後編
運動会の一件以来、湊は俺に話しかけてくるようになった。
といっても、わざわざ教室まで訪ねてくる事はない。顔を合わせれば挨拶を交わし、偶然会えば会話をするという程度だ。それでも俺の中で彼女の存在は日に日に大きくなっていき……。
正直に言うと、俺は浮かれていたんだと思う。低学年の時なら周りの目を気にして突っぱねていたかもしれない。しかし、高学年になり周りのからかい方もその色を変え、俺自身満更でもない気持ちがしていた。
おそらくもっと前に湊と知り合っていたら、そんな風な感情を抱くまでもう少し時間が掛かっていただろうし、そもそもそれより前に関係が壊れていたかもしれない。そういう意味では、俺と彼女が知り合ったタイミングはベストだったとも言えた。
中学に入学して同じクラスになった俺たちは、同じ部活に入部した事もありその関係を急速に深めていった。そして、入学からひと月も経つと、俺たちはクラスの公認カップルになり(注:実際に付き合っていたわけではない。)、いちいちそうする事が面倒になった当人たちも次第にそれを否定しなくなっていた。そういう扱いに恥ずかしさこそ覚えたものの反発や苛立ちという感情はなく、またその事によって俺たちの関係がいい意味でも悪い意味でも変化する事はなかった。とはいえ、結局それから数か月後に俺たちは付き合い始め、すぐに自他ともに認める本当の公認カップルになったわけだが……。
きっかけは本当に些細なものだった。図書委員の仕事をするために二人で残った放課後の教室。そこで俺たちはキスをした。多分、放課後の誰もいない教室という雰囲気がそうさせたのだと思う。それと、今まで抑えてきたお互いの想いが。その時、この幸せな時間がこのまま止まればいいと思った。その時、この幸せな時間がこのままずっと続くものだと思った。そう。この時は……。
放課後。帰りのホームルームも終わり、クラスが開放的な空気に包まれる中、俺の心はひどくブルーだった。しかしそれは、この後に待っているイベントを考えると無理もない話である。
先程、去り際に担任から何気なくこんな事を告げられた。
「あぁ、佐藤。この後、帰る前に職員室に寄っていきなさい。高島先生がお呼びだ」
まるで死刑台に向かう囚人のような気分で、職員室へと足を進める。出来る事ならこのままアパートに逃げ帰りたいところだが、そんな事をした日には本当に地獄を見る事になるだろうから決して実行はしない。しないが……。
「すぅー……はぁー」
職員室の前で呼吸を一つ整え、勇気を持ってその場所に足を踏みいれる。
その人物は部屋の右側の真ん中付近に席を構えていた。高島呉羽。通称、呉羽ちゃん。陸上部の顧問にして現在も選手として日本選手権にも出場している現役アスリートだ。ちなみに、本人の前で呉羽ちゃんと呼ぶと叱られるので、通称は本人のいない所だけで使われている。
「おう、佐藤。よく来たな。トレーニングは続けてるか?」
「……」
「どうした?」
「いえ、昼休みに大神先輩にも同じ事聞かれたんで。えぇ、やってますよ。一応」
昼休みに大神先輩に答えたのと同じように呉羽ちゃんにも答える。
「一応、ね。まぁ、いいや。お前を今日呼び出したのは他でもない、その大神関係の事だ」
「大神先輩、ですか?」
「本当に困った奴だ、あいつは。昼休みが始まるや否や私の所にやってきて、佐藤を四継のメンバーに入れてくださいって。たく、選手選考に部長が口出すなんて、あいつも何を考えてるんだが」
失礼ながら、あの人は多分物事をあまり深く考えていないように思う。猪突猛進タイプだからな、あの先輩は。
「五月十日に記録会がある。そこで結果を残す事が最低条件だ。その上でちゃんと練習に参加して、私が必要だと思った時にだけお前をメンバーに入れる。ちなみに、記録会の申し込みは四月の二十日までだから。それまでによろしく」
「……失礼します」
「ん」
職員室を後にしてほっと一息吐く。ダメだ。やはり、呉羽ちゃんの前に立つとどうしても緊張してしまう。練習に参加していない負い目というのもあるが、何よりいつ辞めろと言われるか気が気でないのだ。自分で退部届を出しておきながら妙な話だが。
階段を降りて下駄箱に向かう。靴を履き換えて昇降口を出た。
「あ……」
そこで見慣れた背中を発見した。声を掛けるべきか掛けざるべきか悩んだ末、
「咲」
俺は小走りでその背中に追いつくと彼女の名前を呼んだ。振り返り俺の事を視界に捉えた咲。その表情には戸惑いの表情が浮かんでいた。
「佐藤先輩」
「今帰りか」
「えぇ」
「そうか」
自分でも『何を当たり前な事を聞いているんだ』と思ったけれど、俺と咲の今の関係ではそれも仕方のない話だ。
「……」
「……」
話しかけたはいいが会話は続かない。
どちらともなく沈黙のまま校門に向かって歩き出す。
「咲は家からここに通ってるのか?」
「はい」
「電車?」
「えぇ」
という事は、おそらく咲が向かう場所は三門駅。二人の帰宅経路は途中までは一緒だ。
最低限確認しなければいけない事柄を聞き終わり、再び二人の間に沈黙が訪れる。
やはり声をかけたのは間違いだっただろうか。俺がこの空気に耐えられないというよりも、こんな空気を咲に強要してしまった事に耐えられなかった。
校門を潜り学校の敷地を出る。
何か話さなければと思えば思う程、思考はうまく纏まらず言葉が口から出てこない。あの頃は、ほんの一年前まではこんな事絶対になかったのに。
「一年生はまだ部活に参加出来ないんですね」
そんな中、先に口を開いたのは咲の方だった。
「へ? あぁ……うん」
春休みから部活に参加している推薦組を除いて、一年生の部活参加は入学式のちょうど一週間後からという事になっている。しかも、最初の一週間は仮入部扱いのため、練習内容も軽めだ。
「今日から走る気だったので少し残念です」
「そうか……」
って、違うだろ。折角咲から話しかけてくれているというのに、何でもっとうまい返しが出来ないんだ、俺って奴は。
「みずほちゃんから聞いたんですけど、佐藤先輩自主練は続けてるって」
「え? まぁ、そうだね。自分自身体動かさないと気持ち悪いし、それに……」
まだ終わりにしたくないから。
「佐藤先輩」
「ん? 何?」
「私と今から一緒に練習してくれませんか?」
平日のこの時間に競技場に人の姿はなかった。
貸し切り状態は別に珍しい事ではない。いつもの事といえばいつもの事だった。ただ今日はその状況に一つ大きな違いがある。それは――
「お待たせしました」
更衣室で着替えを済ましたジャージ姿の咲が俺の前に現れる。
今日から部活に参加出来ると思っていたため、練習用具が鞄の中に入っていたらしい。ちなみに、俺の鞄の中には当然ながら練習用具は入っておらず、一旦部屋に寄らせてもらいそれを取ってきて今さっき更衣室で着替えた。
「じゃあ、始めようか」
「はい」
俺のいつもやっている練習に付き合いたいと咲が言うので、今日は俺の思うようにやらせてもらう。
まずは軽く立った状態で柔軟体操を行う。屈伸やアキレス腱伸ばし等本当に簡単なものだけをして、そのままジョギングに入る。ジョギングの距離は八百メートル程度、競技場に来た時は大体こんなもので済ます。そして、今度は座った状態でストレッチを行い、ドリルに移る。ドリルは本来ならもっとちゃんとやらなければいけないのだが、個人的にする場合は結構省略してやってしまう。ドリルに関しては中学時代簡単にしか教えてもらってない事もあって、俺が咲に教えていく形で進んでいった。
そこまでやって一度休憩を挟む。
「とりあえずアップはこんな感じなんだけどどう?」
「結構、しっかりやるんですね」
「個人的にやってる事だから、もっと適当にアップすると思った?」
「いえ、そうではなくて。中学の時はもっと簡単にアップしてたから、高校ではこれくらいしっかりやるのかなって」
あー。そういう意味ね。
「うーん。どうだろう? 学校にもよるんじゃない?」
「そうですか」
五分程座って休んだ後、百メートルのフロート走に入る。一本目はジャージのまま、二本目と三本目は上着を脱いで、動きを確認しながら六割くらいの力で行った。
「ユキ――佐藤先輩はフロートの時、どんな事を考えて走ってるんですか?」
三本を終えて少し一息吐いた所で、咲がふとそんな事を尋ねてくる。
「考えてる事、か……」
「すみません。急に」
「いや、考えてる事は動きとかギアを切り替えるタイミングとか色々あって難しいんだけど、結局の所フィーリングかな」
「フィーリング、ですか?」
「そう。自分のイメージした感覚的なものと今の自分の走りがどのくらい重なるか、みたいな? まぁ、俺の場合は、ね」
他の人は他の人で別の事を考えているかもしれないし、同じ事を考えている人も中にはいるかもしれない。
「俺はもう二本程走るけど咲はどうする?」
フロート走は大体俺の考えでは三本~五本が基本だと思っている。更に言えば、三本で上がるのがベスト。四本目と五本目はおまけとは言わないが、それに近いものだとも思っている。だから、咲に尋ねたのだ。どうする? ――と。
「私は……見てます。佐藤先輩の走り」
「そうか」
そう言えば、昔はよくこうして咲が見ている中で走ったな。
四本目。ジャージの下を脱いで短パン姿で走る。今度は少し速度を上げて七割~八割くらいの力で。ダメだ。今の走りはイメージから大分擦れた。今の感覚を頭の中で何度もリプレイし、修正箇所を見つけ出す。
五本目。四本目と同じような力で、今度は先程見つけた修正箇所を頭の片隅に置きながら……。よし。完璧ではないが、まずまずの出来だ。
ジャージを着直し、座って俺の走りを見ていた咲の元に向かう。
「凄いですね」
「ん? 何が?」
咲の隣に腰を下ろすと、ドリンクを手に取り口に含んだ。
「中学の時も凄かったですが、何かよりパワーアップしたというか……とにかく凄かったです」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」
「いえ」
約十分間体を休め、ようやく本格的な練習を始める。
今日のメニューは……咲もいるから軽めなものでいいか。時間もいつもより掛かってしまっているし。
「百五十メートル三本、七割くらいの力で行こうか」
「はい。あの、スパイクは?」
「どっちでもいいよ。俺は履くけど、最近履いてないんだったら少しずつ慣らしていった方がいいだろうし」
「……今日は止めておきます」
「うん。その方がいいかもね」
四継の二走・三走が立つ位置、その大体真ん中辺りに立つ。そして、その地点からホームを意識して走る。出来は……六十点といったところだろうか。合格ラインギリギリ。まぁ、一本目だしこんなものかもしれない。……と、いけない。ぼっと突っ立っていては次の走者の邪魔になる。早く退かなければ。コースの内側に入り、スタート地点に向かって歩き出す。それを合図にしてか、遠くに立つ少女がゆっくりと動き始めた。程なくして、少女が俺の横を走り抜ける。その姿に俺は――
「――今日はありがとうございました」
競技場の前で咲がそう言って俺に頭を下げる。
つまり、ここでお別れ。そういう事なのだろう。まぁ、確かにここからだと駅のある方向と俺の住むアパートのある方向は、真逆とまではいかないがほぼ正反対。そう考えると、ここで別れるのが当然といえば当然だ。
「こちらこそ。久々にいい汗が流せたよ」
「……体、本当に動かされてるんですね。動きを見てそれが分かりました」
「大分鈍ってはいるけどね」
「そ……」
咲が何かを言いかけて止める。どうやら気を遣わせてしまったようだ。
「……」
「……」
そのまま沈黙が流れる。練習中は全然気まずい雰囲気にならなかったというのに、日常に戻った途端これだ。
微かに赤く染まる空。楽しかったひと時はまるで魔法が解けてしまったかのようにあっという間に過ぎ去り、僕たちの関係も元の状態に戻った。
「じゃあ、私はこれで」
「あぁ」
踵を返して東側の出口へと向かう咲の背中を、俺はただぼっと見つめる。言いたい事や言わなければいけない事がたくさんある中で、俺はそのどれも言えずこうして立ち尽くす事しか出来ずにいた。咲の姿がどんどん小さくなっていく。そして、視界から消える。
さて、俺も――
そう思い、咲とは別の出口に向かって足を向けかけたその時だった。携帯が震える。見知らぬ番号からのメールだった。首を傾げながらも携帯を開き、その内容を確認する。
『件名:高城咲です。今日は本当にありがとうございました。
面と向かうとまともに会話出来ないと思うので、メールで失礼します。
久しぶりにユキ兄と練習出来て良かったです。また機会があったら誘ってください。言いたい事はいっぱいあるけど、今日はこれくらいにしておきます。それではまた学校で』
「咲……」
どうして咲が俺のメールアドレスを知っているんだろう? まぁ、予想はつくけど。
『PS』
「ん?」
三行程の余白の後にまだ文章があった。
『PS.ユキ兄は今も昔もこの先も私の憧れです。例え、陸上を辞めてしまったとしても……』
「……」
なんだろう。きつい事を言われたわけじゃないのに、咲の言葉がひどく胸に刺さった。それに、
「ここまで言われて、燻ぶってるようじゃ男じゃないよな」
何だかこう心に火が点いたような感じだ。まだ燃えてはいない。まだ……。だけど。
何もかもが順調だった。勉強も部活も。恋愛も……。
勉強の面では常に真ん中辺りにあった学年順位も気が付けば一割以内に収まり、部活の面でも一年の総体で県大会に進出すると翌年の総体では地方大会にまで勝ち上がりその年の新人戦ではついに決勝にまで進んだ。結果は八人中八位だったが、ようやく全国大会というものが現実味を帯びてきた。三年生になり、〝今年こそ〟という思いが強くなったそんな矢先だった。湊が倒れたのは……。
病院に運ばれた湊はそのまま入院。学校にも通えなくなった。幸いな事に意識はすぐに戻り、顔色が多少悪い事を除けば湊の様子は平常時と然程変わらないように見えた。俺は出来る限り彼女の側にいたかったが、学校にはちゃんと通い部活もしっかり熟した。そうしないと湊に怒られるから。そうした理由はそれだけだった。湊が入院して彼女以外のものは本当にどうでも良くなった。
五月に入り総体の地方予選が始まったが、相変わらず湊は病院生活を送っていた。どんなに疲れていても放課後は可能な限り病院に顔を出した。〝私の分も頑張ってね〟が半ば湊の口癖になりつつあった。
六月になると県大会に向けての練習が忙しくなり、病院に行く機会は少なからず減少した。全国大会出場はいつしか二人の夢になっていた。
七月。地方大会に勝ち進んだ俺はそれこそ死ぬ気で練習をした。全国大会に行く事が湊の笑顔に繋がると信じて……。
そして、俺は運命の日を迎える。
朝のホームルームが終わり、もうすぐ一時間目の授業が始まるという中休みの事だった。
「由紀人」
クラスメイトに呼ばれて扉の方を見る。
「お客さん」
客? 誰だろう? 同級生なら勝手に入ってくるだろうし、あの後輩二人のどちらかもしくは両方だろうか。
「佐藤、ちょっといいか」
しかし、そんな俺の予想に反し、扉の外から顔を覗かせた人物、それは陸上部の副部長・草壁先輩だった。
眼鏡が似合う知的な雰囲気の先輩で、スポーツマンタイプの大神先輩とは対照的に体の線は細く下手すりゃマネージャに間違われ兼ねない風貌をしている。というか、現に何度も間違われている。
「え? あ、はい」
慌てて立ち上がり、急いで教室の出口に向かう。
「悪いな。教室まで押しかけてしまって」
「いえ」
草壁先輩が廊下の隅に寄ったので俺もそれに続いた。
大神先輩はああいう人なので割と自然体で接する事が出来るが、他の先輩が相手だとさすがにそうはいかない。特にこの先輩を前にすると……。
「そう。緊張するな。何も取って食おうというわけじゃないんだから」
そんな俺の様子に草壁先輩が苦笑を浮かべる。
「はぁ……」
そう言われましても。
「まぁ、いい。時間もあまりない事だから、早速だが本題に入ろう」
その言葉に思わず身構える。
「佐藤由紀人。副部長として僕は君に一対一での勝負を申し込む」
「……はい?」
え? 何? 聞き間違い? もしくは、草壁先輩の冗句とか? それはさすがにないか、草壁先輩はそういうキャラじゃないし。
「えーっと……」
「日時は十四日の放課後。場所は学校のグラウンド。その日行われる部内記録会の最終レースに僕と君の対決を予定してる」
「本気、ですか?」
というか、正気ですか?
「あぁ。もちろん断ってもらっても構わない。しかし、その時は君の記録会への出場は見合わせてもらう」
「なっ!」
そんな事出来るはずが――
「すでに高島先生の了解は得てる」
呉羽ちゃん……。
「大神先輩も、ですか?」
「いや、廣にはまだ話していない。だが、高島先生はその事を含めて了承してくれてる」
「……」
有り得ない。普通なら。まるで笑い話だ。副部長の一任でそんな事を決定するなんて。だが、草壁先輩の目と表情は至って真面目。少なくとも当人にそのつもりはないようである。ならば、
「分かりました。その勝負、受けます」
俺も真面目に答えるとしよう。
「驚いたな。てっきりもう少し抵抗されるものだと思ってたのだが」
「他に選択肢はなさそうですから。それに――」
「それに?」
「いえ、何でもありません」
「……そうか。レースは四日後だ。それまでに君のコンディションが整ってる事を願うよ。じゃあ」
草壁先輩が俺の横を通り過ぎ、廊下の向こう側へと消えて行く。
四日後、か。果たしてそれまでに俺のコンディションは整うのだろうか。とりあえず何より、まずはスタート、だよな。こればかりは一人じゃどうしようもないし、さてどうしたものか。一人、一応宛てはあるが……。
「――位置について」
うわぁ。なんかその台詞聞くのも久しぶりだな。懐かしい……って程、前の話でもないか。たった数ヶ月。まだ半年にも満たない。
体を解しながらスタート態勢に入る。肩を揺すりつつ収まりのいい場所を探る。そして静止。耳に神経を集中してその時を待つ。
「よーい」
お尻を上げ、再び静止。
パーン、と乾いた音が競技場に響き渡る。
その音を合図に、――瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。まるで走馬灯のように頭の中に様々なシーンが駆け巡る。そのどれもが一人の少女との思い出で、そのどれもが掛け替えのない一瞬の連続だった。急にそれまで素早く流れ去っていた映像が通常の速度に変わる。
『由紀人君、落ち着いて聞いて』
携帯越しの声は少し震えていた。
『湊は……。湊は……』
シーンが変わる。
全中の予選第二レース。俺は三コースに立っていた。係員の号令に合わせてスタート態勢を取る。そして――俺はスタートを切った。
「……兄」
「え?」
誰かに呼ばれ、我に返る。気が付くと俺はスタート地点から五十メートル程行った辺りに立ち尽くしていた。
「大丈夫ですか? もし気分が悪いようでしたら日陰に……」
「いや、大丈夫。ちょっとぼっとしてただけだから」
「そうですか」
とりあえず俺の様子がおかしいという事もあり、咲と一緒に建物の日陰に入りそこに腰を下ろす。疲労や暑さによるものではない汗が顔の横を一筋流れた。
「本当に大丈夫ですか?」
「うん。ゴメンな。心配かけて」
「いえ……」
「それよりどうだった?」
聞くまでもないような気もするが、わざわざ競技場にまで出向いてもらっている事だし折角だから尋ねておく。
「えーっと……ははは」
咲の感想=苦笑い。
「だよな」
あれから大分時間も経っている事だし少しはマシになっているかと思ったのだが、現実はそう甘く出来ていないようである。
「原因はなんなんでしょうか?」
「……多分、全中のあのレースがトラウマになってるんだと思う」
軽々しくトラウマという言葉を使うと何だか不幸自慢をしているみたいで嫌だが、他に相応しい言葉が見つからなかったので敢えてその言葉を遣わせてもらう。
「やっぱり……」
三つの大会を勝ち進み全国まで行ったものの、その時の俺の精神状態はそんな大舞台でまともなスタートを切れるようなものではなく……簡単に言えば完全に出遅れたのだ。それはもう見事なまでに。
「お姉ちゃん――」
咲の言葉に思わず体がぴくりと動く。
「の事が原因って事なんでしょうか?」
「全中の時は……。でも、多分あのレースを棄権していれば、少なくとも今こんな事にはなってなかったと思う」
とはいえ、もし今同じ状況にあっても棄権は出来ないと思うが。湊が応援してくれて湊と一緒に勝ち取った全国への切符をただ手にしただけでそのまま捨てるなんて。それに、あの切符を勝ち取るために払った犠牲は決して安くはなかった。
「あの、不仕付けな事を聞くようですみませんが、ユキ――佐藤先輩がスタートする時どんな感じなんですか?」
「どんな感じって?」
「その、だから、どういう風に集中出来なくなるっていうか、調子が悪くなるっていうか……」
「うーん……。別にスタート態勢に入る時は普通なんだよね。ただ音を聞くと――」
「音?」
「そう。ピストルの音。それを聞くと、頭の中に色んな事が浮かんできて……その、湊の事が……で、最終的には全中の時のあのレースに行き当たるっていう、感じかな」
「……」
咲が黙り込んだのでまた気を遣わせたかなと様子を伺うが、どうやらそうではなく彼女は一生懸命何かを考えているようだった。
「あ」
いいアイディアが出たのか、咲が声を上げる。
「何? どうかした?」
「いえ、こんなの本当にただの思いつきですし、実際に実行するわけにもいかないですし、それに……」
「ただの思いつきでも何でもいいから、とりあえず聞かせてくれる?」
それ自体が打開策にならなくても、打開策を思い付くためのヒントやきっかけにはなるかもしれない。
「……はい。本当に馬鹿な思いつきなんですけど――」
そう前置きをした後、咲は自分の思いついた案を話し始めた。
その場所を訪れるのは本当に久しぶりだった。
部室棟一階の端。そこに陸上部男子の部室はあった。
部室に着くと、中には入らず外で着替えを開始する。一年生たちの訝しげな視線が俺に突き刺さるが、気にしていない風を装い着替えを続けた。
着替えを終えた俺は、運動に必要な物だけ手に持ちグラウンド脇のプレハブ小屋に歩を進める。
「来たな、佐藤」
ジャージ姿の呉羽ちゃんが、腕組みをしてプレハブ小屋の入り口横に立っていた。
「というか、よく受けたな、こんな馬鹿げた勝負」
「勝負を認めた張本人がそれを言いますか?」
「いやー、ノリって怖いな」
「……まぁ、いいですけど」
ノリだろうが何だろうが、俺がこれから草壁先輩と勝負をするという事実は変わらないわけだし。
荷物を適当な場所に置き、グラウンドの方に進む。
「佐藤、勝てよ」
背後から掛けられた言葉に、足を止める。
「いいんですか? 顧問が片一方の肩を持つような事を言って」
「いいんだよ。それが部全体の利益になるなら」
利益、ね。誰も彼も俺を買い被り過ぎだ。でも――
「期待には応えましょう」
再び止めていた足を前へと動かす。
短い期間ながらやれるだけの事はやった。後は……。
グラウンドに足を踏み入れる。競技場とはまた別のタータンの感触がひどく懐かしい。
部内記録会の時、練習メニューは組まれない。記録会までどう時間を過ごすかは各自の自由。だから、俺も自由にやらせてもらう。
アップ中も視線こそ俺に集まるが、俺に何かを言ってくる者はいなかった。というより、部全体に妙な緊張感が漂っており、口を開く者自体がほとんどいなかった。
そして、時間がやってくる。
五時三十分。スタート地点付近に短距離メンバーが揃う。その中には大神先輩や草壁先輩はもちろん、みずほや咲の姿もあった。この記録会は男女合同で、尚且つ実力のはっきりしていない仮入部者のデータ収集も兼ねているのだった。
まず一年生が二人ずつスタート位置に立つ。組み合わせは前以て顧問によって決められており、大体力が拮抗した者同士がペアになるようになっている。データのない仮入部者はその例に漏れるが。
一年生が全員走り終えた。みずほも咲も一応一緒に走った相手よりは早くゴールをし、記録も本人たちにとってそう悪い物ではなかった。
続いて二年生と三年生が走る番になる。ここまで来るとペア編成に学年は関係なくなり、二年生と三年生が並んで走るというケースも珍しくなくなってくる。俺の走る順番は七番目。草壁先輩に告げられた通り最終レースだった。
一つ一つレースが消化されていき、その度に刻一刻と俺の走る順番が近づいてくる。六番目のレース。大神先輩と加藤先輩が走り、大神先輩が大差でその勝負を制する。タイムは今日一番。さすがの貫録だ。
「次、佐藤、草壁」
呉羽ちゃんによって次走る二人の選手の名前が呼ばれる。その瞬間、更に一段階周囲の空気が引き締まったような感じを受けた。
スタート位置に着く。
「位置について」
体を揺すりつつスタート態勢に。ポジションを探り、静止。
「よーい」
お尻を上げ、もう一度静止をする。
ピストルの音に反応してまず草壁先輩が飛び出した。俺は少し遅れて出る。
出遅れた。だが、まだ決定的な差はついていない。
低い姿勢を維持しながら、体を起こすタイミングを計る。〝ここ〟という所から徐々に体を起こしていき、体が起きたらギアを変えるように走りに一度目の変化をつける。ストライドを大きく取り、腕の動きを意識する。五十メートル付近から更にスピードを上げ、体の動きを更に大きく。
草壁先輩との差は少し縮まったが、未だ俺の方が後方に位置している。
後半、残り三十メートルという辺り。ここから追い込みとして、二度目のギア切り替えを行う。スピードを上乗せするイメージを持ちながら、動きを寄り大きなものにしていく。そして――
倒れ込むようにゴールを駆け抜ける。ゴールする寸前の意識は若干曖昧だったが、何とか胸を突き出す事は出来た。タイミングが合っていたかは別として……。
どっちだ? どっちが勝ったんだ?
膝に手を置いて、結果を待つ。
「草壁先輩のタイム、十一秒〇三」
右側でタイム計測をしていた推薦組の一年生が、草壁先輩のタイムを告げた。
「佐藤先輩のタイム――」
左側でタイム計測をしていたもう一人の推薦組の一年生が、緊張した面持ちで俺のタイムを告げる。
「――惜しかった、ですね」
部活終了後、俺とみずほは部室棟前で待ち合わせをして一緒に帰宅の途へと着こうとしていた。ちなみに、咲は同じ駅を利用するクラスメイトが仮入部者の中にいるらしくその子と共に帰るようだ。
「しょうがない――って言っちゃダメなんだろうけど、やれる事はやったし納得はしてる」
「そう、ですか……。そう、ですよね」
グラウンドの縁を通り、中庭へ足を踏み入れる。
「で、でも、びっくりしました。スタート、普通に切れてたので」
重くなりかけた空気を換えるように、みずほが別の話題を振ってくる。
「ん? まぁ、半分インチキみたいなものだけどね」
「インチキ?」
首を傾げるみずほに、俺はズボンのポケットから取り出したある物を見せた。
「……耳栓、ですか?」
不思議そうな表情で耳栓そして俺の顔を見るみずほ。
「そう。これが手品のタネさ」
「え? もしかして、これ着けて走ってたんですか?」
みずほが驚くのも無理はない。普通、短距離走のスタートでは音に反応をしてスタートを切る。その音を自ら遮断したのだ。本来なら、大きく出遅れるどころの話ではない。そう。本来なら……。だが、そのための練習を二日間ながらしてきた俺は、辛うじてあの場面でスタートが切れた。全て、練習に付き合ってくれた咲のお陰だ。
「うん。だから、今日の俺の走りは半分インチキ。本番じゃこんなの遣えないからね」
「……凄い事考えますね」
「ははは」
まぁ、考えたのは俺じゃないけど、それをわざわざみずほに告げる事もないだろう。当の本人はただの思いつきだと必死に自分の提案の採用を拒んでいたわけだし。
中庭・昇降口と横切り、校舎の反対側に出る。
「結果オーライ、って事なんですかね。何だか私にはまだ、状況がうまく呑み込めていませんが」
草壁先輩とのあのレースで俺は負けた。タイムは十一秒〇八。僅か〇コンマ〇五秒の差だった。しかし、負けは負け。これで俺は次の記録会に出場出来なくなる――はずだった。
「どういう事なんでしょう?」
「ま、最初から草壁先輩は勝敗に関しては何も言ってなかったから」
草壁先輩の出してきた条件は〝この勝負を受けなければ――〟というものだった。つまり、それを言葉通りの意味として受け取れば、〝勝負さえ受ければ別に制約は加えない〟という風にも取れる。……本当に、そういう風に取れるというだけだが。
「由紀人さんにはこうなる事が分かってたって事ですか?」
「うーん。分かってたっていうよりは、予想がついていたっていう方が近いかな」
草壁先輩の性格からして何か裏があると思っただけで、特に確証があったわけではない。それに、だから負けてもいいという気持ちはこれっぽっちもなかった。純粋に勝負をして単純に負けた。ただそれだけだ。
「あー。明日から真面目にやらないとな」
「そうですよ。みんなの前であんな宣言したからには、これからはちゃんとして下さい」
「あれは……場の流れというか雰囲気というか……」
誰だってああいう立ち位置に置かれたら、思わず日頃言わないような事を口走ってしまう事だってあるはずだ。
「はいはい。何でもいいですけど頑張って下さい。私にとって、由紀人さんは……憧れの人、なんですから」
恥ずかしさからか、最後の方は早口に捲し立てたみずほ。その顔は赤かった。
「ありがとう。頑張るよ、俺」
「うん……」
自分のためにも彼女たちのためにも、これから頑張らなきゃ。
「――あ」
突然、みずほが足を止める。
「何?」
それに倣って、振り返り俺も足を止めた。
「あの、由紀人さん。本当にどうでもいい事なんですが、自主練ってどうなるんでしょうか?」
「え? あぁ……」
そうか。休部中に体が鈍らないように始めた朝の自主練だ。そういう意味ではもうこれ以上続ける必要もないわけか。
「ま、様子見ながら続けていこうかな。急に止めるのも何だし」
「そうですか……」
なぜかほっと胸を撫で下ろす仕草をするみずほ。そんなに朝の自主練を楽しみにしていたのだろうか?
「これまで通り、みずほは来ても来なくてもいいからさ。気楽にやってこう」
「はい! 今まで通り、気楽に!」
「……」
もうすでにこの時点で気楽な感じではないのだが、そこを指摘してもおそらく堂々巡りになるだけなので止めておこう。それに、何だかんだ言ってこういうみずほのノリは嫌いじゃないし、何よりいつもこの快活さに助けられている。
「ありがとう、みずほ」
「……はい?」
俺の突然のお礼に、みずほはきょとんとした表情で小首を傾げた。
「何でもない。早く帰ろうぜ」
そう言い放つと、俺は一人先に正門へと歩き始めた。
「あ、待って下さいよ。由紀人さん」
それを追ってみずほが慌てて俺の隣に並ぶ。
「明日から一緒に頑張りましょうね、由紀人さん」
「頑張るのは俺だけでしょ」
「いいじゃないですか。一緒に頑張って行きましょう。インターハイ」
「――ッ!」
〝きっと行きましょう。一緒に頑張って、一緒に全国に〟
「どうかしました?」
「いや、そうだな。きっと行こうな、インターハイ」
「はい!」
昔果たせなかった彼女との約束。だけど、今度は……。




