6
妹の泣き声が聞こえる。
その声にゆすり起こされた幼い私は、寝ぼけ眼で部屋から抜け出した。
他の兄弟たちは寝息をたてている。真夜中なのだから当然だ。
生まれたときから体の弱かった二つほど下の妹は熱を出していて、私たち兄弟とは別の部屋に寝かされていた。
兄弟たちはそんな妹を気遣っていたけれど、仕事で酷使されている体はそれ程簡単には目覚めない。
一方、幼く体の小さな私にはできる仕事などなく、手伝い程度のことはできたけれど大抵が暇を持て余していた。だからこそ、余力がある。遠くに聞こえる泣き声に呼び起こされて、こんな時間に目覚めてしまったのは眠りが浅かったからだ。
そっと布団を抜け出して、ふらふらとした足取りで、何の病か分からないからと隔離された妹の部屋へと向かう。その間にも妹の泣き声が聞こえていた。
末っ子というのはいつだって肩身が狭いものだけれど、体の弱い妹であれば尚更であろうと思う。
もっとも妹はそういう事情を理解することもできないほどに幼いのだが。ゆえに、体調が悪いときはひたすらにぐずっている。
短い廊下を足音たてずに歩いていくと、ふと、視線の先に父親の背中が映った。
燃料がないから明かりを灯せず、狭い廊下は外と変わりないほどに真っ暗だ。それでも父の足取りに迷いはない。手探りで壁伝いに歩いていた私とは違う。
起きているのが分かったら怒られるかもしれない。その場で息を潜めていると、程なくして白い布を持った父が妹の部屋へ入るのが見えた。
後を追いかけるようにして、廊下を辿る。
決して大きくはない家なのに、幼児の足ではやけに広く感じた。体重が軽いから、板張りの廊下も微かに軋むだけだ。
私はそっと、微かに明かりの漏れるたてつけの悪い扉から中を覗き込んだ。
この部屋だけろうそくが灯っていた。きっと一晩中、看病していたのだろう。
一体いつから混じっていたのか、妹の泣き声と一緒に母の子守唄が聞こえてくる。
細い隙間から見えるのは、疲れ切った母親の背中と、その腕に抱えた妹の小さな手。
宙をかくように白い手が動く。ただ揺れ動くだけのそれがとても愛らしい。傍に居たなら、間違いなくその手を握っていただろうに。
父は椅子に座った母の脇に立って、ぼそぼそと何事かを告げているようだった。
その声に反応するかのように、ひくり、と母親の肩が大きく震える。
何をしているのか、二人で顔を見合わせたままちばし時を待つ。
やがて父が、先ほど廊下で持っていた白い布を掲げて、そのまま母の腕の中に被せるのが見えた。
先ほどまで劈くような泣き声を上げていたのに、妹の声がか細くなっていく。
母はずっと子守唄を歌っていた。
縋るように、突き放すように。その声はずっと震えていた。
歌いながら、母はその疲れ切った背を更に丸くして妹を抱きこんだ。
その姿を見下ろしながら父が嗚咽を漏らす。
ぼそぼそと呟く低い声は何を言っているのか分からない。なのに「すまない」「すまない」と何度も繰り返される言葉だけがはっきりと聞こえた。
―――――そんな布を被せたら、妹は息ができない。
小さな体を、そんなに強く抱きしめたら。息が。
何か良くないことが起こっている。幼いながらも肌で感じた私は、扉のとってを掴んだ。
古びた蝶番がきいと小さく音をたてるが、両親は気づかない。こちらに背を向けたまま、父が母の肩を抱き寄せた。
声を掛けようとしたそのとき、
『っ!』背後から誰かに口を塞がれる。
いつの間にそこに居たのか、一番上の姉が素早く私を抱え上げ、扉から引き剥がした。
私の体を痛いほどに抱き締めた姉の細い腕。
その腕が、誤魔化すこともできないほどに震えていた。
―――――その日まで私は、九人兄弟の下から二番目だった。
けれど、その翌日、私は八人兄弟の末っ子になっていた。
聖女様が口にするような身分差のない世界があったとして。
人の命が何よりも尊く、誰の命であろうともその重さに違いがないというのであれば。
妹はまだ生きていただろうか。
*
*
「聖女様のお加減はいかがですか?」
聖女様はあれから時々、体調を崩す。
そして私は、その度に聖女様の代行を務めていた。
「お医者様は、身体的には問題ないだろうと仰ってます」
最近は、聖女様の教育係としての役目を終えているも同然なので、理由が無ければ彼女の部屋に行くことはない。
私と聖女様の身分は、それほどに異なる。
陣中見舞いであろうと、事前の許可も得ずに聖女様の部屋へ行くことは許されないのだ。
聖女様と会うには女官の取次ぎが必要で、本人が望んでいない限りは口をきくことも許されない。
「街に下りると、どうしても人酔いしてしまうらしいのです。神官長様は、聖女様は精神が清廉でいらっしゃるから他人の気配に敏感なのでしょうと仰って……」
女官は困ったように笑いながら言葉を紡ぐ。心配ではあるが、その精神性が誇らしくもあるらしい。
本当に聖女様のことが好きなのだろう。
これも一重に、聖女様の人徳だ。
聖女候補だったときに私にも女官が付いていたが、これほどに好かれていたわけではない。むしろ、嫌われていたと言ってもいい。
なぜなら、私に付いていた女官も当然、他の女官や侍女と同じように貴族出身だったからだ。
私がいくら聖女候補と言えど。ゆくゆくは聖女になるだろうと言われてはいても。
生まれながらにその肉体と精神に叩き込まれた身分制度というものを払拭することはできない。
私に頭を下げながら。同時に、気を遣いながら。それでもその眼差しが正直に告げていた。
―――――聖女候補でさえなければ、
そんな彼女たちにとっても異世界からの聖女様は崇拝の対象にある。
何せ彼女は別世界の人間。
幻のようなその存在自体が神がかり的であり、自分たちとは一線を画した存在であるからだ。
「……聖女様、起きられますか?」
一人で眠るには大きすぎる寝台に横たわっている聖女様に声を掛ける。
僅かに震えた長いまつげの奥から蠱惑的な黒い瞳が現れた。
「……リディアさんすみません、ちょっと具合が悪くなってしまって」
起き上がる聖女様の背に手を添える。
その華奢な体を支えようとしたのだがうまくいかずに、聖女様の半身がふらついた。
すかさず反対側から女官が手を伸ばす。
手に力が、入らない。
小柄な聖女様の体が鉛か何かのように重く感じた。
「リディアさん? どうかしましたか?」
先ほどよりもいくらか意識がはっきりしたらしい聖女様が首を傾ぐ。
夜空よりも暗い髪がさらりとなびくのを見ながら返事をしようと口を開いたとき、異変に気づく。
音が、聞こえない。
聖女様が不思議そうにぱくぱくと口を動かしている。
視線を動かせば、女官も怪訝そうな顔をしていた。衣擦れの音や、息を吐き出す音、身じろぎしたときの僅かな動作音、日常に溢れているありとあらゆる全ての音が、私の世界から消え去った。
何か、何か言わなければ。
『何でもありません』そう言ったはずなのに、自分の声さえも聞こえなかった。
さっと引いていく血の気に足が震える。
ひゅっと飲んだはずの息は音を立てずに、ただ喉元を震わせただけだった。
「……アさん……リ…アさ……」
どうしよう。
どうしよう。
そう思って呆然としていると次第に戻ってくる小さな音。
耳鳴りから開放されるときのように、ぷつりと途絶えていた音が徐々に集まりだした。
「……リディアさん?」
今度はしっかりと聞こえた聖女様の声に、そうとは分からないようにそっと息を吐き出す。
微笑して「申し訳ありません、少し貧血を起こしてしまったようで」と答えれば、
「っえ、大丈夫ですか!」と聖女様が焦ったような顔をする。
手を掴まれ「座ってください」と、ベッドのほうへ引っ張られた。突然のことに踏ん張ることができず、ふらついてしまう。
「聖女様、なりません」
女官が、明らかに慌てて制した。
いくら同性とは言え、高貴な方の寝台に私のような只人が上がるのはそれだけで罪に問われる。
太ももがベッドの端に乗り上げようとしたところで、何とか耐える。下半身を低く下げ、床に膝を付くことで何とか回避した。
「っ大丈夫ですかっ!」
体勢を崩した私を追いかけるようにベッドから起き上がろうとする聖女様。
握ったままの手に力を入れることで、何とかその場に留まらせることに成功した。
「大丈夫ですから、どうぞそのままに」
未だに動こうとする聖女様を留め置いて、そのまま祈りの体勢に入る。
そうすれば誰も口を挟めないことを知っていたからだ。
祈りを妨げられるとそれだけ祝福の効果が下がるので、祈りの最中に邪魔をする人間はほとんどいない。
短い祝詞を口ずさみながら、聖女様の体調が回復するように祈った。
途端に、体から何かが抜けていく感覚と、ガンガンと金槌で打たれているかのような頭痛に襲われる。
また、音が聞こえなくなるかもしれないという恐ろしさに体温が下がった。
けれど、何でもない振りをすることには慣れていたから。表情にも仕草にも、ほんの僅かな苦痛すら見せないことが可能だった。
私はその為に、修行を積んできたのだ。
「聖女様、そんなに心配してくださらなくても大丈夫です。ありがとうございます」
不安げな顔を向けている少女に声を掛ける。
以前、女官に言われた通り、こんな私でも祈りがないよりは良いらしい。
私が聖女様に祈りを与えることで、彼女は少しだけ顔色を戻す。
赤みを取り戻したまろい頬は、本当に幼く見えた。
にこりと笑みを浮かべれば、ほっとした様子の聖女様が急に視線を落として、しょんぼりと肩を竦める。
「すみません、リディアさん。体調が悪いのに私の為に……」
「……聖女様、そんな顔をなさらないで下さい。これも私のお仕事ですから」
そう答えると、顔を上げた聖女様が今度は泣き出しそうに顔を歪めた。
一体どうしたのかと女官の顔を見れば、彼女は彼女で何だか苦い顔をして睨みつけてくる。
「そう、ですよね。お仕事ですもんね」
「?」
「……いえ、良いんです。すみませんお時間とらせて……」
はぁ、と色めくような息を落とした聖女様に視線を戻せば、その黒い瞳に涙が盛り上がってきた。
おもむろに、ぽとりと落ちる涙。
「聖女様、」
「す、みま……せ、ん……っく、ひっく」
「聖女様、」
一体どうしたのか分からず、また、どうすればいいか判断に迷い、ただ彼女を呼ぶ。
「わ、私は、聖女なんて名前じゃありま、せん……!」
零した涙を拭うこともせずに聖女様が僅かに声を張り上げたそのとき、かちゃりと部屋の扉が開く。
自然とその場に居た全員の目がそちらにと向いた。
現れたのは聖女様の護衛騎士だ。
「アル、アルファ、ドさん……!」
ひくひくと肩を揺らした少女が幼子のように縋るような声を上げる。
扉を開けた途端に広がった、ある意味異様な光景にアルファド様は目を瞠っている。
「どうしました……?」
そしてその美しい青銀の瞳がちらりと私を見て、再び聖女様に向く。
そんな何気ない仕草になぜか心臓がぎゅうと絞られるような痛みが走った。
思わず胸元を押さえて、聖女様に歩み寄るアルファド様をさりげなく視界の隅で追う。
直視、できなかった。
「アルファドさん、アルファドさん、アルファドさん……」
「……どうしました、聖女様」
「嫌です、やめてください、嫌、聖女なんて呼ばないで……」
私と入れ違うようにしてベッド脇に膝を付いた彼を見ないふりして、目礼だけで退室を告げる。
女官が鷹揚に頷いたので、そっと扉から体を滑らせて外に出ようとしたら、
「……チヨリ」
この国では馴染みのない響きで、声が聞こえた。
それが聖女様の名前だと理解するのに時間は必要ない。アルファド様が彼女の名前を呼んだ。
それだけで、聖女様とアルファド様が単なる主従ではないことが分かる。
高貴な方は、自分の名前を親しくもない人間には呼ばせない。かといって、気の置けない仲であっても簡単に名前を呼ばせることはないのだ。
王が陛下と呼ばれるように。皇子が殿下と呼ばれるように。
聖女様も本来、聖女様としか呼ばれない。
名前を呼ぶことのできる人間は、親族か特別親しい人間だけだ。
それを、彼女は知っているのだろうか。
『リディア』と、私の名前を当たり前のように呼んでいた彼の声が蘇る。
誰に呼ばれても特別でも何でもなかった、ただ個体を識別するためだけの私の名が。特別なものになった瞬間だった。
そんな感情に戸惑う私のことなどお構いなしに、アルファド様は何度も私の名前を呼んだ。
何かにつけて、何でもないところで、何でもないように。
何度も。何度も。
だから、私の名前は、アルファド様に呼ばれるときだけ特別なものになった。
アルファド様にとって、私の名前はどんな意味を持っていたのだろうか。
もはや知る由もない。




