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「今週は花まつりがありますね」
箱馬車で大神殿へ移動している最中、窓の外を眺めながらニコルがぽつりと言った。
「花まつり?」
訊き返すと、正装して姿勢正しく座っていた騎士が少しだけ相好を崩す。
なのに「大したことのない祭りですよ」とそっけなく答えるので、違和感があった。首を傾げて続きを促すのに笑みを深くするだけだ。そして、肩を竦めると再び窓の外へと視線を投げる。
外を見るように促されているような気がして、私も身を乗り出した。
小さな窓から垣間見える四角い世界。切り取られた風景は、童話の絵本みたいだ。レンガ造りの家々が同じ顔をして並んでいる。舗装された道を行き交う人々は足早で、だけど、どこか楽しそうな顔をしていた。いつもよりも色とりどりに見えるのは、玄関先に出している鉢植えの数が多いからだ。
横に長い鉢植え、盾に長い鉢植え、丸みを帯びた鉢植えと様々な形状のものが並んでいるが、それぞれに多種多様の花が咲いている。
よく見れば、出窓にも鉢植えが置かれおり、そこから壁に向かって落ちた茎の長い植物にも花がついていた。市井の人々も体のどこかに花をつけている。
女性は髪に、男性は胸元に。
なるほど、だから「花祭り」なのか。あちらこちらに花が咲いている。
一人で納得していると「さぁ、つきましたよ」と言われて現実に引き戻された。花々の咲き乱れる美しい風景はあまりに現実離れしていて、今この瞬間ですら、テレビ画面を眺めているような心地になる。
本来なら心躍る風景かもしれないが。
私が、この街の住人として花まつりに参加する日は来るだろうか。
「お手をどうぞ」
先に馬車から降りた私の護衛騎士兼近衛騎士が恭しく手を出している。前に一度、踏み台から落ちそうになったことがあるので案じているらしい。有難くその手を借りて、慎重に馬車を降りる。
大神殿は目の前だ。圧倒的な存在感を放っており、これが街の中心部に位置するくらいこの国の人々は信仰に重きを置いている。
けれど、あまりにも巨大で荘厳な建物を前にして臆してしまう。全身が総毛立った。よくもこんなところに住んでいたものだと己ながら感心するほど。
染み一つない純白の大神殿は、一見すると神々しいのだが、視界を焼くほどの神聖な気配はむしろ毒々しい。善と悪の混在する人間からすれば、善性しか存在しない世界というのは息が詰まるものだ。ここはまさにそんな場所だった。
「チヨリ様?」
「―――――あ、」
「どうしました?」
ここには神が存在するという。その神が、私をこの世界に導いた。
でも、本当は誰でも良かったと知っている。
「さ、参りましょう」
背中を軽く押されて、やっと前に進むことができる。一歩、足を踏み出すごとに背中や肩が重くなっていく。肺に塵が積もっていくような感覚に、息が上がった。
大神殿を包み込んでいるオーロラのような美しい結界は、魔物の侵入を防ぐためのものだと聞いている。これまではそんな風に理解していたし、教えられた。けれど、今なら分かる。この結界は、そんな単純なものではない。
神様をこの地に留め置くためのものではないか。
どうしよう。気分が悪い。吐きそうだ。
「あぁ、聖女様の祈りが聴こえますね」
酩酊しているかのような声に振り向けば、通りすがりの神殿騎士がうっとりとした目で大聖堂の方を見ていた。幸福をそのまま音にしたら、聖女の祝詞になるらしい。その歌はまさに天上から降ってくるようだと。
そう言って褒めてもらったのも、昔のこと。
自身もさんざん謳った祝詞だというのに、初めて耳にしたかのような驚きがあった。こんな歌を、謳っていたというの?
これは祝福なんかじゃない。
まるで、―――――呪いだ。
「チヨリ様? どうしました?」
ニコルが顔を覗き込んでくるのに答えられなかった。視界がぐるぐると回転しだして止まらない。怖かった。このままどうなるのだろう。はぁはぁと短くなる呼吸に、さすがに異変だと気づいた護衛が私の背を撫でてくれる。睫毛が触れるほどの距離で、息を吸うことよりも吐くことに集中して、と言われるがうまくできない。
耳の奥で声がする。
『どうして、あんたなんか生んだんだろう』
母は怒っているわけじゃなかった。ただ、心底不思議そうな顔をしていた。自分自身に訊けばいいのに、娘の私に直接問うからたちが悪い。『知らない』と答えれば、お腹の中で産まれることを拒んでくれれば良かったと悪態をつく。ぎゅぅっと心臓が絞られるような気分だったのに『そうだね』と、いかにも何でもないことであるかのように同意を示した。
二人でお菓子を作ったのはもうずっと昔のことで。母は覚えてもいなさそうだった。週末になると、一緒に電気屋さんに行くかもしれないとわくわくしていた私のことなんて知りもしない。
「何で、私なんですか?」
「……チヨリ様?」
眩暈が止まらない。
「何で私だけがこんな思いをしなくちゃいけないんですか?」
苦しくて、どうしようもなくて。体温が顔に集中する。暑いのは涙のせい。きっと、心が沸騰して蒸発しているのだ。両目から零れ落ちて、身体の中心から干からびていく。
干からびた私は、人の皮を被った器でしかない。心なんかなくなれば。何も感じなくなれば。
この期に及んでまで、母のことを気にしなくて済む。
酷い暴力を振るわれたわけじゃない。命の危機にも瀕しなかった。なのに、生きている実感もなく。
だからあんなにも簡単にベランダから飛び降りることができたのだ。
「よく分かりませんけど」
そう言って、ニコルが何の造作もなく私を抱き上げた。一気に視界が高くなる。
「貴女がこの国に召喚されたのは、貴女じゃなきゃ駄目だったからですし。……まぁ、残念ならが聖女の資格を失っちゃいましたけれど。でも、一つ失ったからって何もかも全部失くすわけじゃないでしょ」
そのまま大神殿の中に入っていく。相変わらず、今にも嘔吐しそうなほどの気分の悪さは拭えないものの、さっきよりは幾分かマシになっている気がした。
「難しく考えすぎです」
聖女様の歌は今も続いている。長い祝詞だ。
この国に召喚されたとき、本来なら暗記しなければならない祝詞が全て頭の中に入っていた。考えることもなく、請われれば浄化の祝詞を諳んじることができたのだ。そしてそれは、翻訳魔法がかかっている私には難なく読める詞であるが、非常に難解な言葉の羅列だと聞く。現代語とは違うらしい。また、正確に音をとらなければ聖女の力は発動しないという。
音程もまた、半音上がったり、半音下がったり。絶妙な音の並びである。
リディアはそれらを全て記憶している。懸命に学んで。
並大抵の努力では成し遂げられないことだというのは、私にもわかる。何もかもお膳立てされて、仕立て上げられた私とは違う。彼女は聖女になるべくしてなったのだ。
「約束だったのです」ぽろりと、言葉が零れる。
「約束?」
「はい、神様との」
「神様?」
「……私、言われたんです」
―――――聖女の代わりを務めよ。
ベランダから飛び降りたときには分からなかった意味不明の言語が、世界を渡った瞬間、意味の通る言葉になった。
この世界に召喚された瞬間。たった一言だけ、はっきりと聞き取ることができたのだ。
恐らく翻訳魔法が作用した結果だろう。私はあのときまさに、神の声を聞いたのだと思う。
なのに。この国には「聖女」と呼ばれる人は存在しなかった。居たのは、かつて聖女候補と呼ばれていた人だけ。そして、その人は既にその任を降りていた。
だったら私は、誰の代わりを務めればいいのだろう。
首を傾げながら聖女の仕事をこなし、こなしていく内に私は、神の言葉を都合の良いように解釈した。
私はあくまでも先代聖女の代わりなのだと。
だけど。
聖女の役目を果たせば果たすほど。違和感が増していく。
何の苦もなく諳んじることのできる祝福の祝詞に有難みを感じない。努力せずとも言語が理解できるせいで、言葉の裏にある真意を汲み取れない。
聖女であるというだけで大切にされて、愛されるから、何をやっても許されるという傲慢さに支配されていく。
魔獣との闘いで負傷した騎士を癒し、礼を言われても、自分がやったことだという実感がわかない。
その内に考えるようになった。―――――これが、本当に聖女と呼ばれる存在なのか。簡単すぎる。
そもそも聖女とは、何なのか。
聖女なんて本当に必要なのか。聖女などいらないのでは。……だって私が、聖女なんだから。
「リディアの歌を聴けばわかります。初めから、私なんて必要なかったんだって」
必要なかったのは、聖女ではなく、私そのもの。
私はただの、繋ぎだったのだ。
視界が暗くなる。ニコルの歩みが揺りかごのようで。眠気を誘うのかもしれない。
闇に落ちれば、失くしたはずの心が戻ってきて郷愁を誘う。
狭くて散らかった部屋は、良い思い出なんてほとんどないのに。
どうしてもあの場所を思い出す。ベランダから眺めた朝日や青空、夕空、闇夜が懐かしい。この国では聞くことのない蝉の声、鈴虫の音、車のエンジン音やクラクション。騒音だって構わない。もう一度聞きたいと思う。
それなのに。もう二度と、あの場所へ帰ることはない。
母は、私がどこにもいなくて寂しがるだろうか。それともほっとするだろうか。
答えを聞くこともない。
泥に、沈んでいく。
「……故郷なんてそんなものでしょ」
「そう、でしょうか」
「故郷を持たなくても田舎の風景を見れば懐かしいと思うものです」
「……、」
「故郷を捨ててきたとしても、ふとした瞬間に懐かしく思うこともあります」
どんなにひどい場所だって懐かしく思っていいんですよ。無理して嫌う必要ないじゃないですか。と、ニコルが言う。
ふっと意識が上昇して、目が覚めた。ほんの一瞬、眠っていたらしい。
でも、どこから夢だったのだろう。
辺りを見回せば、大神殿の救護室らしいことが分かった。ベッドに寝かされているようだ。部屋の隅に顔見知りの医師が控えていて、目が合うと、軽く手を振ってくる。聖女だったときに何度かお世話になった人だ。頷けば、安心したように微笑んで部屋から出て行った。
「目が覚めましたか」
ベッドの脇にニコルがいて渋面を作っている。
「そんなに体調が悪いなら早く言ってください。本当に。心配かけさせないで」
盛大なため息と共に大きな手が降ってきて、額と頬を優しく浚っていった。
「そうですよ。チヨリの具合が悪いのなら、もっと早く知らせを寄こすべきでしたね。ニコル」
聞き覚えのある声に顔を向けると、入口近くに神官長が立っている。今しがた、部屋の中に入ってきたらしい。そのまま歩みを進めて、ニコルと入れ替わる。「面会の申請なら何度も出しましたけどね。通らなかったですけど」とぼやきながら後ろへ下がる近衛騎士を視線で追って「手順通りにやっていたら申請は通りませんよ。貴方には第一皇子殿下という特別な縁があるのだが、最大限利用せねば」と、神官長らしからぬことを言った。
はいはい、とあしらうように壁に背中をつける騎士。彼は、それでも正当な手順を踏むことを良しとするのだろう。規則を重んじるから。そういう人であるのに、許可も得ずに大神殿へと押し掛けたのは私のためだ。ニコルは、頑なでありながら柔軟でもある。良い塩梅とさじ加減で生きている。
「チヨリ。何か困ったことがあるのではないですか?」
憂いを帯びた神官長はやはり人目を引く容姿をしている。咄嗟には言葉が出てこなかったが「仕事をください」と言えば、形の良い眉に驚きの色を載せた。
「働かなくても食べていけるでしょう? 殿下がきちんと手配されているはず」
「それはもちろん、そうなのですが……」
第一皇子殿下に手落ちがあるはずなどない。
「駄目ですよ、チヨリ様。大神殿で働くなんて」
口を挟んだのは私の護衛騎士である。
「……そう、ですね。大神殿で働くことは恐らく……、できないでしょう。皇子殿下がお許しになりません」
神官長にしては歯切れの悪い物言いだ。
「私が、聖女様に近づく可能性があるからですね?」
半身を起こすと、先ほどまでの体調不良が嘘のように回復している。それに、手が、熱い。
「先ほどまでいらっしゃったんですよ」
自分の両手を見つめている私に神官長が優しく教えてくれる。
そうか。この感じは、聖女様による浄化だ。覚えがある。聖女だった頃、体調を崩したときに彼女が何度か助けてくれたから。
ということはつまり。
たった数分だけ眠りに落ちた感覚だったけれど、実際はもっと長い時間眠っていたのだろう。
「私、穢れに汚染されていたのですか?」
「穢れ、とはまた違うようですね。貴女は異世界人ですから。我々とは理が違います。恐らく、ただ、この世界の気が合わないのでしょう。身体の中に毒素が溜まるような感じらしいです」
「今までは平気でした」
「聖女だった頃は、ご自身の力で回復していたのでしょう」
つまり、聖女ではなくなったから回復できなくなったわけだ。
「……だったらこの先、同じような目に合うのでは?」
明らかに剣を含んだ声でニコルが問えば「それは分かりません」と首を振る神官長。
「何と、無責任な」
思っていたことがそのまま声に出たのかと思ったが、喋ったのはニコルである。
「そうだね。だから、皇宮で良いならチヨリの仕事を用意できるけど」
突然、扉が開いて第一皇子殿下が顔を出した。
ただちにニコルは膝をつき、神官長は椅子から立ち上がった。私も同じようにすべきかとベッドから抜け出そうとしたけれど「そのままでいい」と右手で制される。それでも降りるべきか、あるいは皇子殿下の言う通りにすべきなのか判断できない。冷や汗を浮かべていると「そのままでいいんですよ」と神官長が教えてくれた。
「チヨリ! 息を吸え!」
ニコルに言われて、しばし呼吸を忘れていたことに気づく。
「そんなに怖い?」
にこにこと朗らかな笑みを浮かべているが、この方がどれほどに恐ろしい人間なのか身をもって知っている。目的のためなら手段を選ばない人だ。大切な誰かを守るためなら、他の誰が傷つこうと気にも留めない。だからこそ「恐ろしくは、ありません」と答える。声が震えた。
「嘘つきだね」と射貫くような目つきをされれば全身が縮こまる。
「止めてください殿下。怖がっています」とニコルが言った。そもそもここへは何をしに、と続けたのは神官長である。
「リディアの祈りを聴きにきたんだよ」
彼女の名を呼ぶときだけ声が柔らかくなる。私は今まで何を見て、何を聞いていたのだろう。彼らは皆、聖女様のことを誰よりも大切にしている。
全く見抜けなかった。
「……チヨリ?」
視界がぼやける。また、泣いてしまう。同情を誘うようで嫌なのに。弱くなった涙腺はなかなか以前の強さを取り戻さない。
苦しい。
ここでなら、幸せになれるかもしれないと思っていた。
誰にも私が必要じゃない。
「あれれ、大丈夫?」
揶揄うような殿下の声にすら傷つく。ひくひく、と嗚咽をもらしていると「チヨリ様は、大神殿でも皇宮でも働きません。俺と旅に出るので」と、ニコルが思いもよらないことを口にする。
掛布を引っ張って顔を抑える。何を言っているのか理解できない。
「……どういうことですか?」
神官長が問えば「チヨリ様は、食べられない物や飲めないものがあまりにも多い。だから、彼女が好んで食べられるものを一緒に探しに行くんです」と、既に決まっていることであるかのように述べる私の護衛騎士。
「近衛の仕事はどうするの?」首を傾げた殿下の黄金の髪が揺れる。
「合間にやります」
「……何の合間? 近衛騎士の仕事が主体で、その合間に旅に出るんだよね?」
「いいえ。旅の合間に近衛騎士をやります」
え~? と緊張感のない声でさらに首をひねる皇子殿下に、至極真面目に答えるニコルは、自分がとんでもないことを口にしている自覚はないらしい。
「屋敷の侍女も心配して、チヨリ様が好きそうな食べ物や、飲み物を逐一記録しているのですが、リストがなかなか増えません。このままだと困ることになると予想されるので、いっそのことこちらから舌に合うものがないか探しに出てみようかと」
「何言っているかよく分からないんだけど。分かる? 神官長」
「いいえ」
皇子殿下がベッド脇まで歩いてきて、神官長の横に並び、不意に手を伸ばした。身構えると、頬に落ちた涙を拭ってくれる。
「僕は君が思うほど悪い人間じゃないつもりだよ」
そうですね。聖女様にチヨリを癒すように厳命されたのも殿下ですしね。と神官長が補足した。
「ニコルが言うのも一理あるかもしれないね。この国の食事が口に合わないこともあるだろうし、他国の食事が口に合うこともあるだろう。我が国の友好国であれば比較的、入国しやすいし。……行ってみる?」
「……、」
咄嗟には返事できず黙り込んでしまう。まぁ、ゆっくり考えてみれば。と頭を撫でられて、頷いた。確かに優しい手をしている……、気がする。
「あと、殿下。チヨリ様はもう祝詞を謳ったりはしませんよ。今から花まつりに参加する予定ですし」
「へぇ、そうなんだ」
「そうなんだって……、チヨリ様が今でも祝詞を覚えているか確認するように言ったでしょう」
「そうだっけ?」
「そうなんですよ」
とぼけているのか。あるいは、祝詞を覚えていたところで用なしなのか。よく分からない。
ただ、私の祈りがもう必要ないらしいことは察しが付く。心底、ほっとしていた。
もう、誰の代わりもしたくない。
「花まつり、私も参加できるんですか?」
「当たり前でしょ」と、ニコルが笑う。




