前編
「――は、は、は……」
腰に手を当てて乱れた息を整える。
込み上げる熱と胃の重み、そして軽い疲労感。朝早いこの時間の公園に俺以外の人影はなく、人の目を気にする事なく俺はその心地よさに身を委ねる。
……本当に何やっているんだろう、俺。
いや、朝から体を動かす事自体は非常に健康的でいい事だ――が、しかし、今俺のしている事はある種の逃避行動。続けるべきか辞めるべきか。俺はその答えを未だ出せずにいる。
「はぁー……」
ダメだな。もう半年近く経つというのに。高校生の半年。自主練を続けているとはいえ、ブランクとしては十分過ぎる期間にも思えた。普通に考えれば辞めるべきなんだろうけど……。
ドリンクを一口含むと、立ちあがり、出口に向かって歩き出す。
休憩や動きの確認に使っている公園から、俺の住むアパートまでは徒歩五・六分といった所。火照った体と心を落ち着かせるにはちょうどいい距離だ。
体は動く。感覚も悪くない。後は――
「由紀人さん!」
公園から出た所でいきなり名前を呼ばれる。
「みずほ」
顔を上げると目の前に、上は半袖シャツ、下はジャージ姿という出で立ちの少女が立っていた。
髪は短め(ショートカットとセミロングのちょうど中間くらいの長さ、かな?)、身長は少し低め(正確には知らないが見た感じだと百五十センチ前後?)。彼女の第一印象を一言で言えば、『スポーツ少女』といった所だろうか。
「もう。なんで私を置いて先に行っちゃうんです?」
彼女は俺と同じアパートに住む女の子で、学校も俺と同じ所にこの春(というか今日)から通う予定だ。ちなみに、みずほは運動部の特待生で、すでに入学前から部活に参加するために学校に登校している。
「時間になっても来ないからだろ」
「少しくらい待ってくれてもいいじゃないですか」
「少し、ね」
申し訳ないが俺の基準じゃ四十分を少しとは言わないのだ。何せ、その時間ですでに今日の朝練は終了しているのだから。
「というか、無理して俺の練習に付き合う必要ないんだぞ。まだ部活に所属していないのならまだしも、ほぼ毎日そっちでちゃんとした練習してるんだから」
何より、俺の練習に付き合った所でみずほが得られるものは少ないはずだ。逆に、時間や体力等を浪費して、みずほにとってはマイナスになるんじゃ……。
「だって……」
「とりあえず今日みたいに寝坊した日には無理して来なくていいから。これから学校も始まる事だしさ」
「はーい」
いい返事だ。多分、返事だけだけど。
みずほと並んで、住宅街を俺達の住むアパートに向かって歩く。
時刻は七時二十分過ぎ。散歩をする人達に交じって通勤・通学をする人の姿もちらほら見受けられた。こういう姿を見ると、学校近くに越してきて本当に良かったとしみじみ思う。
「今日は遅めでいいんだっけ?」
「はい。九時……二十分に教室にいればいいみたいです」
「じゃあ、九時少し前にアパート出れば間に合うな」
「……もしかして送っていってくれたりします?」
ぽつりと俺が言った独り言にみずほが食いつく。
「え? あ、いや……」
本気でそんなつもりなかったんだが。ただ単に、俺自身が確認するためとみずほに再認識させるために聞いただけで。しかし、さすがにこんな風に期待に満ちた目で見つめられては、もう今更訂正する事は無理そうだ。
「そうだな。みずほがもし迷惑じゃ――」
「迷惑じゃないです!」
かなり喰い気味に答えを返された。そんなに俺と登校したかったのだろうか?
「やった。由紀人さんと登校」
まぁ、そんなに手間な事じゃないし、みずほがこれだけ喜んでくれるなら別にいいか。
アパートの前で待つ事十分余り。制服姿のみずほが俺の前に姿を現す。
「お待たせしました。由紀人さん」
「うん。行こうか」
ここから俺たちの通う西条高校までは徒歩で十分程。往復でも二十分という距離だから、散歩としてもそれ程苦にはならないだろう。
「あのー、由紀人さん?」
「ん?」
「出来れば少しくらい触れて欲しいんですけど……」
「触れる? どこに?」
「いえ、そういう意味ではなくて、ですね」
あぁ、なるほど。
何やら俯いてもぞもぞしだしたみずほを見て、その言葉の意味を理解する。確かに、少し鈍過ぎだったかもな。
「似合ってる。可愛いよ、みずほ」
「あ、ぅ……」
望み通りに感想を言っただけなのに、なぜかみずほは余計に顔を俯かせてしまう。その顔はよく見えないが赤くなっているように見えた。というか、耳は真っ赤だ。
「なんだよ。感想が欲しかったんだろ?」
「だって、そんなにストレートに言われるとは思ってなかったですから」
「あー」
そういう事。
「ゴメン。癖で。これくらい言わないと納得しない奴と長い間一緒にいたら」
「奴?」
みずほが小首を傾げる。
「いや、なんでもない。忘れて」
「あ、はい……」
気にしている様子を見せながらも、俺の言葉に頷くみずほ。
しまった。そりゃ、あんな言い方されたら引っ掛かるよな。これからは気を付けよう。
「由紀人さんは登校初日ってどんな感じでした?」
「うーん……。そうだな。別にどうって事はなかったかな。中学時代の知り合いもいたし、部活に参加するために学校にはそれ以前から通ってたから」
「そうですか……」
「何? 緊張してるの?」
「はい。少し」
様子を見る限り、〝少し〟には見えないが。
「大丈夫だよ。みずほならすぐに慣れるって」
「またぁ。そんな気休め言って」
気休め。確かに気休めだが、一ヶ月近くみずほを見てきて本心からそう思う。
住宅街を抜けると、一旦大きな道路に出る。信号待ちをするためにそこで俺たちは足を止めた。
「でも、意外だな」
「何がです?」
「てっきりみずほはそういう事に物怖じしないタイプだと思ってたから。俺の時は実際そうだったし」
「由紀人さんは……別です」
「なんでだよ。俺は緊張するに値しなかったってか」
「違います!」
急にみずほが声を張り上げる。俺としてはほんの冗談のつもりだったのだが……。
「ゴ、ゴメンなさい。だけど、違うんです。由紀人さんの場合はその逆で、緊張し過ぎてテンパって必要以上に喋り過ぎたというか」
「あ、そうだったんだ」
確かに、あの時のみずほは多少妙ではあったが。
「もしかして、俺怖かった?」
だとしたら、悪い事をした。
「いえ、そんな事! 由紀人さんは私の憧れでしたから」
「憧れ?」
よく意味が分からない。
「私、中二の途中まで幅跳びやってたんです」
信号が赤から青に変わり、再び歩き出す。
「そっちの才能は全然なくて結局幅跳びでは地区予選止まりだったんだけど、中二の時に先輩が全中の地方予選まで行って応援をするために私も会場に行きました。そこで一人の選手の走りに目を奪われました。その選手が別に一番速かったわけじゃありませんでした。でも、私にとっては彼の走りが一番だったんです。その選手が――」
選手の名前は告げずにみずほが俺の事を見る。つまり、そういう事なのだろう。
「その走りを見た事をきっかけに私は短距離に転向しました」
そして、結果を残してウチの学校にやってきたわけか。一年足らずで結果を出したという事は、みずほの言葉を借りれば〝こっちの才能はあった〟って事だな、きっと。
「ゴメンな」
「え?」
「……こんなんでさ」
本当に申し訳ない。折角、俺なんかに憧れてくれたのに。出来る事なら今すぐ土下座して詫びを入れたい気分だ。
「そんな! それに、私は別に由紀人さんが試合に出れなくても、由紀人さんの事す――」
「す?」
「す、素晴らしい人だと思ってますから!」
言葉を最後まで言い終わる前に、突然俺を置いて走り出すみずほ。
呆気に取られた俺は、その場に立ち尽くして去っていく彼女の背中を――
「って、見送っちゃダメだろ」
慌てて追いかける。
その後、すぐにみずほには追いついたのだが、学校に着くまでの間彼女は全然俺の顔を見てくれなくなった。
――チャイムの音で目を覚ます。
どうやら、寝てしまっていたようだ。
浅い眠りだったためか覚醒までの時間は意外と早く、特に意識が混乱する事もなかった。ただ少し体と頭が重い。
「由紀人さん、いませんか?」
部屋の外からみずほが俺の事を呼んでいる。
そうか。もうそんな時間か……。
「開いてるぞー」
元々寝るつもりなんてなかったので、部屋の鍵は閉めていなかった。
「あ、はい。失礼します」
宣言の後、扉が開く音が聞こえる。ちなみに、この位置からではみずほの入ってくる姿は見えない。
「お邪魔しまーす」
そう言うみずほの声は、少し恐る恐るといった感じだった。考えてみれば、俺の出迎えなしでみずほがこの部屋に上がるのは初めてだ。若干遠慮の気持ちがあるのかもしれない。
「お帰り」
ダイニングキッチンを抜けて部屋に入ってきたみずほを、俺は上半身を起こしながら迎えた。
「もしかして、寝てました?」
「あはは……」
みずほの問いに苦笑で答える俺。
我ながら、真昼から何やっているんだか。お恥ずかしい限りだ。
「すみません。出直しましょうか?」
「ううん。それより、どうだった? 登校初日は」
「あ、えー……。まぁ、緊張しました」
「そうか」
まだ授業が始まったわけではないし、みずほはもう学校自体には行き慣れているわけだからその辺微妙かもしれない。
「あの、由紀人さんにお聞きしたい事があるんですけど」
「ん?」
なんだろう? しかも、帰ってくるなり。
「由紀人さん。高城咲さんってご存知ですか?」
「……え?」
驚いた。なんでみずほの口からその名前が?
「今日部活の時に入部希望の子が来てて、どうやらその子が由紀人さんの事を知ってるみたいなんですよ。心当たりあります?」
「さぁ、知らないな……」
内心の動揺を悟られないよう、それだけを何とか口から絞り出した。
なんで咲が? いや、可能性はあったか。彼女は俺たちを常に追いかけていたのだから。
「――由紀人さん?」
「え? あぁ、すまん。ぼっとしてた」
「うふふ」
俺のそんな行動が可笑しかったのか、みずほが嬉しそうに笑う。
「起き抜けですもんね」
「うっ」
なんか知らんがみずほに馬鹿にされたような……。別に腹は立たないが少し凹む。
「由紀人さん、お昼まだですよね」
「ああ。寝てたからね」
「私もまだなんで何か作りますね」
「あ、うん。頼むよ」
掛け時計を見ると、時刻は十二時を十分程過ぎた所だった。今から用意してもらえばお腹がちょうどいい具合に空いた頃に昼食が出来上がりそうだ。
「今日は部活なかったんだっけ?」
台所で昼食の準備をし始めたみずほに、こちらの部屋から声をかける。
「はい。二・三年生は午前中の内に練習を終わらせてダウンに入ってましたけど、一年生は軽く顧問の先生の話を聞いて解散でした」
「ふーん」
そう言えば、去年もそんな感じだったかも。
「でも、凄いですよね。入学初日にもう見学に来るなんて。その子だけでしたよ。今日見学に来てたのは」
「その子とは話したのか?」
みずほの口ぶりからしてその可能性は高いように思えた。
「偶然、その子と同じクラスだったんですよ、私。それで帰りがけに少し」
「そうか」
その時に出たのだろうか俺の話が。確認したいような気もするが、藪蛇という事もあるので止めておいた。
「由紀人さん。お昼、スパゲッティでいいですか?」
俺の部屋にある食材や調味料を確認した結果、みずほの中でそう結論が出たらしい。
「ああ。味付けもみずほに任せるよ」
「了解です」
暫くすると、料理をする音に混じってみずほの鼻歌が聞こえてきた。少し調子外れのネズミのマーチ。そのBGMがやけに心地よかった。
彼女との出会いは最悪だった。
小三の夏、運動会で俺は初めて同じ年の子に駆けっこで負けた。しかも、相手は女の子。その年代の男子にとって足が速いというのはかなり重要なステータスで、その分負けた事によって当時の俺が受けたショックや恥ずかしさは相当なものだった。
後から知った話だが、俺の負けた女の子は高城湊という名前の子で、運動会の二月前に隣のクラスに転入してきたばかりの転入生だったらしい。
俺はその名前を心に刻むと共に決意した。来年は必ず勝つ、と。
その翌年、俺は彼女に見事にリベンジを果た――せなかった。前年よりは差を縮めたとはいえ、二年連続での敗北は屈辱的だった。そして何より、俺の敗北がまぐれや油断に寄るものではないと証明されてしまったわけだ。悔しかった。だけど、恥ずかしさはもう感じなかった。女とか男とか関係なく、彼女に、高城湊に勝ちたい。ただ単純にそう思った。
そのまた翌年、俺はまさに背水の陣といった面持ちでその場に立っていた。もう負けられない。負けるわけにはいかない。そんな気持ちが俺の頭の中を駆け巡っていた。一方で彼女は笑みをその顔に浮かべて余裕の表情。それがまた俺の心に火をつけた。
二度の敗北に寄る悔しさ故か負けられないという強い思い故か――いや、今冷静に考えれば単に男女の差が徐々に運動能力にも表れ始めただけだと思うが、その時の俺はそんな事に気づきもしなかった。――その年俺はようやく彼女から初勝利を収めた。勝利の余韻に少しの間浸っていた俺だったが、すぐに我に返り彼女の姿を探した。悔しがっている彼女の様を見たいという本当に器の小さい思いからだった。しかし、彼女は全然悔しがっておらず、それ所か自分から俺の元に寄ってきたかと思うと笑顔で俺にこう告げたのだった。〝あぁ、遂に負けちゃったか。でも、楽しかった。ありがとう。佐藤君〟と。その時、俺は初めて彼女と真正面から向き合った気がした。
入学式の日は基本的に一年生だけが登校、翌日の始業式の日は基本的に二・三年生だけが登校。というわけで、一年生から三年生までが揃って登校したのは春休みが明けて二日経った今日が初めてだった。
昼休み。それぞれが昼食を取るために何らかの行動を示す中、俺は椅子に腰を下ろして一人その時を待つ。
「よぉ、由紀人。一緒に飯食べね?」
俺の席に寄ってきた男は、中学時代からの友人で去年も同じクラスだった智也。勉学に対しては不真面目な奴だが、こと野球に関しては誰よりも熱心でその点においては本当に頭が下がる思いである。
「悪い。今日は先約があるんだ」
「ふーん。なら、仕方ないな。分かった。他の奴誘うわ」
俺の言葉を受けてあっさりと引き下がる智也。こういうさっぱりした所も、俺がこいつと長い間友人をやっている理由の一つかもしれない。
それから程なくしてポケットの中の携帯が震える。取り出して開くと、メールが届いていた。差出人はみずほ。内容は『着きました』という簡潔なものだった。こちらとしては別に直接声をかけてもらっても良かったのだが、まだここでの学校生活に慣れてないという事もあって二年の教室には顔を出し辛かったのかもしれない。
席を立ち扉に向かう。廊下にはみずほの姿――ともう一人の女生徒の姿が。
隣に並ぶみずほとは対照的に肩甲骨付近まで伸びた長い髪、少し気の強そうな顔つき。一年以上会っていなかったとはいえ、俺が彼女の事を見間違えるはずがない。
「咲……」
「どうもお久しぶりです。佐藤先輩」
他人行儀な咲の呼び方。それが今の俺と彼女の距離を現していた。
「もう。やっぱり咲ちゃんの事知ってるんじゃないですか。なんで昨日はあんな事言ったんですか?」
そんな事はこの状況を見れば一目瞭然だと思うが。
「どうして……」
咲に目線をやり、尋ねる。
「同じクラスのみずほちゃんに誘われたから。それと、佐藤先輩とお話したかったから」
言葉をうまく紡げなかった俺の質問の意図を察し、咲が俺の聞きたかった事をしっかりと答えてくれた。
「由紀人さん。話なら歩きながらでも出来るでしょ? 早く学食に行きましょ」
若干空気が読めない少女が、元気な声で俺の案内を促す。
「あぁ……。そうだな」
船頭として先頭に立ち歩き出す。決して、咲から逃げるために先行したわけではない。
「咲ちゃんは由紀人さんとはどういう関係なの?」
「中学が一緒で……」
「へぇー。あ、部活で知り合ったの?」
「……うん」
などと楽しそうに会話をする二人を尻目に、俺は一人良からぬ事を考えていた。つまり、この場からの逃走。だが、そんな事は当然出来るはずなく――
「中学時代の由紀人さんってどんな感じだったのかな?」
「……真面目で誠実で、それでいて熱くて。面倒見のいい優しい先輩、だった」
本当に耳の痛い話だ。期待が大きい分、裏切られた時の怒りや痛みはそれに比例して大きくなる。その原因を作ったのは俺。だから、咲の言葉は全て俺が受け止めて受け入れなければいけない。そうする事が今の俺に出来る唯一の誠意の見せ方だろう。
学食に着く。今日みずほとした約束は〝学食への案内〟。つまり、もう約束は果たしたわけで、このまま俺がこの場を去っても――いいわけないよな。そして、更に言えばこの後の展開を俺は読めている。
「じゃあ、私場所取りするんで、二人は先に注文してもらっていいですか?」
ほらきた。俺と咲が知り合いだとみずほに知れた時点でこうなる事は半ば予想出来ていた。だからこそ、余計に気が重かったのだ。
「うん。佐藤先輩もそれでいいですよね?」
「あぁ……」
この状況において俺に、頷く以外の選択肢はどうやら用意されていないみたいだ。
みずほと別れ、二人でカウンターの方に足を進める。券売機でまず券を買い、それを各々分類されたカウンターの上に置く。後はおばちゃんが券の置かれた順(多少前後する)に料理を作り並べていくからそれを待つ。
「とまぁ、こんな感じかな」
実際に一緒に行動をしながら、咲に注文の仕方を教えていく。と言っても、一度口頭で説明すれば理解出来るような簡単なものだが。
「分かりません」
「え?」
何も難しい所はなかったはずだけど……。
「なんで先輩は陸上を辞めたんですか?」
あぁ、そっちね。というか、辞めてはないんだけど……わざわざそこを指摘する必要もないか。どちらにしろ、咲にとっては今の俺の状態なんて辞めているも同然だろうし。
「スタートが切れなくなったから」
「スタート?」
「そう。正確に言えば、本番のスタートが切れなくなったから俺は顧問に退部届を出した」
ま、受理はされなかったが。
「別に試合で思うようなパフォーマンスが出来なくても、少なくとも練習には出れるはずです。なのに、なんで……」
必死に押し殺しているようだが、咲の声には確実に怒気が混じっていた。
「そうだな。だから、結局俺は逃げたんだと思う。他の部員から腫物に触るみたいな扱いをされる事から。そして、自分がスタートを切れないという事実から」
本当はそこにもう一つ理由が付け加わるのだが、敢えてそれを言う必要はないだろう。
「見損ないました。私の憧れたユキ兄はそんな人じゃなかった」
「ゴメンね。でも――」
いや、言い訳はすべきじゃないか。もう遅いかもしれないが、これ以上少女の憧れを汚したくない。俺に憧れてくれていたという少女の思いも。
「お姉ちゃんはあなたに自分の――」
俺の顔を見た咲が、途中で言いかけた言葉を止めた。その表情には驚きと悲しみが混在していた。
「す、すみません。私、私……」
「大丈夫だよ。俺は気にしてないから」
逆に、どうしてここまで咲が取り乱しているのかが俺には分からなかった。そう言われて当然な事は俺自身が一番自覚しているというのに。
「佐藤先輩、自分で気が付いてないんですか? 今、先輩今にも泣きそうな顔してますよ」
「え?」
咲に指摘されて自分の顔に手をやる。当たり前の事だが、そんな事をしても自分の表情は自分では分からない。
「本当は分かってるんです。先輩には先輩の人生や選択があるって。それをお姉ちゃんも望んでるって。頭では分かってるんですけど……」
俺は敢えて咲の言葉を肯定も否定もしなかった。どちらの意見を述べてもそれが正しい事でない気がしたから。
食事を終えて学食を出た所で二人と別れる。
正直、咲との再会には驚かされたが、まぁ早めに会っておいて良かったのかもしれない。彼女との間に出来た蟠りはまだ当分は消えないだろうけど、これから顔を合わせれば挨拶するだろうしぎくしゃくしながらも言葉を二・三くらい交わすだろう。今はそれでいい。俺の今置かれた状況を考えれば、そう出来るだけでも幸せなのだから。
「後輩二人もはべらせていい身分だな」
それが俺に対する言葉だという事はすぐに分かった。内容もそうだが、何より声に聞き覚えがあったから。
「大神先輩」
振り返り、その人の名前を呼ぶ。
大神廣。陸上部の三年生部員にして、部長。そして、去年短距離としては二年生で唯一インターハイの舞台に立った人だ。
「よっ、佐藤。久しぶりだな。元気してたか?」
「えぇ、まぁ……」
屈託のない笑顔を浮かべながら、大神先輩が俺の方に近寄ってくる。
百八十を優に超える身長とすらっと伸びた手足。そして、適度に筋肉のついた身体。まさに爽やかなスポーツ選手といった風貌の大神先輩。そのどれもが欠けている俺としては羨ましい限りだ。
「そうか。練習は? 続けてるか?」
「はい。一応……」
真剣に部活動をしている人間からすれば、本当に一応といった程度だが。
「なら、いい。佐藤、場所を変えて少し話さないか?」
やはり。大神先輩が声をかけてきた時から何か話があるとは思っていたが、早速来たか。
「いいですよ。どこに行きましょう?」
「中庭はどうだ? あそこなら、ここから近いし座って話せる」
なるほど。腰を据えて、というわけか。思ったより込み入った話になりそうだ。
俺は特に反対する理由もなかったため、その提案に黙って頷く。
学食近くの出入り口から外に出る。本来なら外に出るのだから靴を履き換えなければならないのだが、中庭に出る程度だといちいちそんな面倒な事をしている者はほとんどおらず、俺たちもその例に漏れずそのまま外に。
中庭に着くと、大神先輩がベンチに腰を下ろす。俺もそれに倣い隣に腰掛けた。
「単刀直入に言う」
そう言って大神先輩が俺の目を真っ直ぐと見る。その顔は真剣そのものだった。
「佐藤、お前部に戻ってくる気はないか?」
「本当に単刀直入ですね」
俺は思わず苦笑を浮かべた。
だが、そこがこの人のいい所だ。裏表がなく嘘の吐けない性格。ついでに少し天然気味。上に立つ人間としては多少心配な点はあるが、その辺はうまく副部長の草壁先輩がフォローしているので問題ないだろう。
「オレは回りくどいのが苦手でな」
「俺としてもそっちの方が助かります」
「そうか」
大神先輩が一度口を結ぶ。
「昨年俺はインターハイに出させてもらった。四継の正メンバーの座を勝ち取ったという自負はあるが、それでもあの結果は先輩たちの力に寄る所が強かったと言わざるを得ないだろう」
非常に失礼ながら、冷静で尚且つ確かな分析だと思う。去年の四継(4×100メートルリレー)の正メンバーは三年二人に二年と一年が一人ずつ。三年二人は個人でもインターハイに行く力があったが、他の二人は……。
「もちろん、個人でも上を狙うつもりだ。だがしかし、四継なら」
拳を握る大神先輩。それだけ思うものという事かもしれない。無理もない。先輩にとっては高校最後の年。悔いのないように。そういう思いだろう。
「佐藤。お前の力があればその可能性を上げられる。足の速さというだけでない。大舞台を経験しているという事。そして、その大舞台でも動じないハートの強さ。勝ち負けを抜きにしても、俺はお前と一緒に四継をやりたい」
熱さ。強さ。直向きさ。その全てが俺に伝わってきた。正直、この人の真っ直ぐな思いは今の俺には眩し過ぎる。
「……考えさせてください」
とはいえ、心が動かないわけではない。これだけの思いをぶつけられてそれでも心が動かなければ、或いは諦められたかもしれない。でも……。
「あぁ、分かってる。今すぐ答えを出せとは言わない。ただ知っておいて欲しかったんだ。俺の気持ちを、考えを」
大神先輩がベンチから立ち上がる。
「邪魔したな。時間は決してあるとは言えないが、よく考えてくれ。いい返事を期待してる」
一人、中庭に取り残される俺。
これだけ期待を寄せてくれる先輩がいて、俺を憧れと言ってくれる後輩がいて、俺に憧れてくれていたという後輩がいて。なのに、俺は――
「何してるんだろう」
自然と溜息が零れる。
見上げた空には気持ちいいくらいの青空が広がっていた。今の俺の心とは正反対にひどく晴れた空が。




