7
「ホームシックだろうね、とは思うんだけどねぇ」
洗濯籠を持って神殿の中庭を横切ったとき、なぜかそこに第一皇子殿下いて。
驚いていると、にこやかに声を掛けられた。
大聖堂で言葉を交わしたときとは違い、当然のごとく幾人かの護衛が付いている。その中には見知った顔もあった。私が聖女候補だったときに護衛をしてくれていた人だ。
皇子殿下の手前、勝手に声をかけるわけにもいかず目を合わせるだけに留まる。
彼もただ小さく肯いただけだった。
護衛騎士たちのさりげなくも強い威圧を受けながら、中庭の隅に設置されたベンチに第一皇子殿下と並ぶ。
本来は、同じベンチに座るなど不敬でしかない。芝生に膝を付こうとしたところでただちに抱えられ、すとんと殿下の横に降ろされたのだ。
その流れるような動作に、一言も口を挟めなかった。
「王都でも人気の定食屋があってね。下級の騎士たちはよくそこで昼食をとってるらしいんだけど、聖女様がたまたまその定食屋に目を留めて。そこのオーナー夫妻と仲良くなっちゃったんだ」
まあ、そこまでは良かったんだけど。と、皇子殿下は苦笑する。
「夫妻がねぇ、ちょうど聖女様のご両親と同じ年代らしくって。思い出すんだろうね、自分の親をさ」
聖女様が頻繁に街へ下りるのはそれが大きな要因だと、高貴な人は小さく息をついた。
「無理やりこちらの世界に召喚したのは僕だし、彼女に苦行を強いているのは分かってる。だから、行っちゃ駄目とは言いづらいんだよねぇ」
そしてなぜか私の頭をぽんぽんと軽く撫でる。
「それで体調を崩してちゃ、まさしく本末転倒なんだけど」と、どこか遠くを見ながら呟くその声は、いつもより少しだけ低い。
真面目で実直とは殿下の人となりを示す言葉ではあるが、つまり、この国の執政を担う一人として隙がないということでもある。
聖女様には違う一面も見せると聞くが、それは一体、どんな顔なのだろうか。
「まぁ、彼女にはアルファドが付いているから大丈夫だとは思うけれど」
その言葉に、彷徨っていた思考が自分の下へ返ってくる。
「彼女は本当にアルファドのことが好きみたいだ。アルファドさん、アルファドさんって。ひな鳥みたいについて歩いてさ」
聖女様がアルファド様を呼ぶ声は、耳に響く。そんな風に聞こえるのは私だけかもしれない。
どんなに遠く離れていても耳に入るのだ。
うるさいほどにキンキンと。
『アルファドさん』
『アルファドさん』
私が呼ぶことさえ躊躇うその名を、当たり前のように呼ぶ。
「アルファドを聖女様の護衛にして良かったと心底思うよ。君には可哀想なことをしたとは思うけど。ごめんね、リディア。―――――だけど、この国にはどうしても聖女様が必要なんだ」
「……よく、理解しております」
頷いて、膝の上に置いた自分の両手に視線を落とす。どこを見ればいいか分からなかったのだ。
聡いこの方なら、私の目を見ただけできっと、この心情を言い当ててしまう。
それが少し、怖かった。
「理解している、か。君は最初からそうだった。とても聞き分けが良くて」
「……」
ふと、皇子殿下が私の顔を覗き込む。
「ねぇリディア。君にとってアルファドはどんな存在だった?」
「……私の」
「私の?」
「……婚約者でした……」
婚約者だったという言葉を口にするだけで、体のどこかが悲鳴を上げるようだ。
気のせいだと思っても、どうしても、祈りで崩れ行く体が更に形を失っていく気がする。
「ううん、そうじゃないんだよ。リディア。婚約者だったのは分かってるよ。僕がそうしたんだから。だけど、そうじゃなくてさ。そうじゃなくて、彼のことをどう想っていたのか知りたいんだ」
「……どう、とは?」
「つまり、好きだったかどうかってことだよ」
「……好き……?」
しきりに首を傾ぐ私に焦れたのか、
「恋をしていたのかどうか知りたいんだ」と、至極真面目な顔で皇子殿下に問われる。
―――――恋?
考えたこともなかった。
聖女様は。
アルファド様の為に、自分の家族や兄弟、友人や住む場所、これまで積み上げてきたものを全部、元の世界に置いてこようとしている。
たった一人の為に、何もかもを捨てる決意をしたらしい。
そういうひたむきな想いを恋だというのなら、私にとってのアルファド様はそういう対象ではない気がする。
私のこの想いはきっと、恋ではない。
だけど、それでも。―――――彼は私の特別な人だった。
聖女様と違い、初めから何も持っていなかった私。
村から出たとき、私の持ち物は全て神殿で用意するからと、着ている服以外は何一つ持ってくることができなかった。文字通り着の身着のまま神殿に入ったのだ。
神殿に入ると衣食住の全てを与えられたけど。何一つ私個人のものではなく、聖女候補に貸し出されたものだった。
一つも、私のものではない。
だから、村から着てきた服を捨てられたときはさすがに泣いたものだった。
唯一、自信を持って己のものだと言えたそれを「汚れていたから」という、たったそれだけの理由で捨てられた。
今もあの頃と変わりなく、やはり私の手には何もない。
別世界から召喚されたわけではもなく、この国で生まれ育ったというのに。
何も持っていないから、捨てるものもないのだ。
そんな私に与えられた、唯一の人。
私の婚約者。
私だけの、婚約者。
あくまでも聖女候補の為に用意された婚約者だったけれど、それでも、その人は他の誰のものでもない私だけのものだった。
特別でないはずがない。
アルファド様が婚約者ではなくなったことを聞かされたとき。
私は、聖女候補だったときと同じく、いつも通りの微笑を浮かべて理解を示した。ただ頷けばいい。そうすれば、滞りなく全てのことがうまくいく。
そして。
「承知しました」と答えながら、今度こそ自分が、全てを失ったのだと気づいた。
「……今更、」
「ん?」
皇子殿下がその麗しい顔を傾けて私の言葉を待っている。
「今更、そんなことをお聞きになってどうしようと言うのですか……?」
無意識に非難めいた口調になってしまったのは、腕や足が痛いからだ。
先ほどから、筋肉が裂けるようなギリギリとした痛みが走る。またヒビ割れが進んでいるのだろう。
「もう、全ては昔のことです」
何度も口にしてきた言葉に打ちのめされる。
そう。そうだ。私に婚約者が居たのはもはや過去のものだ。
確かに手にしたはずのものを失っただけ。ただ、それだけ。
そういうことは誰の人生にも起こりうる。
―――――そう、自分に言い聞かせる。
「昔のこと、ね。そうだね、確かにそうだ。だけど、確認しておきたかったんだ」
「……何をですか?」
「僕がやったことが、一体、どんな結果をもたらしたのか」
「……それを知ってどうなさるおつもりですか?」
問えば、途端に落ちた沈黙に不敬だとは思いながらも皇子殿下の顔を見据える。
「誰も恨まなくても良い、誰も憎まなくても良い、そんな人生を君に与えたかった」
大きな手が私の視界に忍び込み、頬を滑った。
「だけど、どうしてだろうね。うまくいかないものだね……」
「……私は、誰も恨んでいません」
「知っているよ。だから、それが間違いだった気がするんだ」
「可愛いリディア。アルファドは言っていたよ。いっそのこと恨んでくれれば良かったのにと」
優しい顔で、優しい眼差しで、皇子殿下は残酷なことを口にする。
一体、どんな理由で彼を憎むというのか。
アルファド様だって、殿下の命に従っただけに違いない。私たちには拒否権などないのだから。
それに、「……誰だって何かを犠牲にして生きています。私だってそれくらい知っています」
私は、幼いとき妹を犠牲にして生き延びた。
あの子の一回分の薬代は、家族全員の三日分の食事代だったことを後から知る。
高額だけれど払えないわけではなかった。それが一度きりであれば。
誤算だったのは、あの子の体が弱かったということ。
定期的に薬を必要としたあの子を生かす為には、家族全員が、首を括る覚悟が必要だった。
「ねぇね」と私を呼ぶ、妹の声が。
今更になって何度も蘇る。
あの子は言葉を覚えたばかりだった。
あの日の夜、眠りに付く前あの子は言ったのだ。
私の目を見ながら、儚く笑って「ねぇね」と呼んだ。私は、そんなあの子を見捨てた。
先に逝った聖女候補たちだって、そう。
もしかしたら彼女たちを助けることもできたかもしれない。そうでなくとも、何かできることがあったかも。
だけど、私は、何もしなかった。
そんな風に、色んな人たちを犠牲にして繋いできた命であれば、ツケを払う時がきただけだ。
今度は、私の番だっただけ。
きっとそれだけのこと。
だから。
「―――――恨むなんて、憎むなんて、あるはずがありません」
*
*
鏡を見ると、首筋に黒い線が入っていた。
鏡の汚れかと指を伸ばして、それが鏡に映っているのではなく己の体に入っているヒビだと気づく。
息を呑んで、指先を首筋にあてる。
新しいヒビだ。
震えを抑えることができなかった指からパラリと、何かが零れて洗面器に落ちた。
一瞬、何が起こったか分からずに思考が停止する。
しかしすぐに、自分の欠片だと分かった。
咄嗟に指を伸ばして拾い上げようとする。
けれど、出しっぱなしにしていた水が当たり前ように押し流していった。
どくどくと脈を刻む心臓を服の上から押さえつけて、もう片方の手で水流を追う。
洗面器に指がぶつかって、水しぶきが顔に飛んだ。反射的に目を閉じてから、こんなことをしても無駄だと思い至る。
排水口に差し入れた指が力を失った。
元より、このヒビ割れは幻のようなものなのだ。幻を指で掴むことなどできはしない。
そうでなくても、一度零れ落ちた欠片は戻ることがないことを、よく知っていた。
―――――ある日突然、壊れたキリエ。
倒れていった多くの聖女候補がそうだった。
何の前触れもなく、がしゃりと音をたてて崩れ、そのまま目覚めることはなかったのだ。
ヒビ割れは、ほとんどの場合、崩壊の前の知らせのようなものである。ヒビが入るだけで、砕けたり、体の一部が欠けることはない。
形を保ったまま、ヒビだけが増えていく。
そして、ある日突然、全部が瓦解する。
だけど、ごくたまに、命の欠片を落としていくみたいに、少しずつボロボロと崩れていく聖女候補もいた。
その人は最後の最後まで耐え抜いていた聖女候補で。
つまり、私を最後として順番づけるならば、最後から二番目に崩壊した聖女候補だった。
私たち聖女候補の姉とも呼べる人で、大人びた雰囲気で物静かだったことをよく覚えている。
私とその人は一番年が離れていたから、何かにつけて二人一組にされることが多く、彼女もまたよく面倒をみてくれた。
親切で何より慈愛に満ちていて。誰かに尽くすことを躊躇ったりしない人だった。
縁もゆかりもない子供を、ただ同じ聖女候補というだけで世話してくれるほどに。
自分にも妹が居たのだと笑っていた。
貴女は妹によく似ている、と懐かしそうに目を細めて。赤ん坊を相手にするみたいに、抱きしめた後は、ぽんぽんと背中を叩いてくれる。その仕草が好きだった。
彼女がまだ生きていたなら。彼女こそが聖女になるべきだった。素直にそう思える。
そんな彼女の後ろ姿を懐かしむとき、思い起こすのは。
細い背中にまとわりつくように舞う、きらきらとした鱗粉だ。あるいは、花びらのように螺旋を描きながら舞い散る花びらである。
でもそれは、鱗粉でも花びらでもなかった。
あれは、ちかちかと輝く命の欠片だったのだ。残酷なほどに美しくて、どうしようもないほどに儚い。
指先から、腕から、もしくは太ももや、ふくらはぎから。剥がれ落ちていくみたいにぱらぱらと散っていった。
始まりは、確か、キリエが倒れた次の年だった。
自室から、修練のために用意された部屋へと移動している最中にそれは起こったのである。
歩くときはいつも繋いでいた手を、もう大きくなったからという理由で離したその日。視界の隅をはらりと何かが流れていった。
花びらが舞う季節ではない。
錯覚かと目を擦った。
再び目を開いたときにはその「何か」は消えていたけれど、次の瞬間にまた、はらりと何かが落ちる。
彼女の後ろを歩いていた私は、視界を過ぎっては消えるそれが何か確かめようと手を伸ばした。
しかし、確かに掴んだと思うのに手を広げてみれば消えている。
ほとんど躍起になって腕を振り回した。
だけど、ただの一つも拾い上げることができない。指先は確かにそれに触れたはずなのに、まさしく幻のように消えてしまう。
『なんで』と呟いてから、ひくりと不自然に鳴る喉。
泣き出しそうだった。
何度か呼吸を繰り返してから強く瞬きをすれば、いつもと変わらないその人がいるだけである。
足元を見ても欠片一つ落ちていない。だというのに、またひらひらと揺らめきながら、何かが舞う。
『なんで』と無意識にもう一度呟いたのを、彼女は耳聡く聞いていた。振り返って微笑むその姿。
僅かに首を傾けた、いつもと変わらないはずの優しい顔。
『やっぱり、手を繋ぐ?』
その人の指先に、小さなヒビが入っていた。
何が起こっているのかうまく理解できない。それなのに、目の前をチラつくそれが、キリエが倒れたときに砕け散ったものと同じだと気づく。
なぜか「待って」とそんな言葉が口をついて出た。はっきりとは音にはならず、口の中で空気を噛むように消える。
そのヒビ割れが、本当にキリエと同じものならば。
神官長の話が真実ならば。
「待って」
はっきりと意識して声に出せば、頼りなく震えたそれが泣き声のように掠れていた。
本当に待って欲しかったわけではない。呼び止めたかったわけでも、振り返ってほしかったわけでもなく。
ただ、失われていく時間が惜しかっただけ。
一分一秒が、彼女の命を危うくしていることに気づいていただけ。
こうやってただ呼吸をしているだけの時間にも、彼女の崩壊が進んでいく。
キリエみたいに壊れてしまう。
嫌だ。そんなのは嫌だ。
だから、待って。
お願い、待って。
いつまでたっても動けずにいる私に「寂しいのね、可愛いリディア」と、結論付けて。可愛くてたまらないと目元を綻ばせた。
『リディアは子犬みたいね』と抱き上げようとして、私の腕の下に回った両手。
神殿での充実した食事の成果か、幼くとも人並みの体重まで戻っていた私を、細腕の彼女はうまく抱き上げることができない。
『もっと力持ちだったら良かったわ』と、持ち上げることを諦めて、潰れんばかりに抱きしめてくれた。
『可愛いリディア。可哀想なリディア。独りは寂しいわね』
擦れた声が耳元で囁く。
『私が傍にいるからね。ずっとずっと、傍にいるからね』
彼女はその言葉を体言するかのように最期の最期まで耐え抜いた。
キリエの次に崩壊が始まったのにも関わらず、他の仲間を見送って、そしてついに耐え切れなくなったのだ。
『私がずっと傍にいるから、だから、寂しくないわ』
貴女はもう、寂しくない。
そう言ってくれた彼女の声が、夢の中で霧散する。




