5
「外の世界に憧れるかい?」
王宮が用意したらしい豪勢な馬車を離れたところから眺めていると、ふと神官長が横に並んだ。
神殿の奥から出てくること自体が珍しい年齢不詳の彼を、聖女様の世話役として呼ばれた王宮勤めの女性たちが頬を染めて眺めている。彼女たちも貴族出身と聞くが、こういうところは案外、市井の女性たちと変わらないのかもしれない。
どちらの世界も、よく知らないけれど。
「どうでしょうか。憧れるほど、外の世界を知っているわけではありませんので」
「そうか。それは良かった」
何が「良かった」なのか神官長の女性めいた顔を見上げれば、「叶わない夢は見ないほうが良いからね」と優しい声音で、辛辣なことを言う。
更に「君がもしも聖女になっていたら、結婚してここから出ることもできただろうけど」と、僅かな希望すら抱かせないよう、意図的に追撃してきた。
「……」返事をすることに意味を見出せなくて、その整った顔を見据えるに留まる。
もしもなんて起こらないと、知っていた。
聖女となって自身の存在が神格化されれば、結婚して子供を持とうとも力を失うことはない。
なぜかは分からないが、そうと定められている。
けれど、聖女候補はそうではない。純潔を失えばそれと同時に聖女の素養を失うようだ。
ゆえに聖女候補である内は神殿から出られない。万が一があってはならないから。
今の私は聖女候補ではないけれど、あくまでも聖女様のスペアである。何かあったときの為の予備であるから、迂闊に外に出ることはできなかった。
―――――多分、二度とここからは出られないだろう。
「悲しい?」
神官長様が、私の髪を指で梳かす。幼い頃にしてくれたように、慰めるような仕草で。
「どうでしょうか。分かりません、もう」
「……そう」
神殿に入ったあの日。
故郷の寂れた村からここまでの道中は、外の景色を見ることもままならなかったから、王都の賑やかさも煌びやかさも何一つ目に留めることはできなかった。
だから、神殿に入ってからは誰かが教えてくれるその光景を頭の中に思い描き、空想した。
『街には商店が並んで、早朝には市場が開くのよ!』
明るい声が今でも耳に残っている。教えてくれた人はもう、どこにもいないのに。
神殿の中庭に、皆で円になって座り込んだのを思い出す。絵の上手だった子がいて。枝で、街の様子を土に描いてくれた。
街ではどうやら、おしゃれなご婦人方が日傘をさして歩き、優雅な紳士が洗練された仕草で彼女たちをエスコートするらしい。
『素敵だわ』誰かが言った。
『他には? 街ってどんなところなの?』王都をよく知らない子たちがこぞって質問する。比較的、王都の近くから神殿に入った子が得意げに語った。
通りでは子供たちのはしゃぐ声が楽し気に響き、商人たちが店先でお客様を呼び寄せるのだと。
うるさいくらいの喧騒に耳を塞ぎたいほどだと言って。
楽しそうだと思いながら、村の痩せた土地が頭を掠める。
それでも空想は止まらない。
思い描いたのは、抜けるように青い空と白い石畳。どこからか降ってくる、小さな花びら。
アルファド様の婚約者となったその日、私は、花嫁衣裳を着てこの神殿を出て行く自分を想像した。
やっとここから出られると、ただそう思った。
だけど、夢はもう、見ない。
「ほら、出発だよ」
神官長が微笑を浮かべて、護衛に囲まれた聖女様を見つめている。
馬車に乗り込む彼女に手を差し出したのはアルファド様だ。
二人が寄り添うその姿はまさに夢物語のように美しく。
私は思わず、目を閉じた。
*
*
「本日の祈りを、聖女様の代わりに捧げて欲しいのです」
女官に言われた言葉の意味が分からず首を傾ぐと、「聖女様が体調を崩されてしまって……」と続ける。
街に下りてはしゃぎすぎてしまったのかもしれませんね、と苦笑しながらも、この国のことを少しでも知ってもらえたら良いと思ったのですがうまくいったようです。と心底嬉しそうに目元を綻ばせた。
「彼女の祈りがこの国を豊かにするのですから、我が国を愛して欲しいのです。そうできなくとも、せめて好意的に見て欲しい。そう思います」
その顔にじわりと滲む罪悪感と、聖女様への思いやり。
「……私が代わりに祈りを捧げるとして、神官長様はご存知でいらっしゃるのですか?」
私の一存でただちに了承するのは問題かもしれないと訊いてみれば、今度は女官が首を傾げた。
なぜ、そんなことを聞くのかと。
「もちろん、ご存知ですが……」
返事をしながらもどこか不思議そうに見つめてくる女官。
だって、貴女はこういうときのためにここにいるのでしょう?
貴女は聖女様のスペアでしょう? 代わりを果たすことが務めでしょう? と言いたそうだった。
そうだ。間違っていないし、周知の事実だ。
「神官長様も、聖女様は働きすぎなので、たまには何もせずゆっくりお休みをした方が良いと仰いまして」
いうまでもなく、彼女はこの国の為に尽くしてくれている。
縁もゆかりもないこの土地で、知り合いもいなかったはずなのに。手を抜いたりしなかった。
今は、たった一人の愛しい人のために身を粉にして働いている。
たまには息抜きだって必要だろう。体調を崩しているなら尚更。それは私にもよく分かる。
ああ、だけど。どうして。
指が痛い。腕が痛い。
頭が、割れそうなほどに痛い。
「貴女もかつては聖女候補だったのですから、祈りを捧げることはそう難しくないでしょう。聖女様ほどではなくとも、祈りがないよりもマシなはずです」
そうですね、と同意する自分の声がどこか遠くのほうから聞いている。
衣装をお持ちします、と神殿侍女が駆けて行くのを見ながら、祝詞を頭に思い浮かべた。
全てを覚えるのにそれこそ、何年も時間がかかった。
ただ単に言葉を暗記するのではなく、音階があり正しい音を取らなければならない。暗記するのでさえ苦労したそれを、異世界の聖女様は召喚された当初から、教えられるまでもなく知っていた。
言語を学ばずともこの国の言葉を理解できるのと同じように、彼女の頭の中には祝詞が刻まれていたらしい。覚える必要など、なかったのだ。
幼い頃。
一つ部屋に集まって、どのくらい祝詞を覚えることができたか他の聖女候補たちと競った。娯楽のない神殿では、楽しみが何もなかったから。祝詞を早く覚えるのが、遊びの一つとなった。
キリエはいつも一番早い。
一番、祝詞を覚えるのが早くて。だからこそ、聖女の力を扱えるようになったのも一番早かった。
それが、彼女の死を早める要因になったのだと、私だけが気づいている。
私と同じく、生まれ育った村から追い出されるように神殿に入った彼女だったけれど。
キリエは故郷を愛していた。
旱魃にあえぐ村に、他の土地と同じように雨が降り注げば良いと。せめて村の近くに水源が見つかれば良いと、そう思っていたようだった。
そんな強い想いが祝詞に乗って祈りとなる。
彼女の最後の祈りを、忘れることができない。
キリエが砕けたまさにそのとき、彼女の故郷には雨が降ったそうだ。
神は聖女候補の願いを聞き届けた。その命を代償に。
「なぜ、君が?」
着替えを終えて大聖堂の前まで行けば、待ち構えていたようにアルファド様がいた。怪訝な表情で、不満そうにも見える。
腕を組んで、立ちはだかるように扉の前に立っていた。
確かに私では力不足だし、聖女様の代わりなんて果たせるはずがない。
だけど、私には断る権利もないのだから仕方のないことだとも思う。
「今日の祈りは中止にするように伝えたはずだが」
「先ほど、女官様がお見えになりました。聖女様の代わりに祈りを捧げるようにと」
「……勝手なことを」
不可抗力だ。
私が自ら望んだわけではない。
「神官長様も了承されているようですから」
そう言えば、アルファド様は「そうか」と何事か考えるような素振りを見せながらも、ようやく頷いた。
「リディア」
アルファド様の横をすり抜け、大聖堂の巨大な扉の前に立つ。すると、神殿騎士が恭しく頭を下げながら扉を開く。
光の中に足を踏み入れたその刹那、アルファド様が私の名を呼んだ。
「リディア」
振り返れば、重ねて名前を呼ばれる。
何事かと続きを待つが、その双眸に私の顔を映したまま頭を振った。
「いや、何でもない」
と言いつつも、何でもなさそうな顔。
口数は少ないけれど、伝えたいことがあるときは淀みなく己の意見を口にするのに珍しいことだと思う。
しばらくその様子を眺めていたものの、神殿騎士に促されて、先へ進む。
その背にまた、小さく消え入りそうな声が掛かった気がした。
「何で今日は聖女様じゃないの?」
すでに大聖堂へ集まっていた信徒たちがひっそりと声を上げる。
その小さな声は小波のようにゆっくりと、だけど確実にざわめきとなって広がっていく。
聖女様に何かあったのではないかという不安と、単なる元聖女候補の祈りがどれほど役にたつのかという不審。
そして、元聖女候補が本物の聖女様に害を成すようなことをしたのではないかという疑念。
足を一歩踏み出すごとに、そんな負の感情がまとわりついてくるような気がする。
祭壇の後ろにはめられたステンドグラスが淡い光を落とす絨毯につま先を置く。そのまま慎重に膝を付けば、一層強まる疑念の眼差しが背中に突き刺さるようだった。
だからといって、祈らないわけにはいかない。選択肢を持たない私にはどうすることもできなかった。
何も持っていないはずなのに、背中にずっしりとした重みがのしかかる。
気のせいだ。気のせいに違いない。
本当は何も背負っていないのに、重くて仕方ない。
降ろすことのできない荷物をそのままにして顔を上げれば。
神の肖像がこちらを見下ろしていた。
静かに伏せられた瞼の向こう側の目はこちらを見ているはずなのに、目が合うことはない。
聖女選定の儀は、この大聖堂に一週間篭ることで成立する。その間に、神に見初められたものだけが聖女と成り得るのだ。
聖女と認められた者には、神の声が聞こえるのだという。
相変わらず落ち着きのない信徒たちの声背に、祈りの体勢に入る。
覚えた祝詞はその名の通り、まさしく祝福だ。
この国に富と栄誉と栄光を。それだけを願いながら祈りを捧げる。
―――――それしか祈ることがない。
目を伏せて口を開けば、今度は耳鳴りさえ起こりそうな静寂に支配された。
『リディアの花嫁衣裳を見に行こう』
かつてのアルファド様の声がなぜか、鮮明に思い起こされる。
私が正式に聖女になったなら、いよいよ結婚式の準備に入ると言っていた。
せっかくだから街に下りよう、実物を見て二人でドレスを選ぼうと、顔を寄せ合ったのはいつだったか。
いつにないその距離感に戸惑いながらも、離れ難いような気もして―――――。
「っ!」
祝詞を声に載せてから途端に、指先から腕までに激痛が走った。
閉じていた目をうっすらと開けば、薄布の下にひび割れた自分の腕が見えている。
集中しなければ。
なのに。ばらばらと崩れていった聖女候補たちの姿を思い出す。
キリエが倒れた後、何かを予感したのか誰かが言った。
『死にたくない』
その声を聞きながら、私は彼女たちが少しずつ命を消耗していくのをただ黙ってみていた。
次は私かもしれないと、恐怖しながら。だけど、多分、次はまだ自分じゃないと安堵しながら。
卑怯だと知っていた。見殺しにするのだと、痛いほどに理解していた。
*
*
「素晴らしい祈りだった」
大聖堂から信徒たちが出て行くのを見送って、痛む体を押さえ込むようにして膝を付いていると掛かる声。
顔を上げようとして、その人物が着ている服が平民のものではないと気づく。
繊細な刺繍が施された、特定の人物だけが使用できる色で染めた生地。
慌ててもう一度頭を下げると、
「良いよ、顔を上げて」と、柔らかな声が落ちてきた。
恐る恐る確認すると、そこには予想通りの人物が立っている。好き好んで私に声を掛けてくる高貴な人は彼しかいない。
「久しぶりだねぇ、リディア」
おっとりと言葉を落とすのは第一皇子殿下だ。
集まっていた信徒たちがそわそわしながらもそそくさと出て行ったのは彼がいたからだろう。殿上人すぎて、同じ空間にいるのが恐ろしかったに違いない。
この方の不興を買えば、まず命はない。
「お久しぶりです、第一皇子殿下」
「そんな他人行儀な呼び方しないでよ。僕と君はいわゆる幼馴染ってやつなんだからさ」
「……」
未だ膝を付いたままの私の頭を優しく撫でるカレストフ第一皇子殿下。
柔和な表情と綻んだ眼差しに、居心地の悪さを感じる。確かに彼と私は知らぬ仲ではない。
けれど、幼馴染と言えるほど親しい仲でもなかった。私と殿下の身分差を考えれば当然のことだ。
「昔は、カレフと呼んでくれたのに」
「……まだ何も分からなかった頃ですから」
毎月の拝礼を欠かさない彼と聖女候補が顔を合わせたのは自然な流れだった。
私だけではない。他の聖女候補もそうだ。
初めの頃は、会話らしい会話をした記憶はない。共通の話題がなく、殿下も私のような子供と接することはあまりないようで戸惑っているようだった。
それでも何かの折に二人きりになる機会があって。いつもよりも話ができた。といっても、中身のある会話をしたわけではない。
殿下が質問して、私が答える。
『食べ物は何が好き?』
『何色が好き?』
『動物は好き?』
何一つ、うまく答えられなかった。
けれど、なぜか幼い私には殿下をあだ名で呼ぶことが許されたのだ。気に入られていたわけではないだろう。ただ単にその方が呼びやすいはずだと、それだけの理由だ。
皇子殿下を愛称で呼ぶことが、いかに栄誉なことなのかも知らないほどに、私は無知だった。
『婚約する前から君の姿を神殿で見かけていた』
アルファド様はそう言っていたけれど。
私はそれよりもずっとずっと前から、アルファド様を知っていたのだ。
第一皇子殿下に新しい護衛が付いたと聞いたそのときから、彼のことを知っていた。
「可愛いリディア。可哀想なリディア」
膝を折った殿下が私と視線の位置を合わせる。
「君の居場所を奪ったのは僕だよ」
王族特有の青い目。揺らいでいるような気がするのは勘違いだ。きっと、そう。
「異世界からの聖女召喚を決めたのは僕だよ」
「君を聖女候補から外したのも僕だよ」
「君とアルファドを婚約させて、そして、君とアルファドの婚約を取りやめたのも僕だよ」
「だから、どうか、聖女様を恨まないでね」
聖女召喚が成功したと聞かされた日、皆がこう言った。
「聖女様を恨んではいけないよ」と。
それから数日もしない内に、皆にこう聞かれた。
「聖女様を憎んでいないのか」と。
恨んではいけないと、憎んではいけないと、誰もがそう言う。
誰もが、聖女様の味方をする。
私には最初から、彼女を憎む権利すら与えられてはいない。神殿に縛られたこの肉体だけでなく、感情さえ自由にできない。
「……リディア?」
私はただ微笑んで肯くだけだ。いつだってそうしてきた。
『君も、笑えるんだね』
アルファド様は正しい。
私はいつだって、笑っていなかった。




