮、おまえが持ってるのなんか違うじゃん!」


 悠様が小学生の砌、豊葦原小ではちょっとした『ガン消し』ブームが起きていました。

『ガン消し』――正式名称を『ガシャポン戦士シリーズ』と言い、その正体は何のことはない、カプセル自動販売機に入った塩化ビニル製のおもちゃでございます。

 80年台半ばに巻き起こった『ガン消し』ブームは当時の小中学生を巻き込み、社会現象にまでなりました。

 では、何故そんなおもちゃが現在ブームになっているのかというと、通学路に存在する駄菓子店『小野製菓』にその原因がありました。

 そこの店主――今年で米寿を迎え、番台に座り続けて約半世紀という『黄緑しけ』おうなは別名、発掘者と呼ばれるほど、時代と流行を無視した商品を仕入れることで有名であり、ガン消しもまたそんな嫗の斬新なチョイスによる商品でした。

 さて、本来なら埃にまみれて静かな廃棄を待つばかりだったそれらガン消しが、様々な偶然と必然の交錯により豊葦原小の五年生――悠様のクラスで受け入れられました。

 擦ればノートが破れることは必至、えんぴつの黒みのみを伸ばすだけの、消しゴムとは名ばかりのおもちゃは、現代の小学生には『フィギュア』として受け入れられたようです。

 所謂大きいお友達を対象としたフィギュアなど小学生には手が出るはずもなく、昨今のプラモデルなども、小学生の小遣いの範囲では手が出にくいもの。

 百円というリーズナブルな価格設定と何が出るか分からないという射幸性が合いまり、小野製菓には連日、豊葦原小の五年二組が詰めかけていました。


「おいみんな見てみろよ、富士宮がガン消しのパチモン持ってきてるぞ!」


 悠様はこのガン消しブームを密かに喜んでおられました。

 行ける――この流れなら言えると、お部屋でひとり張り切っておられました。

 自分は『キン消し』コレクターなのだと、カミングアウトをするおつもりだったのです。

 悠様の男性に対する崇敬の念は、未だ幼いが故に容姿や外見といった記号に左右されがちであり、特に肉体美を基調とした男性像に強い憧れを抱いております。

 キン消し集めもその一環であり、富士宮の情報網とコネ、財力を駆使すれば全四一八種、リバイバル版二二〇種のコンプなど容易いものでありました。

 誰にも言えなかった自分のコレクションを自慢できる日がやってきたのです。

 未だ親しいご学友がいらっしゃらない悠様は、緊張したご様子ながらも、これからの充実した学校生活に胸を躍らせていました。

 ですが――嗚呼、竹馬の友など夢のまた夢。子供とはただただ残酷であります。

 画一化された交友関係を好み、個人の特異なパーソナルは格好の攻撃対象。

 それはランドセルや上履きの色、髪や肌といった人種の壁にまで及びます。

 みんなと違うものを持っている。

 たったそれだけのことで、悠様ご自身が思い描いたヒーローの立場を転げ落ち、非難や嘲笑を受ける対象となってしまいました。


「何だよこれ、ガン消しじゃねーじゃん。うわきめえ、鞄ん中にもいっぱい入ってやがるぞ」

「や、やめて――そんな乱暴にしないで……!」

「変なの~、これ全部ボッシュートな。針つけたらルアーになるかな?」

 小柄な悠様が腕力で同級生に勝てるはずもなく、富士宮の威光を理解するには彼らはあまりに幼すぎます。教師だけでなく保護者からも特別扱いを受ける悠様はさぞや目の上のたんこぶだったことでしょう。

 いじめの口実を手に入れた彼らは嬉々として悠様を小突き回します。

 その時でした――


「あれ、懐かしいな『キン消し』じゃん。年の離れた兄貴がよく集めてたんだよなこれ」


 悠様の前に本物のヒーローが現れました。

小学生でありながら、すでに自身の力で未来を切り開く力を持った殿方。

 これが悠様一番のご学友にして『最愛の男性』、椿十志郎様との出会いでありました。


 *


 悠は至福の時間を過ごしていた。

 生涯たったひとり――そう心の底から思える友人と半年ぶりの再会を果たしたのだ。

 昼休み。突然の英雄の帰還に興奮冷めやらぬ校内。

 だが、誰ひとりとして椿十志郎とまともに会話できた者はいない。

 なぜなら――

「十志郎、こっちのも食べてみてよ」

「おお、こいつはうめえ! 悪いな悠、帰ってきて早々昼飯の世話までしてもらって」

「き、気にしなくていいよ……僕と十志郎の仲じゃないか」

 悠は顔を赤くし、もじもじとしながら言った。

「うめえ~、やっぱ和食だよなあ。ステーキとハンバーガーは当分いいわ」

「アメリカでの生活はどうだったの? 野球の練習とかすごそうだよね」

「んー、いや、向こうはどっちかっていうと日本みたいに朝から晩まで練習はしねーんだわ。その代わり効率的に短時間で練習すんのさ。元々身体能力の高い連中ばっかりだから最初は面食らったなあ」

「と、友達はできたの?」

「おう、チームメイトは全員友達だぞ。向こうに着いたら速攻でニックネーム付けられてよ。『カメリアカメリア』って俺は三貴のダイヤモンドかっつーの」

「ふ、ふうん、そっか沢山できたんだ友達……」

「でもやっぱ飯はこっちが最高だな。向こうでも最初はよかったんだが、なんつーのかバリエーションが単調というか、とにかく出汁の味が恋しくてよー」

「じゅ、十志郎」

「ん?」

「あ、あーんって、する?」

「それはいい」

 残念そうに消沈する悠と、重箱に顔を突っ込む勢いで箸を動かし続ける十志郎。そして――

「はいはいはい、私、椿十志郎様のマネージャーを務めます真咲莉於と申します。現在十志郎様のご予定は一週間先まで全て埋まっている状態です。新規のご予約は一ヶ月待ちとなっていますので悪しからず。そこ、フラッシュは焚かないでください!」

『KEEP OUT』のテープが貼られたカラーコーンで仕切られた教室の片隅。何者をも寄せ付けない鉄壁のガードマンとして莉於は奮戦していた。

 クラスメイトは十志郎と久しぶりの再会を楽しむどころでなく、英雄の姿を一目見ようとやってきた野次馬も合わさり、教室の周りはコンサート会場の出待ちみたいな状態になっていた。

 そんな渦中を剣呑な目つきで見つめる少女がふたり……。

「面白くねえ」

「不愉快だわ」

今朝方――悠に辱めを受けた一子とよしえである。

「まあまあ、椿くんが留学して以来、ずっと富士宮くん元気なかったから、よかったよね、――よね?」

 新刊文庫を片手にサンドウィッチをもくもくと食べながらもえが言った。

「あたしらをずっとこんな気分にさせたままで本人が幸せだっつーならな」

「おー、一子ちゃん眼が怖いよー、どうどう、落ち着いてー……食べる?」

「お前の食いっぷりは見てると食欲無くすわ」

 天然日光浴娘、鈴が差し出すドカ弁当いっぱいのチキンライスに「けぷ」っと一子は息を吐いた。


 一子とよしえは、その正反対すぎる性格から、『混ぜるな危険姉妹』として校内でも有名なふたりだった。

 顔を合わせればお互いのアラを指摘し合い、手こそ出し合わないものの、舌戦し合うことが常だった。

 だが、付き合いが長くなれば自然と互いの良い部分も見えてくる。

 よしえの方は、例え気に入らない一子の言葉とはいえ、自身で吟味して納得したことなら律儀に非を認めて改善しようとする性格で。

 対して一子は自然体のまま、清濁ふくめてそれを取り巻くすべてを肯定しようとする大きな懐を持っていた。

 やがて、互いには無い部分に惹かれるものを感じ始めたふたりだったが、争いの歴史が長いだけになかなか素直になることができずにいた。

 そんな彼女たちにひとつの転機が訪れる。

 もえと鈴との出会いである。

『ウォー・ブレイカー』、『絶対停戦のギアス』、『すべてのあらそいをむこうに』――

 もえと鈴に挟まれた一子とよしえは、ひっくり返されたオセロのように、ふたりの醸し出す人畜無害オーラに染まり、いつしか罵り合うより笑い合うことの方が多くなっていった。


 だがしかし。

 今回はことがことだけに、いかな鈴ともえの『調停のオーラ』といえど、今の一子とよしえには通用しないのだった。

「富士宮くん、超幸せそうだねえー。なんか、見てるこっちが癒やされるわー」

「ホント、半年ぶりの再会だもんねえ。ちょっとくらい椿くんを独り占めしても仕方ないよね、――よね?」

 世話女房よろしく、十志郎の食いっぷりを傍らで見つめる悠と、その姿を生暖かく見守る鈴ともえ。

 一方、富士宮悠被害者の会のふたりはというと――

「なんだよありゃ、男のくせに男相手にデレデレしやがって。今すぐあのニヤケ面、泣き顔に変えてやろうか、ああん?」

「私がされたことを富士宮くんにやり返す。これは正当な報復のはずよね?」

 一子は箸を口に咥えたまま、よしえは指先で机を叩きながら、『イチャつく』ふたりの姿を苛立たしげに見つめていた。

 今から一緒に、殴りに行こうか――

 そんな物騒なセリフがいつ飛び出してきても止められるようにと、鈴ともえはこわごわとふたりを見守っていた。

「ねえ、ふたりとも、富士宮くんのこと怒る気持ちもわかるけど、――けど?」

「うん、ちょっと冷静に考えた方がいいよー。今日の富士宮くん、絶対何かおかしいってー」

 悠のセクハラを目の当たりにしても未だに信じられない。

 それほどまでに普段の悠からは、まったく結びつかない突飛な行動、そして言動だった。

 その思いは一子たちも同じのようで――だからこそ煮え切らず、悶々とした気持ちでいるのだった。

「何が面白くねえってよお、あたしらにセクハラしたときの富士宮あいつのツラ見たかよ」

「ツラ――顔?」

 同意を求められても悠の顔など見ていない鈴ともえは顔を見合わせる。

「あの野郎、あたしのこの引き締まった脚線を衆目に晒しやがった上に、当の本人は至近距離から拝みやがったってのによう……鼻血吹きながら泣いて喜ぶならまだしも――」

「ええ、私の胸を触るときも、震えがこっちまで伝わってきて。まるで今にも屋上から飛び降りそうな後悔と絶望を顔いっぱいに貼り付けて。あんな顔されたら怒る気にもなれないわ」

「ほえー、ふたりはもっとずっと怒ってると思ったのに、もう許しちゃったんだー。優しいねー」

「断じて違う」と、一子とよしえはハモった。

「許したわけじゃねえ。怒ってるに決まってるだろうが!」

「当たり前じゃない、でもそれより以上に解せないだけよ。さすがに私も、あの富士宮くんがどうしてあんな奇行に走ったのか――何か理由があると、そう思うのよ」

 だてに悠のクラスメイトではないのだ。毎日顔を合わせている友人が、昨日とは明らかに様子が違うのを見れば心配にもなる。

 憎まれ口を叩きながらもセクハラした張本人を気遣うふたりに、もえはニコニコとしながら言うのだった。

「一子ちゃんもよしえちゃんも素直じゃないねえ、――ねえ?」

「ねー?」

「おいもえ、おまえは大きな誤解をしてるぞ。あたしは別にあんなナヨナヨした野郎のことなんざどうでもいいんだからな! 本当だからな!」

「ええそうよ。ただ学級委員として明らかに様子のおかしいクラスメイトに気を遣うのは当然のことだから、だから――」

「もえさんやー、これが有名なツンデレですー」

「しかと。鈴さんや、――や?」

 これ以上言い訳をしてもからかわれるだけだと一子とよしえは話題を変えた。

「それにしても、まさか椿が帰ってくるとはなあ」

 思い出すのは半年前に行われた全校を上げての壮行会。

 何故か市長がサプライズで現れたり、街出身のタレントや作曲家、歌手までがやってきてかなりの盛り上がりを見せた。

 そして何より鮮明に思い出されるのが、それら街の名士たちをアゴで動かしていたひとりの少女の存在――

「真咲さんの口振りから察するに、彼の帰国はどうやら富士宮の意向らしいけど」

 言葉を濁すよしえに、もえは声を低くした。

「それってマズいんじゃ……。だって椿くんを支えてるスポンサーさんは大鳥おおとりさんでしょ、――でしょ?」

「そうね。東西で街を二分する富士宮と大鳥。港湾一帯の重化学と鉄工業、加工製造業を生業とし、広く世界へ輸出の手を伸ばす富士宮と――、近年急速なITビジネスの発達により、首都圏や都市部を経由し、広く国外ビジネスを展開する大鳥。たまたま椿くんの実家が大鳥寄りだったがために、彼のスポンサーは決まったはず……」

 この街は実質的なふたつの巨大組織によって支配されている。

 富士宮と大鳥。

 市民の実に9割近くが何らかの形で――仕事や生活などで、その両巨塔と関わりを持たざるを得ない。

 このふたつの不協和音は実生活に直結しているため、中学生とはいえ話題には敏感になるのだった。

「ふわー、野球留学の費用だって大鳥が気前よく出してたはずだよねー。いくら富士宮くんちでも、勝手に呼び戻すだなんて、そんなことしていいのかなー?」

「なあ、ちょっと思ったんだけどよ」

 頬杖つきながら悠と十志郎を、そして視界の隅にいる莉於を見つめながら一子が言う。

「これって全部あいつがやってることなんじゃねーの?」

「あいつって――真咲さんのことかしら?」

「ああ、今回の椿の帰国のことといい、今朝の富士宮の唐突なセクハラも全部さ」

「椿くんのことはまだしも、どうしてセクハラのプロデュースが莉於ちゃんなの、――なの?」

 もえの疑問は至極まっとうなものだった。どんなに真咲莉於というクラスメイトが同年代離れしていようとも、彼女が常識人であることには変わりはない。

 だが一子の声には妙な確信が込められていた。

「あいつ――真咲って富士宮の専属メイドってことはさ、ようするにお目付役だろ。なんかあった時にはあいつがカラダを張ってとめるんだろう。だけどさ、富士宮本人は見ての通り自分から女にちょっかい出すような根性はないわけで……」

「えー、莉於ちゃんに命令されておっぱいコネコネしたってことー?」

「言うほどコネられてません――って、そういえば富士宮くんがあんなことする直前、珍しく彼女のほうから私たちに変な質問をしてきていたわね」

 よしえのメガネの奥がキラーンと光った。

「それはいくらなんでも考え過ぎだとおもうけどー?」

「まさか、だとしても、どうして莉於ちゃんがそんなことさせるの、――るの?」

 符合する莉於の不可解な行動。思い当たる節の多さに、さすがの鈴ともえも弁護の言葉が無くなっていく。

「なんにしても、これってちゃんと確かめないと、だな」

「そうね。富士宮くんのセクハラは一時置いておくとして、確認の必要がありそうだわ」

 被害者の少女ふたり、静かな炎が瞳の奥で燃えていた。



 悠はひとり、人気のない旧校舎をスキップしながら歩いていた。何故なら――

「え、十志郎、実家には帰らないの?」

「ああ、いつまでかわからねーが、当分この学校の野球部で練習することになってるんだ。古巣のシニアチームにはアリゾナに行く前に退会届け出しちまったしな」

「じゃあ、泊まる場所とかどうするの?」

「そりゃあ、『お嬢』に頼むことになるだろうけど――」

「じゃあさ、もしよかったらさ、僕のうちにこない?」

「おまえん家って――郊外にある、あの?」

「ちがうよ、あそこからじゃ通いづらいから、今は近くに部屋を借りて住んでるんだ」

「住んでるって、真咲とふたりでか?」

「うん、そう」

「ふーん……。まあ真咲がいいって言うなら俺としてはありがたいが」

「大丈夫だよ、莉於は僕のお願いならなんでも聞いてくれるからさ!」

「ああ……じゃあ迷惑じゃなけりゃ世話になるかな」

 ――という感じで、十志郎を自宅にお泊りさせることに成功したのだ。

 ここまでは完璧だった。一子やよしえに嫌われたのは残念だが、十志郎も帰ってきて、悠の身体はすっかり男の子のものに変わった。

 脚の付け根で久しぶりに自己主張するムスコが愛おしい。

 そうして放課後――悠は久しぶりに『立ちション』をするために人気のない旧校舎の男子トイレへとやってきていた。

 十志郎は野球部での練習があるので、かいがいしく彼の練習が終わるまで待っている予定なのだ。

 それまでは人知れず、至福の時間を堪能しよう。

「ああ、僕はなんて幸せなんだろう。神様、立ちションできることに感謝します」

 悠はそっと祈りを捧げた。

 だが、矢継ぎ早に訪れる幸福はヒトの感覚を麻痺させる。

 このとき、普段の悠にも辛うじて備わっている、ある種の危機感知センサーが完全に壊れてしまっていた。

 後の祭り。後悔先に立たず。不用意にひとりで行動するべきではなかったのだ――

 男子トイレ――夢にまで見た小便器の前に仁王立ちになり、悠は排尿を始めた。

 あえて彼の心情を詳細に描写することは避けるが、『出す』という行為は何かしらの快感を伴う。

 声。涙。汗。ときには流血さえも。

 ならばこの瞬間の悠の多幸感はいかばかりか。

 そしてそれが急転直下の絶望に変わるなど予想だにしていなかった。

 間もなく――悠は自身の異変に気づいた。

 お腹の底がむずむずして無性に叫び出したくなる感覚――悠の性別が変わる前兆である。

 一体どうして――

「悠様」

 唐突に音もなく、悠の背後に気配が生まれた。

「え、え、え――!?」

 窓が開いている。

 涼を含んだ――と呼ぶにはいささか冷たい春の風が頬を撫でる。

 そこにはひとりの少女が立っていた。

 悠と同年代でありながら美しい――といって差し支えない顔立ち。

 未だ幼さが勝るが、将来は『魔性』を纏うことを約束された片鱗が容姿の端々からも見て取れる。

 少女は悠の真後ろまで歩み寄ると瞳をすうっと細めた。

 くっくと、声を押し殺して笑う度に、金糸の縦ロールがさわさわと揺れてた。

「お――大鳥エリカさん!?」

 それはこの街のもうひとりの権力者の名前。

 大鳥財閥の一人娘――大鳥エリカが放課後の男子トイレに立っていた。

 異常な光景だった。

「お久しぶりでございます悠様。このような場所での再会は甚だ不本意ではありますが、表ではきっとあの小憎らしい冷血仮面メイドが見張っていますので致し方ありませんの」

「ど、どどど、どうして大鳥さんがこんな場所に!?」

「あら、愛しい殿方に逢いに来るのに女は時と場所を選びませんのよ?」

 ――ぜひ選んで欲しかった。悠の切なる願いだった。

「ねえ悠様、いまの私たちってまさにロミオとジュリエットのようではなくて? 私、殿方に逢うために窓枠を跳び越えるなんて生まれて初めての体験でしたのよ。その瞬間、私の中にあった既成概念が音を立てて崩れ落ちるのを感じましたわ」

 凛としたエリカの声が響いた途端、薄暗かったはずのトイレに一条の光が差した――ような錯覚を悠は覚えた。

 それはまるでエリカだけを照らし出すスポットライト。

 華という華、贅という贅、美という美――この世界そのものに愛された生粋のセレブリティーの持つ強欲エゴ自我エゴが織りなす魅惑の引力。

 据えた臭いやら見窄らしさやら、植物系男子が抱いていたちっぽけな幸福感すらも飲み込んで、自身を飾る色彩に変えてしまうような――

 それが大鳥エリカという少女なのだった。

「こんなアグレッシブかつ出歯亀みたいなロミオはご免被るよ! てかここ男子トイレだよ!」

 願わくば恥じらいという名の常識を思い出して欲しい――だというのに、エリカは悠のお尻に指を這わせると背中にピトっとくっついてくるのだった。

「ふふ、悠様ったらコトの真っ最中だというのにそんなよそ見をしていてよろしいんですか?」

「え――、わわ、ど、どんどん小さくなっていく――!?」

 勢いよく発射されていた悠のウルトラ水流が、みるみるうちにファスナーの中に収まっていく。

 そして当然――

「うわああああああ!」

「悠様!?」

 主の叫びを聞きつけ莉於までもが男子トイレに乱入してきた。

そこで見た光景は――股間をぐっしょりと濡らしながら、大鳥エリカの胸の中でさめざめと泣き崩れる悠の姿だった。

「随分のんびりとした到着ですのね。あなたのご主人様はこのザマでしてよ」

「大鳥、エリカ――様」

 莉於はキっと眉をつり上げた。

「そんな取って付けたように敬称を足さなくてもよろしくてよ。校内においては私とあなたはあくまで対等の同級生。何なら呼び捨てでもかまわなくてよ?」

 悠の頭を愛おしげにナデナデしながら、挑発的な言葉を重ねるエリカ。

 莉於は大きく深呼吸しようとして、ここが男子トイレであることを思い出し「ふう」と小さく息を吐くに留まった。

「では、よくもまあまあ現れやがりましたね大鳥エリカ――記念に一枚」

 カシャ――と莉於は写メった。

「ちょ――何を撮ってますの!?」

「豊葦原女学院、中等部筆頭が見窄らしい小便器とツーショット。明日の大鳥財閥関連株はストップ安のサーキットブレイクでしょうか」

 邪悪な笑み――邪笑を湛えながらエリカを見下ろす莉於。

 悠をきつく胸に抱きしめながら、そろそろ剥がれ始めた余裕を取り繕いエリカはのたまう。

「あ、相変わらずひとを小馬鹿にした女ですのね。メイドとして、人間として越えてはいけない一線というものをあなたは知らないのですか」

「お生憎さま、莉於の体には使徒と同じ青い血が流れておりますので、真っ当な人間の情を期待されても困ります」

 目元だけは一切動かさぬまま、莉於は器用に唇を釣り上げた。

 悠に逢えた嬉しさのあまり、つい自分の立場も忘れてこの場に足を踏み入れてしまったことにエリカは内心でほぞを噛んだ。

「――さけを」

「何でしょうか?」

 エリカはぷるぷると震えながら血を吐くように呟いた。

「武士の、情けを賜り、たくっ――!」

「ぷ。では椿十志郎様の件はこれでチャラにしてくだいませ」

「そ――それですわ! どうして私がこんな市井の学校に足を運んだと思っていますの! あなたがうちの子飼いを拉致同然に攫ったからですわ!」

「ならば直接莉於のところに文句を言いに来ればいいのです。なにを寄り道してやがりますかこの金髪ツインロールは。その毛先に分銅括り付けてアメリカンクラッカーみたいにしてやりますよ?」

 エリカはさっと頬を染めると、ぷいっとあさってのほうを向いた。小便器の方だった。

「それは――たまたま無人の廊下をスキップしていく悠様をお見かけしたものですから」

「から?」

「つい、愛おしさと切なさと悪戯心が溢れまして」

 言わせないでくださいまし、恥ずかしい……そう言ってしなを作るエリカ。莉於は得心がいったと言わんばかりに頷いた。

「それで――窓の下で四つんばいになって背中に足跡つけたグラサン黒服が鬱陶しそうに泣いていたわけですか」

「ああっ、ヘンリー、もうよろしくてよ! スタンダップリーズ!」

「うう、莉於ぉ」

 がっちりとエリカにホールドされた状態で悠ははらはらと涙を流していた。

「悠様、お気を確かに――傷は浅いですよ」

「いまの僕の有様を見て同じことが言えるの?」

「これは……大惨事ですね。莉於のブルマを貸しましょうか?」

「一瞬それも仕方ないかも、とか思った自分が嫌だああああ!」

 股間を押さえながら号泣する植物系男子(今は女の子)と、それを慰めてるんだか貶してるんだか、生暖かい視線を送るメイド。

 エリカはそんなふたりの様子を見て取り、親の仇のように莉於を睨み付けた。

「また、ですのね……どうしてですの悠様! どうしてそこでエリカの名前を呼んではくださらないのですか! 私はこんなにも悠様をお慕いしておりますのに!」

「こんな惨めな思いをさせた張本人がどの口でほざきやがりますか」

 莉於の容赦ない突っ込みにエリカはしれっとしたものだった。

「すべては愛の前に平等で――真実などなく――許されぬことなどないのですわ」

「どんな名言も使い方を間違えばヘリクツにも劣ります。――月のない夜にステルスキルしますよ?」

「ご安心下さい悠様、例えどんな醜態を晒したところでエリカの想いは全く変わりません。そこの冷血能面メイドはいつかサイレントキルしてみせます」

 バチバチと漫画空間を形成して莉於とエリカがにらみ合う。

 ふたりに挟まれた悠は、生きた心地がまるでしないのだった。


「ときに悠様、もうすぐお誕生日ですわね」

 唐突な発言に悠はぎょっとした。

 果たしてこれが、去年の今頃にもらった言葉だったら、悠もここまで動揺はしなかっただろう。

 莉於も一瞬にして嗜虐的な笑みを消し、表情を凍てつかせている。

「十五歳という節目の年、さぞ感慨深い想いで当日を迎えられるのでしょうねえ。ぜひ私もその瞬間に立ち会わせて欲しいものですわ」

 知っている――?

 彼女は悠の『タイムリミット』のことを知っているというのか。

 元々大鳥財閥は富士宮家の秘密を共有する数少ない間柄である。

 悠の身体を男性に変化させられる椿十志郎――彼のスポンサーにいち早く名乗りを上げたのも『大鳥』などではなく、何を隠そう彼女自身である。

 まさかまさか。こうなることを予測して何年も前から先手を打っていたというのか――

「お、おおお、大鳥さん」

「いやですわ、エリカと呼び捨てになさって」

「いや、大鳥さん」

「シャイですのねえ、そこもまた愛おしいですわ」

 ふうーっとエリカは悩ましげに目蓋を伏せた。

「大鳥さん……もしかして僕のこと――知ってるの?」

 エリカはそっと、どこから取り出したレース地の扇子を広げると、恥じらうように口元を覆い隠す。覗かせるその眼だけが楽しげに嘲笑っていた。

「情報の大鳥を甘く見ないで欲しいですわね。協定違反をしてまで椿十志郎の留学を取りやめにさせたこと。悠様のお誕生日が一週間後に迫っていること。簡単なプロファイリングですわ」

 悠は真っ青になった。彼女が――大鳥エリカが関わってくるだけで、この一週間の航海が波瀾万丈に見舞われることが決定したからだ。

「先ほども言ったとおり、微力ながら私も悠様の運命に寄与させていただきます。具体的には明日から、エリカは悠様のクラスメイトですわ」

「な――」

「突然何を言いやがりますかこの女郎――!?」

 悠は絶句。莉於は珍しく声を荒らげた。そんなふたりの様子がよほどツボに嵌ったのか、せせら笑いながらエリカはのたまう。

「協定違反はそちらが先。椿十志郎の件はこれでチャラにして差し上げます。よもや異存はありませんわね?」

 ペナルティにはペナルティ返しを。

 実に彼女らしい清算の仕方だった。これにはさすがに一メイドに過ぎない莉於には抗しきれるものではなかった。

「今日はそれだけ告げに来たのですわ。それでは悠様、お楽しみは明日からということで――ごきげんよう」

 最後に悠の頬に軽く口づけるとエリカは出口へと向かった。

「お待ち下さい、大鳥エリカ様!」

 莉於の静止にエリカは立ち止まる。

 振り返らないその背中に莉於は今後の趨勢を担う質問をぶつけた。

「ひとつだけお答えください。あなた様は悠様に男性と女性――どちらになって欲しいとお思いですか?」

 それによって莉於の対応も変わってくる。

 男性――悠の望む性別を答えるのならなんの問題もない。

 だが女性と――悠が望まぬ性別を答えるなら、富士宮と大鳥は戦うことになる。

 それは恐らくこの街を二分する戦火へと発展することだろう。

 悠が怯えきった瞳でエリカを見つめる。

 莉於は無表情に僅かな緊張を張りつけて答えを待った。

 そしてエリカは――さも当然とばかりに宣言した。

「どちらでも――悠様が男性でも女性でも、私は一向に構いませんわ」

 その発言に、悠はもちろん莉於でさえも言葉を失った。

「跡継ぎの問題は出てきますが、そんなもの後で何とでもなります。クローニング技術を応用して私と悠様の遺伝子を交配させた子供を作ることも現代の技術ならば可能でしょう」

「正気ですか……?」

 然り――と頷き、エリカは今日一番の綺麗な笑顔を見せた。

「そも、富士宮家嫡子の体質が天から授かった運命さだめだというのなら、それは当然、流れのままにまかせるのが一番でしょう。むしろそれを受け止める私たちのほうにこそ覚悟と度量が問われる問題なのではなくて?」

「ですが悠様は男性になることをお望みです」

「それは悠様ご自身が努力すればよいことですわ。あなたもいい加減、仕事とプライベートの分別をつけたらいかがですの?」

 莉於は――一瞬崩れかけた表情に、すかさず仮面を被り直した。

「莉於は悠様のメイドです。悠様の望みを叶えることにこそ全力を注ぐ所存です」

 その言葉を受けたエリカは、今度こそ侮蔑の混じった眼で莉於を嘲笑った。

「誰もそんな優等生の解答なんて欲してませんの。いいですか、悠様の性別が決定するまであと一週間しかありませんのよ。もちろん私も一人の女ですので、悠様が男性のほうがいろいろと都合がいいのは確かですわ――でも」

 床にしゃがみこむ悠を――現在は女性の身体になっている――を見つめるエリカ。

 愛おしそうに、怯えきったその瞳に、大鳥財閥数兆円の資産を引き替えにするほどの凄絶な笑みを投げかける。

「他人の手に預けなくては男性になってもらえないのなら、私は悠様が女性でいることを望みます。誰でもない私自身の気持ちをぶつけて、最後のその時には、必ず悠様の傍らを勝ち取って見せます。その結果が『女性』という性別であるのなら、ただそれを受け入れるだけですわ」

 エリカが示したその覚悟こそ――悠に好意を寄せる者が抱える最大のジレンマであった。

 悠に男性でいて欲しいとエリカが望んでも、結局は他者に――椿十志郎に悠を委ねなければならず、仮に椿十志郎が悠に女性を求めたなら、逆に自分以外の女性――悠に好意を寄せる女の子に悠を委ねなければならない。

 好意を持って近づけば同じ性別になり――決して結ばれることはない。

 身体同士で繋がり合うためには、自分以外の者に好きな人を預けなければならない。

 好きな相手を別の誰かに任せるくらいなら、例え望まない性別になったとしても自分が一番側にいる――大鳥エリカはその覚悟があると、本人を目の前に宣言したのだ。

「所詮メイドの仮面を脱ぎ捨てられないあなたなど私の敵ではありません。せめてそういう台詞は私と同じステージに立ってからおっしゃいなさいな」

 高らかに笑いながら男子トイレを去っていくエリカ。

 莉於は猛然とその背を呼び止めた。

「大鳥エリカ!」

「あら、負け犬風情がまだ何かありまして?」

「どんなにカッコつけても――スカートの端におしっこがついてやがりますよ」

「げえっ!?」

 セレブにあるまじき奇声を上げながら走り去るエリカ。

 取り残された莉於は悠に目線を合わせると先ほどの言葉を繰り返した。

「莉於の誓いは変わりません。莉於だけは悠様の――悠様だけの味方です。必ずや悠様の望む性別を勝ち取って見せます」

「莉於ぉ……」


 まさに春の嵐が去ったあと――男子トイレで見つめ合うふたり。

 悠が莉於の言葉を噛み締めていると、ふと、莉於の眼がトロンと剣呑なものに変わった。

「ときに悠様――またやってしまいましたね」

 悠の粗相の痕跡を莉於は侮蔑も露わに見下ろした。

「え、いや――今回のこれは不可抗力で、決して僕の責任では――」

「問答無用です。大変不本意ではありますが、莉於は悠様に厳しい態度を取らざるを得ません」

「その割には何となく顔が嬉しそうだあああああ!」

「気のせいです――この排尿頻尿困難野郎!」

「べるあべとんっ!」

 そして翌日から――悠は密かに『おしめ仕様』になるのだった。

「莉於、なんだかとってもごわごわするんだ」

「蒸れても安心、パーフェクトギャザーで通気性も抜群ですよこの野郎」


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