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気分が悪い。
そう思い始めたのは私が聖女の位をはく奪されてしばらく経った後である。歩いていても足裏が浮いているような感覚があった。めまいがして立ち上がれなくなることも少なくない。ただ単に疲れているからだと思っていたけれど、何だか違う気もした。
「花を?」
「はい」
公園で花売りの少年を見てからずっと考えていたのだ。私にはきっと社会経験というものが必要だ。既に聖女ではないのに準貴族に当たるからと立派な屋敷とそれなりの身分を与えられているが、それだけではこの国に順応できない。それどころか自分の目で見て、耳で聞いて、実際に触れ合わなければ何も知ることはできないだろう。
浄化の旅でも国中を巡ったが、そのときは四方八方に護衛が居て完全な護りの中にあり、籠の鳥でもあった。それではなかなか仲間以外との交流は難しい。また、聖女の役目を果たすことに集中していたため他に目が向かなかった。
「駄目ですね」
花売りをやってみたいと言ったところであえなく却下された。
「な、なぜですか?」
「ご自分の立場をお忘れですか?」
「立場?」
「貴女様は異世界からやってきた元聖女です。その髪、その目、その肌、その存在そのものが目立ちます。貴女は、公には異世界に還ったことになっているのです」
それに、花売りは成人前の子供がやることです、と言い聞かせるような素振りをする。
また、世間知らずと思われただろうか。
「大丈夫です! 私、ほら、童顔で子供みたいに見えるでしょう? 髪は隠せばいいですし」
広い応接室に、自身の甲高い声が響く。それほどに室内は静まり返っていた。
日本で生活していた頃は、窓を開けていれば色んな音が入ってきてうるさいほどだったのに。一人きりでも、すっかり音が消え去ることはなかった。飛行機のエンジン音やヘリコプターのプロペラの音、遠くからは救急車のサイレンが響き、時々は踏切の警告音まで聞こえたものだ。
それに、そもそもが壁が薄いこともあり、屋外からの音を拾うことはなくとも、隣人の気配を感じることはあった。
今は。屋敷も庭も広すぎて、黙っていると本当に何の音も聞こえない。仕事中の使用人たちは無駄口を叩かないから耳鳴りがしそうなほどだ。彼らが動くときの衣擦れの音は、なぜか不安を誘う。
「はぁ、」
侍女の呑み込むようなため息を、無意識にも耳が拾った。ニコルは気づかなかったのかそのまま話を続ける。
「いいえ、そういうことではないのですよチヨリ様。花売りは子供たちのための仕事なのです。大人がするものではありません」
聖女としての役目を担っていたときは、おくるみに包まれているかと錯覚するほどに過保護だった。子ども扱いするなと怒ったこともあるほどなのに。今や完全に成人扱いである。
その落差に、心が追い付かない。
転移する前は文字通り未成年で、早く大人になりたくてしょうがなかった。なのに、いざ成人として扱われると少なからず構えてしまう。どうしても大人にはなりきれない。
「彼らの仕事を奪ってはいけません」
いっそ冷たく突き放すような物言いで制された。そうか、そういうことになるのか。
「それにチヨリ様が単独で街へ下りることはできませんよ。護衛が必要となります」
「ニコルでは駄目なのですか?」
「俺は四六時中、チヨリ様についていることはできません。本来はカレストフ殿下の傍にあらねばならないのです」
俺が今ここにいるのはあくまでも便宜的な対応でしかありません。と続けて、侍女に食事を持ってくるように促す。この家にはまだ家令がいないので必然的に、ニコルが取り仕切ることになるのだ。使用人をまとめる役目を担う人間については、皇宮側で選定している最中だと聞いている。
元聖女だというのに、もはや聖女ではないので大神殿との関わりは絶たれたまま。これから先もつながることはないだろう。それどころか、ニコルがいなければ皇宮との繋がりさえ断ち切られてしまう。そうなれば、私は本当に一人きり。
何の後ろ盾もなく、何の仕事もなく、ただ生きているだけのごく潰しとなるだけ。
『聖女様すごい!』
魔物の瘴気に汚染された村を浄化したとき、村の子供たちが歓声を上げて喜んでくれた。大人たちは次々に感謝を述べ、その夜は村をあげての宴会となった。村中から食べ物をかき集めてくれて、私の前にはたくさんの料理が並んだ。
湯気のたった肉の塊を前にして声が出ない。
陽気な音楽と歌声、お酒の匂い。踊り子の足首についた鈴が、唸るように鳴る。歌声が空気を震わせて、村に平穏が訪れたことを祝福した。
到底、現実とは思えない光景を視界に捉えながら、私は一人、日本で冷蔵庫を漁っていた日を思い出していた。
頬を切る冷気と、チルドの仕切り板を開いたり閉じたりする小さな手。本来ならふくふくとしているはずの手の甲には筋が浮いている。言わずもがな私のものだ。
何か食べたいのに冷蔵庫にはミネラルウォーターのペットボトルが二本と調味料の瓶、いつのものか分からない煮物の皿があるだけ。だけどそれは母の恋人のものだから触ってはいけないと言われていた。
お腹が空いた。
冷蔵庫の冷たく、薄暗い箱の中に自分の声が響く。もちろん、返事はない。
振り返ればテーブルに食べかけのお菓子の袋があった。これもいつのものか分からない。食べていいだろうか。勝手に手を付けると怒られる。
でも、胃の中は空っぽだった。
『ささ、聖女様。遠慮なく召し上がって!』
一向に手を付けないことに焦れた様子の村長が声をかけてくる。だけど、見たこともない料理に臆してしまい、なかなか手をつけることができなかった。強引にフォークを握らされてやっと一口、二口食べてみたもののそれ以上が難しい。
結局、ほとんど食べられなくて、会食後に護衛が用意してくれた携帯食料を食べた。
『こんなものでいいんですか?』と騎士に問われたのは、お世辞にも美味しいとは言えないものだから。
けれど、一見するとお粥にも似ているので苦も無く頬張ることができた。
それだけでは味気ないでしょうと、他にも日本で食べたことのある栄養補助食みたいな、四角いお菓子もくれて。口の中で解けるもそもそとした食感も似ていたので、懐かしさを覚えつつ胃を満たす。
『良かった。食べられるものがあって』
あのとき発した己の、あまりに無神経で思いやりのない言葉を聞いていた人間は少なくない。
その日、村で出された食事が彼らの数日分の食料だったことを知ったのは、王都に戻ってからである。
文字通り、彼らの命にも等しい料理には関心も寄せず、いつでも食べられる味気ない携帯食料を選んだ私。
それを見て、村人たちは何を思っただろう。
「聖女様……、じゃない。チヨリ様。朝食がまだでしょう? 余計なことは考えずにゆっくりとしてらしてください」
「……はい、」
この国に来てから、自分が案外偏食だったことに気づいた。
普段は何でもない振りをしているが、特に動物の肉が苦手だ。鶏肉に似ているのは比較的大丈夫で、食べられないことはないが、口に入れる前にやはり躊躇いを覚える。
日本に居た頃は、自宅で満足に食べられない分、学校給食で出されるものはこれ幸いと食していた。何でもおいしく感じていたことを踏まえると、自分でも不思議に思う。
ここでは、肉類以外にも苦手なものがあるし(それでも食べるけれど)味付けにも慣れない。飲み物ですら何か違うと感じる。一度、口に入れてから吐き出してしまうこともあった。
「……!」
ほら、まただ。吹き零すまではいかないものの、口に含んでいたジュースが顎を伝って膝に落ちる。
「……ああ!」と失望の声を漏らしたのはグラスを渡してくれた侍女だった。
ふぅ、と息を吐いたニコルが水に果汁を混ぜたものを用意してくれる。要するに、全ての食料、飲料の味が濃すぎるのかもしれない。
機転の利くニコルのおかげで事なきを得たが。飲み物すらまともに飲み込めないのは辛いものがある。
お腹は空くし、喉は乾くのに。
お腹がいっぱいになるまで食べることができない。
「また、全部食べられなかったんですね……」実年齢よりも落ち着いて見える侍女が、肩を落とす。傍に控えていたニコルは「まぁ、そう言うな」と皿を下げるように指示した。
皿の上にはまだ、料理が残っている。
悲しい。
日本に居たときよりもよっぽど恵まれた生活をしているのに。こんなにも贅沢ができるのに。残すほどたくさんの料理を出されても、何一つちゃんと受け取ることができない。
何一つ、満たされない。
*
「チヨリ様。今日は午後から大神殿へ参ります」
「え?」
「聖女様へのお目通りは叶いませんが運が良ければ神官長と会えるかもしれません」
「運が、良ければ……?」
「はい。神官長との面会にも事前の予約が必要なのですが、……取れなかったので。強行突破です」
「……えっ」
「大聖堂にお祈りに参りましょう」
神へ祈りを捧げることについては、誰にも禁止されておりませんし。と、まるで神官の説法のようなことを口にする。
「チヨリ様、俺は、俺の命は、第一皇子殿下のものであり、それはつまり心も捧げているということです。建前ではありますが。もちろん、この命は殿下のものだと誓いはたてています。けれど。本音を言うなら、殿下のためだけの人生にするつもりもありません」
「あの、それは、」
言ってはならないことでは。そう指摘することさえ憚られるような内容を、冗談でも何でもなく、至極真面目に語る近衛騎士。
「だから俺は貴女の味方ですよ」
真っすぐに告げられた言葉にありがとうと礼を述べるべきだと知っている。聖女だった頃なら、屈託もなくそう返していただろう。でも、日本でも子に国でも、他人は信じるに値しない存在だと思い知らされた現在。味方だと言われて、それをそのまま信じることは難しい。
『私は貴女の味方だから』
昔、そう言ってくれた人がいた。幼かった頃のことだ。声の主は、隣人である。
マンションのエントランスホールで出会ったその人に『昨日も怒られちゃったの?』と頭を撫でられる。優しい微笑と、優しい声音。良いことをしたわけでもないのに、褒められているようで奇妙な心地になった。
何で私の髪を梳くのだろうと、ピンクのマニキュアが塗られた指先を見つめる。
困ったように首を傾げたその人が『おばさんは、貴女の味方だからね』と、ついさっき口にした言葉を繰り返す。そして『飴、あげる』と手の平に載せられたキャンディ。
自然と口元が綻んで、いいの?! と返した声が辺りに響いた。はっと、口を噤んだのは昨晩、大して喋ってもいなのに「うるさい!」と怒鳴られたからだ。
壁の薄い安マンション。母の金切り声こそ、周囲に轟いたに違いない。
『どうにかしたいけど……。なかなかうまくいかないねぇ』
隣人はそう呟き、もう一度私の頭を撫でる。そして、『お家に帰ろうね』と手を繋いできた。
そもそも私が、マンションの玄関にある古いソファに座り込んでいたのは、その数時間前に部屋を追い出されたからだった。
といっても「ちょっとの間、出てて」とお願いされただけなので、引きずり出されたわけではない。
呼ぶまで帰って来ないでと言い含められて夕方頃、自宅の玄関を出た。
何も持っていなかったので、することもない。だから、エレベーターで一階に下り、エントランスから手入れされた中庭を眺めていたのだ。
そこに通りかかったのが隣人で。彼女はちょうど、仕事を終えてマンションに帰ってきたところだった。
こんなところでどうしたの? と問われ、答えに窮していると唐突に放たれた『私は貴女の味方』という言葉。だけど、真意を掴むのに、私の思考は幼すぎた。彼女が何を言わんとしているのか理解できなかったのだ。きっと不思議そうな顔をしていたのだろう。その人は、困ったように笑った。
そうして、家へ帰れば。
インターホンを押した隣人に、迷惑千万といった様子で扉から顔を出した母。
何ですか? と冷たく言い放った後、私を一瞥して顔色を変える。
『お嬢さん、あんなところにいたら危ないから』と、さっきよりも低い声が暗い廊下に反響した。
はいはい、とあしらうように私の腕を取った母の爪が皮膚に食い込んで痛い。
部屋の中に押し込まれて、それでも何となく閉じていく玄関扉を目で追っていると『忘れないで!』と、滑り込むように、女性の声が追いかけてくる。
母は気にも留めていなかった。
その後、我が家には警察が来て。心臓が激しく音をたてたのは、警察官が悪い人を捕まえると知っていたから。咄嗟に、私のせいだと思った。
対応に出た母の猫なで声が不安を煽る。だけど、私が顔を見せると警察官はなぜか安心した様子で帰って行った。その後、市の福祉課の人も何度か顔を見せたけれど、何かが変わることもなく。
ただ、月日は流れ。
ある日、学校帰りの道端でばったり出くわした隣人が言った。
転勤するの。
その人とはそれきりだった。
ごめんね、助けてあげられなくて。その言葉が上滑りして、大気に霧散する。受け取ることのできなかった謝罪が、誰に向けられたものかすら、よく分からなかった。
―――――この世に、優しい人はそれなりに存在していて。いつだって私に手を差し伸べてくれた。けれど、そうやって示された善意のせいで、私の世界は前よりももっと悪くなった。
意味もなく頭を撫でられたから、何でもないときに母にも撫でてほしいと思う。
甘いキャンディを食べたから、もう一つ欲しいと思うし、母と一緒に食べたお菓子を容赦なく思い出す。
指先の優しい感触を知らなければ、撫でてほしいなんて思わずにいられたのに。
甘いキャンディを知らなければ、もっと欲しいなんて思わずにいられたのに。
それまでの私は多分、ずっとぬかるみに足を突っ込んでいて、だけどそれを知らずに生きていたのだ。ただ、周りを見る余裕がなかったに過ぎない。肩を叩かれて、もっと周りをよく見るように言われてみれば。
見たくなくても、見てしまう。
眩しい。
世界は明るく、優しく、輝いていた。
だから、自分がどこに立っているのか嫌でも理解せずにはいられなかったのだ。
私は、少し動けば沈んでいくような汚泥の真ん中に立っていた。




